夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「ラクに、考えずに買いたい」“利便性消費”の到来、時代遅れの老ボーイの私は、微苦笑を重ねて・・。

2016-11-16 17:31:25 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの72歳の身であるが、
ときおり愛読しているネットの『東洋経済オンライン 』を見たりしていた中で、
【 急増する「買い物が面倒くさい」人のホンネ 】と題された記事を見た。

そして我が家の買物の方針とは違うよねぇ、と思いながら、
何かと好奇心が強い私は、最近の社会状況も学びたく、精読してしまった。

この記事は、「日本人消費者」の実態に詳しい松下東子さんが寄稿された記事で、
『東洋経済オンライン 』に11月15日に配信され、無断ながら転載させて頂く。

《・・急増する「買い物が面倒くさい」人のホンネ 

多少高くてもよいから、いろいろ探しまわったり比較したりせずに、手に入りやすいものをラクに買いたい――。

野村総合研究所の「生活者1万人アンケート調査」では、
1997年から3年ごとに日本の消費者のトレンドを追いかけているが、
直近の調査では、上記の「ラクに、考えずに買いたい」という、“利便性消費”が大きく伸びている。

時系列の大規模アンケート調査をベースにまとめた『なぜ、日本人は考えずにモノを買いたいのか?』を上梓した著者が、
消費離れだけでなく、あれこれ迷ったり考えたりという消費の“醍醐味”を楽しむ傾向すらも希薄化して見える、
現代日本の消費者の意識・行動や、今求められるマーケティングの方向性を解説する。
             

☆モノを買うのが面倒くさい? 消費を楽しまない消費者

「仕事と子育てと家事で、毎日バタバタ。
自分のものを買いたくても、とてもゆっくり選んでいる時間なんてない」

「最近は何を買うにしても、選択肢が多すぎて困る。
正直いろんな機能の違いも、何が重要でどちらがどう良いのかわからないし、どれを選んだらよいかわからない」

「スマホのコスパは異常。ゲーム、コミュニケーション、情報収集や写真撮影・・・
これさえあれば24時間何でも楽しめる。
買い物をじっくりしようという気が起こらない」

現代日本の消費者からは、こうしたさまざまな理由で「モノを買うのが面倒くさい」という声が聞かれる。

野村総合研究所では1997年から日本の消費者の意識を追いかけてきた。
その結果を見ても、この傾向は顕著に表れている。
             

☆現代日本の消費者は忙しい

我々の調査では、直近2015年で大きく構成比を高めていたのは、
「利便性消費スタイル」(多少高くても、手に入りやすいものを買う)だった。

現代日本の消費者は忙しい。雇用状況の回復や女性の社会進出推進の気運、消費増税による生活費増などを背景に、
共働きを選択する夫婦が増えた。
消費盛りの子育て世代は、おカネに余裕はできたものの、時間がない家族が増えたのだ。

また、市場は成熟化し、買い物の選択肢とそれにまつわる情報は膨大だ。

たとえば、今、自分がテレビを買おうとしたときに、
画素数、音質、その他機能についての多くの「スペック情報」でしのぎを削る商品群が、店頭やネット上に並ぶ。

自分が重視すべきスペックは何なのか、結局どれを買うことが最も自分のニーズに合っているのか、
買う側にとっては、本当に判断が難しい。

「スマホで疲れ目がひどいので、目に優しいテレビがほしい」
「料理しながら、キッチンから見ることが多いので、遠くでも音がクリアに聞こえるとよい」などの
ちょっとした自分の希望を叶えてくれるスペックを持つ商品はどれなのか、
誰かに教えてほしいと思ったような経験はないだろうか。

さらに、ここ数年でスマートフォンは若者を中心に、その上の年代のビジネスマン、主婦、シニア層にまで大きく普及した。
誰もが「24時間願いを叶えてくれる小さな魔法の機械」を持つに至った現在、
わざわざおカネと時間をかけて、探して選びぬいてまでほしい商品・サービスには、なかなか出会わなくなっている。

