原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

いじめられている君、今はとにかく逃げよう。

2012年07月26日 | 教育・学校
 「いじめ」に関する記事は、「原左都子エッセイ集」教育・学校カテゴリーバックナンバーにおいて再三再四綴り公開してきている。


 私自身に関しては、子どもの頃から現在に至るまで、明瞭な“いじめられ”経験はないと言えそうだ。  
 もしかしたら、これは「いじめ」なのだろうか? あるいは、あの子(人)のあの言動は私を“いじめたい”とのメッセージだったのだろうか? 等々と思い起こすことはある。
 それでも、私には“いじめられ”経験はないと言い切れるのは、それらが後々トラウマになったり、それがために我が人生を歪められるほどのインパクトがない、取るに足りない出来事の位置付けであるからだ。


 片や、我が子が小さい頃の“いじめられ”ようには難儀した。
 何分、多少の事情を持って生まれて来ている。 集団内における“いじめ”ターゲット”としては持って来いであろうことは原左都子としては重々想定内だったものだ。

 案の定、私立幼稚園に入園直後3歳の頃より“いじめ”に遭った。 級友に「飼い犬」のごとく扱われたり、自分よりずっと体が小さい女の子(問題児だったようだが)より殴る蹴るのストレス感情はけ口対象にされたりと……
 それが入園前より想定内だった私は、我が子を幼稚園バスで集団登園をさせず日々送り迎えすることにより、園へ直接出向き状況観察をした。 何分、元々観察力や推測力に長けている私である。 周囲の子ども達のちょっとしたしぐさや言動を見聞きすれば、我が子の交友状況や置かれている立場がある程度理解可能だ。 発語が遅れ気味だった娘に言葉による説明責任を迫ったところで埒が明くはずもない。 母親自らが積極的に子どもを守るべく行動に出たということだ。
 2年間その状態で子どもの安全を見守ったものの、結局幼稚園との話し合いを通しても園内での“いじめ”は解決されないと結論付けた私は、「逃げる」 という結論を下した。
 要するに退園手続きをとったのである。 その後、転園先の私立幼稚園でも娘の居心地は芳しくなかったのは事実だが、これもある程度は想定していた私だ…

 その後、我が子が公立小学校に入学後は幼稚園の頃のようには送り迎えは出来ない。 それでも私は帰宅後の娘の状況観察を欠かさなかった。 いつもと異なる内外心身的素因を発見した場合はすぐに対応した。 何分まだ言葉少ない娘である。私の方から(もちろん優しく遊び感覚で)いろいろな問いかけをして状況把握をする日々だった。

 そんなある日、体育の授業もないのに帰宅直後の娘の着衣が乱れていた。 
 「今日は学校で何かお洋服を脱ぐことがあったのかな?」等と語りかける私に対して、当時6歳の娘の表情がとっさに硬直したのを私は見逃さなかった。(実は私は学校の日々のスケジュールもすべて把握していて、今現在娘が何の授業を受けているのかも手に取るように分かっていた。) 「今日学校でお洋服を脱いだの??」と問い詰める程に娘はますます口を閉ざす。 これは何かあった!と直感した私だ。
 早速、小学校の担任先生に問い合わせの電話をかけた。(参考のため、この担任先生とは娘の事情に関して入学直後より意思の疎通があり、先生側からも協力体制をとってくれていた。) 担任先生が即刻調査してくれたことによると、学校の放課後「学童保育」(当時私が医学関係の仕事に携わっていた関係で娘をそこに預けていた)のトイレ内で複数の学童保育児から洋服を脱がされるとの“いじめ”に遭ったとのことだ。 直ぐに学童保育現場の責任者からも謝罪が来た。 早期に原因究明が出来てよかったと言うことだが、私はその後即刻医学関係の仕事を短縮して、娘を「学童保育」施設より退所させた。(要するに「逃げた」) 
 学童保育現場の対応が素早かった事には今尚感謝している。 ただ一言「子供に可愛い格好をさせると、周囲からこの種の“いじめ”が発生してもやむを得ないのではないかとも思う…」との当時の女性学童長の“控え目な一言”が今でも印象深い…。 (いじめる方こそが真の弱者であるが、常に弱者保護観点の立場にある私もそうであろうことは認める。 それでも人の趣味・嗜好とは一生曲げられないものでもあるとも思い)“いじめ”現場である学童保育から即刻「逃げる」決断を私は下したのだ。

