昨日の記事、「信心の薄い人間にとっては…」のつづきは、東京国立博物館(東博)の総合文化展、他の博物館・美術館でいうところの常設展から目についた展示をご紹介します。
江戸時代、現在の上野公園が寛永寺の寺域だったことはよく知られたとおりで(約2年前のブラタモリでも取り上げられましたっけ…)、その辺りは私もよく存じ上げています。
で、寛永寺の正式名称は、「東叡山寛永寺」。京都の鬼門:艮(うしとら=北東)に位置する比叡山延暦寺の「江戸版」として、江戸城の鬼門を守る「東の比叡山」という見立てです。
ご丁寧にも、不忍池が琵琶湖で、弁天島が竹生島で、、清水観音堂が清水寺の見立てという念の入れよう
前振りはこの辺にしまして、東博・本館1階の16室では、特集陳列「東叡山寛永寺」が開催中です(10月20日まで。リーフレットのPDFはこちら)。
ここで陳列されていた、江戸時代初期(17世紀)の寛永寺の地図がこちら。
そして、現在の上野公園の地図がこちらです。
こうして並べてみると、現在工事中の大噴水がある辺りから東博の辺りまで、すべて寛永寺の本堂(根本中堂)と本坊だったことがよく判ります。
いったい、往時はどれだけ大きいお寺だったのか…
それが、江戸末期、江戸城の無血開城に反発する勢力(彰義隊)が上野に立てこもり、官軍と戦った上野戦争の結果、寛永寺は灰燼に帰したのだとか。
こんな風に江戸のランドマークの一つだった寛永寺が、
上野戦争が終わってみるると、、、
廃墟…
上野戦争の激戦を語るような、こんなのも展示されていました
う~む、生々しい…。
いまでこそ、平和そのものの上野公園と、その中でも知性に充ち満ちた東博が、150年ちょっと前は戦場で、そのまた前はお寺の本堂の敷地だったなんて…。
日本各地にある公的な博物館では、「郷土の歴史」として、その博物館が建っている場所の昔の様子を教えてくれるジオラマがお約束みたいなものですが、東博にはありません…
現在の東博のジオラマはあるのですから、是非、江戸時代の上野の山をジオラマにして展示していただきたいと切に思います
もっとも、東博のコンセプトからはずれてしまいますが、そこは、私の趣味ということで…
つづき:2011/11/17 久しぶりの東博のお話は匍匐(ほふく)前進