結果、どれがよいか迷ったり、自分に合うものを探したりといった消費の“醍醐味”を楽しむ傾向が希薄化し、
「考えずに買いたい」消費者が増えている。
モノを買うのが面倒くさい、そんな消費者の意識がデータからは見てとれる。
             

☆スマホの小さい画面で、いちいち情報比較はしない

スマートフォンの普及は、もうひとつ大きな変化を消費者にもたらした。

インターネットが手のひらサイズの機器で外出中に楽しめるものとなった結果、
部屋にこもってパソコンに向かうのではなく、街に出かけるようになったのだ。

余暇の過ごし方も様変わりし、直近2015年調査では、
パソコン、ビデオ・DVD鑑賞、ゲームなどの「巣ごもりレジャー」を楽しむ人の数が減少、
外食・グルメ・食べ歩きや映画・演劇鑑賞など、近場で友人などと楽しむ「街レジャー」が伸長している。

街に出て外食やイベント、人付き合いなどのコト消費に、おカネと時間を使うようになった結果、
「買い物」に使うおカネと時間は、さらに減ることになる。
             

☆スマホ時代のインターネット情報に求められること

また、パソコンでしっかりと情報収集・比較を行っていた時代には、
情報量の多さや一覧性、比較容易性が評価されていたインターネット情報だが、
スマートフォンの小さな画面では、スクロールしたり、画面遷移したり、複数画面を比較したりといったことは行いにくい。

スマートフォン時代のインターネット情報は、
より簡単で、直感的に理解できるもの、共感できるものであることが、求められるようになっているのだ。

いきおい、買い物情報についても
「いろいろ探し回らず、パッと見て気に入ったものでいい」という感覚になってきている。

数ある選択肢の中から、ベストな物を選ぼうとするのではなく、
目についたものをよしとするかどうか、である。

たとえば、今、目の前にある商品の「名前」に「感想」「使用感」「評価」などのワードを組み合わせ、
実際に使ったことのあるユーザーの評価を見てみる。

よいことが書いてあって、その根拠に共感できればOK、
そんな簡単で感覚的な情報収集・意思決定が、スマートフォンでは、行われている。
             

☆「選んでほしい」。求められる提案型消費・お任せ消費

このような「考えずに買いたい」“利便性消費”を志向する消費者には、
提案型消費・お任せ消費といったアプローチが求められるだろう。
顧客の希望や嗜好を聴取し、それに合ったものを選んで、提案して、届けるというアプローチである。

特に、文字情報や画像情報だけで、判断しなければならないインターネット消費では、
多すぎるスペック情報を自分のニーズに結びつけるのは難しい。

一方で、消費者のニーズは「目の疲れないテレビ」「歩きやすいけどカチッと感があり足が細く見える靴」
「年配で食通の人にも喜んでもらえるお菓子」など、ますます細分化してきている。

いろいろ調べてみたが、結局どれがよいかわからない、となることが多い中で、
「あなたの希望を叶える商品・サービスはこれです」と、
あまり考えずにすむような提案があれば、確かにラクで心地よいだろう。

消費者にとっては、多くの選択肢・情報を取捨選択しなければならないストレスから解放されたうえ、
“ハズレのない”提案を楽しみに待つことができる。

実際、データで見ても「自分の希望をよく聞いて、それに合った商品をひとつだけすすめてほしい」というお任せ消費志向も、
ここ3年で大きく増加している。

以前は金融商品や不動産などの、専門知識が必要とされ、
消費者の側に経験値がたまりにくい分野でニーズが高かった提案型消費・お任せ消費であるが、
近年では本、ファッション、日本酒やワインなど、より個人の嗜好が重視される分野にまで及んでいる。

消費の際の情報源としても、インターネットが大きく伸びる一方で、
店頭でのコミュニケーションが依然として高い重視度を維持しているのも、
このような「すすめてほしい、選んでほしい」という消費者心理が反映されているともとれる。

情報過多で消費に向けるための可処分「時間」の少ない現代、
モノを選ぶ時間がない、自信がない、めんどくさいという消費者の心理・行動を理解し、
それに寄り添ったアプローチが、これからのマーケティングに求められている。・・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をし、早や年金生活13年生となっている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