 その後娘は公立小学校内で進級するが、どうしても我が子に対する周囲児童からの各種「いじめ」行為は後を絶たない。 担任も若い世代の女性に代わり、娘にとってますます居心地が悪くなった事情等も踏まえ、我々一家はまたまた転居という手段で“いじめ”現場から「逃げる」との決断をした。
 転校先の公立小学校に於いても、まだまだ我が子は(物が無くなる、手提げ鞄を切られる等)“いじめ”らしき被害に遭うものの、少しずつ成長を遂げていた我が娘に私は「実害なければよし、としよう。」と言いつつ、娘もそれに耐えて無事に小学校を卒業してくれた。

 中高は私立に入学した後も娘が言うには“上履きの中に画鋲を入れられる”等のいじめに遭ったようだ。
 それでも無事に私立中高を卒業し、今では第一志望大学へ進学して学問に“苦しむ”事が可能な日々が訪れている。 


 滋賀県大津市の市立中学2年の男子生徒がいじめを受け、2011年10月に自殺した問題に関連して、現在種々の報道がなされている。
 この事件に関しては、当初男子生徒への“いじめ”の実態を否定した学校や教育委員会の対応の過ちが指摘された事により、遅ればせながら今頃になってその真相究明がなされていると私は解釈する。
 是非共その真相究明が公平に成されると共に、加害者責任を厳重に問い正すべきと原左都子も心得る。

 
 この事件に関連してか、現在朝日新聞紙面で「いじめ」に関する“見識者”達によるメッセージを朝刊で連載中のようだ。
 
 その中には原左都子に言わせてもらうと、いじめられている人物の“切羽詰った”状態を本気で理解できているのか?!? との拍子抜けのメッセージが数多く存在するのだ。
 上記朝日新聞記事より少し紹介しよう。

 「一度抵抗してみたら」と言うのは経済アナリストの森永卓郎氏。 氏の論評内容を読むと、抵抗できる程度の関係というのは単なる子ども同士の“喧嘩”の範疇であり、「いじめ」とは言えないのではあるまいか?

 モデルの押切もえ氏は「主役は自分 夢を持って」と言う。 ご自身も過去に於いて「なにちゃらちゃらした服着てんの」との「いじめ」を受けたとの事だが、その文言自体が現在モデルをやっている自己PRのようにも受け取れるのだけど。 そもそもいじめにより自殺を志している子どもに向かって「夢を持て」とは物凄く酷な表現だよ…

 次に、教育学者の斉藤孝氏。 「一人になって読書しよう」と氏は言うが、そんなことが可能になるのは自殺願望から一命を取りとめたずっと後のことであろう。 ただし、斉藤氏が「一人でもいきていくんだ」という独立心は小中学生にとって大切な事だと訴えているところには私も賛同する。

 そんな中、「友達作り苦手でいい」との表題で“いじめられている君へ”ご自身の見解を示した 社会学者 土井隆義氏の見解と原左都子の私論が一致する。

 
 我がエッセイの最後に上記土井氏のコラムを要約して紹介する事により、現在「いじめ」に遭って苦しんでいる君への原左都子からのメッセージとしよう。
 竜巻もいじめも、被害を避ける合理的な方法はまず逃げることだ。 私(土井氏)は大学でなぜ若い人が今の世の中で生きづらいのかを研究しているが、そこで思うのは「絆」や「つながり」が重視されすぎることだ。 親も先生も「人間関係」を大事にしろと言うが、私はそれを「つながり過剰症候群」と呼んでいる。 過去に創造的な仕事をした人の多くは、孤独を抱えていた。人と違うから創造的な仕事ができるのだ。 人間関係は偶然の産物。学校の学級なんて貴方の意思とは無関係に作られている。 級友との関係にこだわる必要はない。 今学校での友達づくりが苦手でも、まったく気にする必要はない。

 社会学者の土井隆義先生、素晴らしいアドバイスをありがとうございます!
 原左都子の我が子に対する“いじめ”の対策も結局は「逃げる」(すなわち娘を取り巻く環境をガラリと変えてやる)事だったが、それが功を奏して今現在娘なりに立派な大学生として成長を遂げている。
 
 今現在“いじめ”に遭っている若年層の方々。 ここはその場から何が何でも今すぐ「逃げ切る」ことを一番にお勧めしたいものだ。