原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

高齢者の尊厳とケア両立の狭間で…

2012年07月19日 | 時事論評
 今回の記事は、原左都子の「高齢者介護施設訪問記」とも表現できる内容である。


 昨秋80歳を迎えた我が義母が、先だって高齢者介護付マンションに単身で入居する事が決定したエッセイを綴り公開した。(よろしければ先月公開の「老後とは自ずと孤独になるものだけど…」をご参照下さい。)

 少しバックナンバーを振り返らせていただくと、数年前より足に不具合が生じた義母だが、ここにきてその痛みの悪化と平行して周囲も驚くべく急激に老け込んでしまった。
 現在に至っては低いレベルではあるが要介護認定も下り、本人の希望もあって介護付マンション入居を決定するに至ったのだ。

 7月に入って直ぐ、いよいよ義母のケアマンション入居日が訪れた。
 引越しの手伝いを申し出た私だが、「大した荷物は持ち込まないからその必要はない」との義母のお断り意向に甘える事とした我が家である。 加えて義母曰く、「入居直後はケアマンションでの暮らしに慣れることに集中したい。 入居早々下手に身内に会うと里心がついてしまいそうだし…  こちらから連絡するまで来なくていい。」
 この期に及んで何とも気丈な義母の決意の程を改めて理解すると共に、これだけしっかりしているならばケアマンションでもうまく渡っていけるかもしれない、などと無責任な解釈で義母の意向に従いつつ、とりあえず家族皆で連絡を待つこととした。

 その後2週間程経過して、やっと義母よりの“面会許可”が下りた。 その際も「何も持って来なくていい」の一点張りである。
 義母とは電話で連絡を取っていた身内(義母の長男)の話を聞いても埒が明かないのだが、私の判断で日持ちするお菓子などを持参することとした。

 ケアマンションの入り口に到着したところ、施設のケアスタッフがご丁寧にも我々を出迎えてくれる。
 
 ここで参考のため、有料の高齢者介護施設もそのランクの程はまさに“ピンキリ”であるようだ。
 我が義母が入居したケアマンションは、ある程度恵まれた位置付けにあるのかもしれない。 入居時一時金1,000万円程度に加えて、月々の定額基本サービス料金が30万円弱。 ただしこれはあくまでも基本サービス料金であり、常駐している医療関係者やケアスタッフに付加的サービスをお願いする場合、その都度追加料金が発生するらしい。 一日3度の食事と2度のおやつ、月2回の定期健診、及び施設が提供する入居者向け啓発プログラムへの参加等は基本料金内との事である。
 その他に関しては、館内諸施設を利用するなり外出するなり居住者個々人が自由に過ごしてよいと、私は義母や身内から見聞していた。

 ところが、(あくまでも“集団嫌い”の原左都子の感覚として)ケアマンション内に於ける“自由”の解釈がまったく異なる事に驚かされたのである。
 何と言っても、徹底した管理体制が貫かれている。 少し外出するにしても“届出許可制”が強制されていたり、あるいはおやつの追加なども3日前までに事務局まで届出なければならないようだ。 この日も、義母の好意で我々の分のおやつを追加注文してくれていたようだが、それを届け出たのが少し遅かったとのことでケアスタッフより義母が厳重注意を受ける事態となり、何ともいたたまれない思いだった。 我々が帰る段となり、義母が見送りたいとの事で建物の外部へ出ようとした時、後ろからスタッフが追いかけて来て「何処へ行くのですか? 外出の際は届け出る規則となっています」とまた叱られてしまった…
 もちろんこれらの措置は要介護入居者の安全確保が第一目的ではあろうが、これだけ徹底した管理体制で縛られ自由を制限されるとなると、私など生きている心地がしないものだ。
 

 とりあえず義母は元気そうで何よりである。 久しぶりに会った長男夫婦の我々の来訪をそれはそれは喜んでくれ、自分の居室で義母なりの“心よりのおもてなし”を申し訳ない位にして下さるのだ。 例えば「今日は暑いけど○子さん(私の事)はお抹茶などいかが?」「喜んで頂きます!」と私が応えると、すぐさまお茶をたてて振舞って下さる。 あるいは書道も得意な義母なのだが、都合よくケアマンションの啓発プログラムに「書道」の時間も設けられているとの事でそれにも参加して楽しんでいるようである。

 その反面、やはり身内の立場としては心を悩ます事態もマンション内で発生している様子だ。
 この施設の場合、要介護認定が下されている高齢者対象の介護施設であるためそれ相応の入居者が存在する実態だ。 義母が今一番困惑しているのが、入居直後より仲良くして下さる女性が実は「認知症」であるらしい。 この女性は元大学講師との事で、元実業家の義母と最初は意気投合したものの、付き合いが長くなるに従い“とんちんかん”な事を言い始め現在ではその対応に困惑しているとの義母の嘆きである。
 (この懸案に関しては、義姉が既にケアマンションの義母担当ケアマネージャーに対応して、今後は施設内で配慮を行うとの事だ。)

 あるいは私自身が感じた現象として、施設内のケアスタッフの態度は我々訪問者に対しては実に丁寧である。 ところが、入居者に対する態度は明らかに異なっている。
 我が義母など要介護レベルが低いにもかかわらず、現地のスタッフの皆さんはまるで子供にでも接するかのごとくの“失礼な”声賭けをしているではないか!
 元々“人間が出来ている”義母は、それでもいつものごとく懇切丁寧に対応している。
 これだけ“腰が低い”義母の場合、このケアマンション内でも生き残れるのであろうが、高齢者の尊厳とはどうあるべきかと原左都子が反発心を抱かない訳がない。

 身内としてそのように感じるならば、(義母自身が培った資産で自分の意思により入居したとしても)、後世には迷惑をかけず一人の人間として静かに死を迎えようとしている義母を、ケアマンションにぶち込む事を我々が阻止することも出来たはずだ。

 ところがこの議論が困難なのは、たまに会うと素晴らしい言動をする義母であれ、それが毎日の生活となると、やはり足の不自由さ故のケアが現役世代に日常的に降りかかってくるとの話に行き着くのが、悲しいかな避けられない事実なのである。
 

 「介護制度」の導入により、自宅で老人の介護をする人は今の時代急減しているのであろう。 
 それでも我が実母も含めて身近に存在する体の自由がままならない老人達が、出来る限り有意義な余生を送って欲しい思いには変わりない。
 以前も述べたが、年老いた親の介護を自宅で親族が引き受けるのが一番幸せとの、ある意味で次世代にとって“脅迫的親孝行押付け道義”世論も今となっては既に過去の所産であろう。
 そのように結論付けねば、これ程に政治経済危機に瀕している世の中において次世代の負荷が多すぎるのが事実だ。

  そんな時代背景を勘案しつつ、我が親族老人達の今後短い人生の安泰を願い、生きる場や方策を共に模索し続けたいものである。