私は年金生活を始めた当初から、私は午前中の殆どは、平素の我が家の買物として、
家内から依頼された品を独りでスーパー、専門店で求め、買物メール老ボーイとなっている。

こうした中、スーパーで食材を買い求めたりしているが、コンビニは割高などで、殆ど利用していない。
ときおり家内と駅近くにあるホームセンターで家内と共に買物をしたりして、
現品を確認して、やがて自宅に配達して頂いたりしている。

昨今、スーパーのネツト注文して、配達して下さる方法は、
我が家は店先で現品を確認して、買い求めているで対象外となっている。

そしてネット通販の隆盛期の今日でも、我が家は活用していない。
ときおり雑誌などで、美味しそうな食物を感じた時は、電話連絡して、
宅配便で到着払いで我が家に到着する方法であり、ネット利用を避けている。

私の衣服などは、私が働いていた時代から、下着、靴下などはスーパーの衣服フロアで買い求めて、
あとの衣服は、家内の引率に伴い、デパートで選定している。

少し割高なブレザー、長ズボン、スポーツシャツなどを買い求めて、
外出、やがて平素の買物、この後は室内着、最後に小庭の手入れ・・長らく愛用しているので、
良き品を末永く着る、我が家の方針となっている。

いずれにして現品を確認して、結婚以来40年近く買物しているが実態となっているので、
今回の『「ラクに、考えずに買いたい」“利便性消費”』の時代に、
我が家は社会の時流に、反しているよなぁ・・、と私は微苦笑したりしている。
             

我が家はインターネットに関して、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
私は据え置き型のパソコンを利用している。

こうした中、私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えなく、
家内だけは遅ればせながら昨年の春以来、携帯電話を買い求めて利用している。

私はフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自動車の運転免許証、私は過ぎし12年前に年金生活を始めて、やがて更新を断念した思いは・・。

2016-11-15 16:05:28 | ささやかな古稀からの思い
自動車の運転免許証は、私は過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始め、
まもなく自動車の運転を断念を決意して、やがて更新時の2005年(平成17年)の秋に、漠然として見送り、
早や丸12年が過ぎている。

私は長きの期間のペーパー・ドライバーだった・・。

結婚する30歳の前は生家に住んでいた期間は、生家の自動車を利用して、
若気の勢いで、盛んにドライブし、軽井沢、蓼科、箱根、伊豆半島などの各地に行ったりした・・。

そして結婚して3年目に、生家の近くに一軒家を建てた後、住宅ローンの返済、何かと家具などに費用が要して、
とても自動車を購入できる余裕はなかった。

やがて40代を過ぎても会社の業務が多忙で、家内とのんびりドライブすることなどは、
夢のひとつでもあったりした。

こうした思いが根底に秘めていたので、定年後には自動車を買い求めて、
家内と共に国内旅行を自在に、ドライブ旅行をしょうと思ったりしていた。
            

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めたが、
無念ながら齢を重ね、瞬時の感覚、判断力も鈍(にぶ)ったことに、気付かされた・・。

そして今頃から、自動車を買い求めて、再び自動車を運転して、
人身事故でも起こした場合、何よりも相手方に対して、いつまでも心痛な思いが残ると思われた。

その上に何かと小心者の私は、慙愧に苦しみ、心身痛みを生じ、たとえ金銭上の賠償責任を終えても、
交通刑務所に服役の場合も考えられ、私の残されたセカンドライフの人生が大幅に狂うと妄想を重ねた結果、
やがて免許証の更新時に、自主的に更新を取り止めたのは62歳の時であった。

齢を重ね年金生活をする中、安楽な生活を望むなら、人それぞれ何かを断念して生活をされていて、
たまたま私の場合は、自動車の運転、やがて65歳に糖尿病と医師から明言され、
克服する為に愛飲していた日本酒を断念したりした。
                                                

しかしながら私は普通運転免許証の更新を中止した時、何かしらの身分証明証が欲しかった。
私は現役サラリーマン時代には、会社の旅行として台湾、或いはハワイに行ったりし、
もとよりパスポートは所有して遊学していた。

そして私は幾たびか家内に海外旅行を誘っても、
家内は何かと苦手意識があり、国内旅行の方は気楽だわ、と結論に達して、
やがて私のパスポートは期限切れとなったりし、これといった身分証明書がなくなってしまった。

年金生活の私たちは、お互いに『国民健康被保険者証』は所有しているが、
写真入りの証明証でなく、万一、『国民健康被保険者証』を落とした場合は、悪用される確率が高くなる。

私が現役サラリーマン時代の頃は、外資系の会社であったので、定年の10年前の頃から
写真入りのIDカードを常時持たせられた。

このような状況であったので、市役所に問い合わせると、
『住民基本台帳カード』の写真入りであったならば、
市役所、公共施設、銀行、郵便局、パスポートの申請の際、本人の確認に使える知り、
私は即急に申請して、その後の私は『住基カード』を持ち歩いたりしている。
                              
こうした中、私が自動車、自転車の交通事故に遭遇したり、散策、買物などで倒れた場合、
やがて救急車で病院に運ばれても、
『住基カード』がないと、身元不明者なってしまい、余りにも自分が可哀想なので、
たった一枚の『住基カード』が、確かなお守り代わりとしている。
                       

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を尊重している。

平素の私の午前中は、年金生活を始めて以来、 平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、独りで殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

そして最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は、徒歩で15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は、徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

このような処で、私の生家も近く私は結婚前後の5年を除き、67年この地に住んでいる。
           
いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
                                
そして帰宅後も、再び独りで自宅から3キロ以内の住宅街、遊歩道、公園をひたすら歩き廻ったりした。
こうした根底には、やはり健康寿命を維持するには、歩くことが何よりの源(みなもと)と信愛している。

しかしながら猛暑、疲れ切った時は、路線バスを利用したり、
冠婚葬祭、懇親会などで都心に行ったり、或いは国内旅行で早朝に羽田空港に行ったり、
そして深夜に都心から帰宅する時はタクシーを活用している。

こうした交通費に関しては旅行以外として、ここ10年の月平均は、樋口一葉さんのお札ぐらいの金額であり、
もとより自動車の維持費より、遥かに廉(やす)いと思われ、そして恥ずかしながらガソリン価格も無知となっている。
            

過ぎし昨年の2015年8月中旬の頃、購読している読売新聞を読んでいたら、
『運転免許証 返納のタイミングは?』という記事を偶然に読んだりして、微苦笑させられた。

転記させて頂くと下記の通りである。

《・・運転免許証 返納のタイミングは?』

高齢ドライバーの事故が目立つようになり、運転免許証を自主的に返納する人が増えている。
警察庁によると制度は1998年に始まり、開始当時は年間数千人だったが、
2014年には約20万人に達し、65歳以上が9割を占める。

返納を考えるポイントについて、警察庁運転免許課に尋ねた。
個人差はあるが、高齢になるにつれて一般に、危険を意識してから、車を操作するまでの時間が長くかかるようになる。

右折やすれ違いなどの際「思っていた以上にぎりぎりになり、ヒヤリとした」といった経験がある人は、要注意だ。

同課は「自分の運転技術の変化を意識することが、何よりも大切」と呼びかける。

住んでいる地域の状況から、返納が難しい場合は
〈1〉ゆっくり走る
〈2〉運転は慣れている近所に限る
〈3〉運転時には誰かに同乗してもらう――など、ルールを作るのも効果的という。

運転免許証を70歳以上で更新する際には講習が、75歳以上ではさらに認知機能を調べる検査が必要だ。

一方で、返納者には、希望すれば運転経歴証明書が交付され、
自治体や企業から割引が受けられる特典もある。

同課は「運転に不安を感じたら、各地の運転免許センターなどに相談してほしい」としている。・・》
            

公共交通機関の利便性の良い都市にお住まいの御方は、
65歳以上の高齢者になった時、瞬時の感覚、判断力も鈍(にぶ)ったことに、気付いたり、
或いは運転に不安を感じたら、自主的に運転免許証を返納を念願している。

問題は公共交通機関の利便性が良くない地域にお住まいの高齢者の御方で、
運転に不安を感じた人は、、
〈1〉ゆっくり走る
〈2〉運転は慣れている近所に限る
〈3〉運転時には誰かに同乗してもらう

こうした対処しか、私は浮かばないのである。

いずれにしても、逆走、アクセルとブレーキと瞬時に勘違いなどは凶器となり、
最悪の場合は、見知らぬ御方を死亡させて、その御方の人生を抹消することになり、
加害者も被害者も悲惨となる・・。

昨今の高齢者により、悲惨な自動車の事故のニュースを知るたびに、私は憂いながら溜息を重ねたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKの朝ドラ主題歌、老ボーイの私でも、年金生活の中、何かと励まされることが多く・・。

2016-11-14 11:53:13 | ささやかな古稀からの思い
私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
                  
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
         
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
                           

このようにつたない定年までの半生を過ごし、せめて残されたセカンドライフは、
多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、やはり音楽業界の動向が今でも気になり、音楽に関するニュースを年金生活13年生の今でも、
ときおり読んだりしている。


朝食後、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン 』を見ている中、
【 ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由 】と見出しを見て、
私は微苦笑しながら、クリックして精読してしまった・・。

この記事は、『NEWS ポストセブン 』に於いて、11月14日朝7時過ぎに配信された記事であり、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
                            

《・・ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由

『べっぴんさん』のMr.Children、『とと姉ちゃん』の宇多田ヒカル、『マッサン』の中島みゆき、
古くは井上陽水や松任谷由実など、NHKの朝ドラ主題歌には大物アーティストがよく起用されている。

彼らのような大物になると、オファーを受けるか受けないかは、
レコード会社の意向よりも、本人の意思が尊重されるといわれる。

今さら売り出したいわけでもない、富も名声も手にした彼らが朝ドラ主題歌のオファーを受けるのはなぜか?

元テレビプロデューサーで上智大学教授(メディア論)の碓井広義さんは、
アーティストの情熱や好奇心が根底にあると語る。

「すでに売れてしまったアーティストでも、
『たくさんの人に自分の音楽を届けたい、聴いてもらいたい』という情熱は間違いなく、持っているはずです。
半年にわたって自分の曲が毎朝テレビで流れるという機会は、彼らにとっても経験のないことです。

その中で自分の音楽がファンだけでなく、ファン以外の人たち、子供からお年寄りまで
広い世代にどう広がっていくのかを見てみたいという、ある種の実験のような感覚もあるのかもしれません。

物語に合わせて曲を作るという“縛り”があることも、アーティストとしての創作意欲をかきたてられる一要素だと考えられます。
決まった条件がある中で、自分の世界観も見せる。アーティストとしては腕の見せ所でしょう」(碓井さん、以下「」内同)
               

そこにはCDが売れるか、どうかを超えた魅力があるといえそうだが、ビジネス面でも、しっかり成功している。

『とと姉ちゃん』の主題歌『花束を君に』も収録されている宇多田ヒカルの最新アルバム『Fantôme』(9月28日発売)は、
オリコンCDアルバムランキングで4週連続1位を獲得。

宇多田本人が出たいかどうかはさておき、初の『紅白歌合戦』出場への期待も高まっている。
Mr.Childrenの『ヒカリノアトリエ』も、リリースされれば音楽シーンを賑わせてくれそうだ。

また碓井さんは、“オファー形式”だからこそ受ける刺激もあるのではないかという。

「番組プロデューサーには、自分がやるときは敬愛するアーティストを選びたいという気持ちがあります。
民放ドラマの場合は、アーティストがすでに作っていた曲を局が『借りる』パターンも多いのですが、
朝ドラの場合はその都度アーティスト側にオファーをかけるのが通例。

『あなたに作ってほしい』とオファーされて作る機会は、
大物といえどそんなにあるものではないので、いつもと違った新鮮さはあると思います」・・(略)》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
               

私はNHKの朝ドラは殆ど視聴していないが、それでも2010年度下半期『ゲゲゲの女房』に於いて
主題歌を唄ったいきものがかりの『ありがとう』を聴いたりして、何かと励まされることが多かったりした。

そして2012年度上半期『カーネーション』に於いて、主題歌『カーネーション』を唄った椎名林檎さん、
2015年度上半期『マッサン』に於いては、主題歌を唄った中島みゆきさんの『麦の唄』、
2016年度上半期『あさが来た』に於いては、主題歌を唄ったAKB48の『365日の紙飛行機』、
或いは2016年度下半期『とと姉ちゃん』に於いては、主題歌を唄った宇多田ヒカルさんの『花束を君に』が、
瞬時に思い甦(よみがえ)る・・。

こうした思いを綴ると、限りなく長文になるで、今回は『いきものがかり』さんに関してだけ、発露する。
               

2014年11月初旬、私は確か一週間の前の夕暮れ時、ラジオを聴いていたら、
偶然に私の好きな『YELL(エール)』の曲が流れ始め、吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえた・・。

この『YELL(エール)』など数多くの名曲を創られたのは、『いきものがかり』というバンドであり、
水野良樹(みずの・よしき)さんと山下穂尊(やました・ほたか)さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによる
三人構成のスリーピース・バンドである。
              
私が遅ればせながら、偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2004年(平成16年)秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
やがて2008年〈平成20年〉の初秋、私たち夫婦は家内の母を誘い3人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に、観光バスで行く途中であった・・。

日本海の近くにある高速道路のあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
何かと好きな徳永英明(とくなが・ひであき)さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。

♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ・・
ぼんやりと聴いていたが、のびのびとした爽(さわ)やかな唄声に、瞬時に魅了されたのである・・。
                       

偶然にこの曲を知り、たまたまその唄声に魅了され、
やがて後日、水野良樹さんと山下穂尊さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲名を知ったりした。

その後の私は『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。

そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったりした。

私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。

私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、と思ったりした。
                       

確か2009年(平成21年)9月下旬に私が高齢者入門の65歳になった時、
ラジオから『YELL(エール)』の曲が流れ始め、私は聴いたりしていると、
私の高齢者入門の門出を励ますように感じたりした・・。

しかしながら後日に、第76回NHK全国学校音楽コンクール・中学校の部の課題曲『YELL(エール)』と知り、
そして水野良樹さんが作詞と作曲を担当されたと学んだりした。
何かと多感で不安を秘めた中学生や高校生に人生の途上を励ます歌だろうと解釈したが、
高齢者の私だって、大いに励まされるょ、と独り微笑んだりした。
               

過ぎし2012年7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなったりした。

その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。

そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となったりしてきた。
                      

或いは2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。

そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、ぼんやりとニュースだけは見ることが多かった。

そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっていた。

こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。
       
この少し前の4月の初めの頃だったか、私は居間でパソコンを8時過ぎに開いていたら、
♪ありがとうって伝えたくて・・とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』と思わずテレヒの番組を見たりした。

そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。

そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。
               

余談であるが、私は現役サラリーマンの時代は、あるレコード会社に長らく勤めた身であるが、
彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、齢を重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和倉温泉ぐうたら滞在記 最終回 街中を散策すれば

2016-11-13 16:44:40 | 
11月7日より『多田屋』に宿泊してきた私たち夫婦は、天候だけは不安定で、
小雨が降ったり、どんよりとした曇り空、ときおり淡き陽射し日々であったが、
10日はさわやかな秋晴れに恵まれた。
            

午前中に私たち夫婦は、和倉温泉地の名所にある七福神の石像が設置してある『七福神福々めぐり』をした。
私たち夫婦は、いずれも七福めぐりをしていなかったで、まさか旅先の和倉温泉で、七福めぐりをできることは、
夢にも予測していなかった・・。

この後、街の中心にある地元の人から旅人まで、広く愛される"街の温泉"と称されている『総湯』に行った。
今回の旅路は、旅行代理店JTBを利用したので、確約後に旅行パンフレットを頂いた中で、
色々なお得券があり、『総湯』の無料入浴券も入っていた。

家内は入浴している間、私は休憩所に横たわりながら、
先程、コンビニで買い求めた本日発売の総合月刊誌『文藝春秋』(12月号)を読んだりした。

私は宿泊している『多田屋』で、朝食前の6時前後、そして夕食前の4時半前後、
定期便のように湯船に身も心もゆったりと満喫してきたので、
何かと活字中毒の私は、入浴より読書の誘惑力が増したのであった。

やがて私たち夫婦は、街中で昼食代わりに『蛇之目寿司』に入店して、
この地域の活きの良い赤西貝、ヒラメ、甘エビ、ブリなどは美味であったが、
私たちを含めて客は7人ぐらい居たが、余りにも主人、おかみも余りにも無愛想であった。

やがて私たち夫婦は、街中に再び歩き始めた時、
『せっかく寿司味も・・半減するよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

『そうよねぇ・・お通夜よりひどいわ』
と家内は苦笑しながら私に言ったりした。
            

そして私たち夫婦は歩いていると、女性3人グループから、
『辻口さんのケーキ店・・ご存じありません?』
と家内は訊(たず)ねられたりした。

何かしら女性3人グループと家内が話し合っているが聞こえて、
著名な御方が、この付近で有数な洋菓子店を開いて好評・・
と私は何とか解った。

やがて女性3人グループと私たち夫婦が、少し歩いて、
グループのひとりが、あのお店だわ、と声を上げたりした。

そして私たち夫婦も近づくと、『ル ミュゼ ドゥ アッシュ 』と私は何とか読めたが、
やがて入店すると、家内は微笑み、私はケーキには全く無知な私は戸惑ったりした。

まもなく家内は嬉しげに二品のショートケーキを選定し、コーヒーを飲みながら食べたりしていた。
私はコーヒーだけ飲んだりした。

私は父、祖父が亡くなる小学校3年生まで農家の児として育ちながら、
朝、昼、夕食は、しっかりと食べろ、ただし間食するのは、男としてミットモナイ、
とキビシク育てられた。

こうした影響もあり、洋菓子は婦女子の食物・・という概念に取りつかれて、
私は未(いま)だに洋菓子は苦手となっている。

まもなく私は、店内の置いてある小パンフレットを頂き、
私は読んでいたら、ここの創設者の辻口博啓(つじぐち・ひろのぶ)さんの略歴を読み終わった後、
洋菓子界の突出した達人と判った。

こうした中、シャンソンの名曲が店内に流れ、
私は若き20代、30代にシャンソンに熱愛していたので、微笑みながら聴いたりしていた。
            

やがて私は精算を終えた後、店内の焼き菓子の即売品を見て、
家内に宿か帰りの新幹線で食べれば・・と勧めたりした。
そして家内は微笑みながら10数品を選定したりした。

そして店を出ると、『お寿司屋さんで、お昼を食べなければ・・ケーキ三つ食べられたのに・・』
と家内は微苦笑しながら私に言ったりしたりした。

この後、街の中心街を30分ぐらい歩いたりした後、
宿泊している『多田屋』をめざして歩いて、やがて帰還した。


指定された部屋の窓辺から、私は海を眺めたりした。
            

今回の旅は、宿の部屋、窓辺から見える情景、大浴場、庭、桟橋、
そして会席料理も良質で、何よりもスタッフの明朗さが感じ良く、稀に良き旅路となった、
と私は思い重ねたりした。

翌日、9時40分の発の『多田屋』さんの送迎車で和倉温泉駅に下車した後、
和倉温泉駅・10時14分・発の『サンダーバード』20号で金沢駅に11時18分に到着した。

そして金沢駅・11時56分・発の北陸新幹線『はくたか』562号で東京駅に14時52分に到着し、
自宅の玄関扉を開けたのは16時すぎであった。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和倉温泉ぐうたら滞在記 ④旅先で生まれて初めての七福神福々めぐり

2016-11-13 08:18:57 | 
宿泊している『多田屋』の館内に『和倉温泉 散歩マップ』があったので、
私たち夫婦は街中を歩こうと思案して見たりしていた。

この『和倉温泉 散歩マップ』は、和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合が発行しているパンフレットで、
たまたま和倉温泉観光協会の公式ホームページに準拠した内容が掲載されて、転載させて頂ければ下記の通りである。 


こうして私たち夫婦は『和倉温泉 散歩マップ』を見ていると、『七福神福々めぐり』があることを知ったりした。

そして同じ街めぐりをするのであったら、最初に『七福神福々めぐり』をした後、
ゆっくりと街の中心街を歩こう、と私たち夫婦は話し合ったりした・・。

私たち夫婦は、住んでいる都心の郊外の調布市でも、『七福神めぐり』は制定されているが、
私も家内も生まれて以来、一か所か二か所は訪れたりしてきたが、
すべて『七福神めぐり』を完遂したことはなかったので、まさか旅先で『七福神めぐり』に挑戦することは夢にも思わなかった・・。

そして私は改めて『七福神の由来』を少しボケ防止に勉強したりした。

《・・七福神とは、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、恵比寿天(えびすてん)、寿老人(じゅろうじん)、
福禄寿(ふくろくじゅ)、弁財天(べんざいてん)、布袋尊(ほていそん)の七つの神様の総称です。

「七難即滅、七福即生」の説に基づくように、七福神を参拝すると七つの災難が除かれ、七つの幸福が授かると言われています。
七福神の信仰は、室町時代の末期のころより生じ、当時の庶民性に合致して民間信仰の最も完全な形となって育てられてきました。
特に農民、漁民の信仰として成長し、現代に今も生き続けてきたのです。・・》


◎大黒天(だいこくてん)・・『出世の神』
      大黒天は、大自在天の化身ともいわれ、大国主命と神仏習合したものである。
      一度仏となったが、人々に福徳を授けるために再びこの世に現れたという。
      大地を掌握する神様(農業)でもある。
      大きな袋を背負い、打出小槌をもち、頭巾をかぶられた姿が一般によく知られていて財宝、福徳開運の神様として信仰されている。
            

◎毘沙門天(びしゃもんてん)・・『悪魔払いの神』
      毘沙門天は、四天王の一仏で、別名「多聞天」といい、
      七福神の中で、唯一の武将の姿をしていて、右手に宝棒、左手に宝塔、足の下に邪鬼天の邪鬼を踏みつけている。
      七福神では、融通招福の神として信仰されている。

◎恵比寿天(えびすてん)・・『商売繁昌の神』
      七福神中で唯一の日本の神様。
      いざなみ、いざなぎの二神の第三子といわれ、満三歳になっても歩かなかったため、船に乗せられ捨てられてしまい、
      やがて漂着した浜の人々の手によって手厚く祀れれたのが、信仰のはじまりと伝えられている。
      左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持った親しみ深いお姿の、漁業の神で、特に商売繁昌の神様としても信仰が厚い。

◎寿老人(じゅろうじん)・・『長寿の神』 
      寿老人は、福禄寿と同じく星の化身で、にこやかな微笑みをたたえ、
      手には巻物を括り付けた杖、そして団扇や桃などを持ち、鹿を従えた姿が一般的に知られている。
      団扇は難を払い、桃は長寿のしるしで、鹿もまた長寿の象徴である。
      長寿延命、富貴長寿の神として信仰されている。

◎福禄寿(ふくろくじゅ)・・『知恵の神』
      福禄寿は、名前は、幸福の福、身分をあらわす禄、寿命を表わす寿の三文字からなり、中国、道教の長寿神。
      南極老人星の化身であり中国の村や町に住み、人々の信仰を集めたといわれる仙人である。
      長い頭、長い顎鬚、大きな耳たぶをもち年齢 千歳という。

      長寿、幸福の徳を持ち、鶴と亀を連れて、左手に宝珠、右手に巻物を括り付けた杖をもつ姿が特徴である。
      招徳人望の神様として信仰されている。

◎弁財天(べんざいてん)・・『芸の神』
      弁財天は、七福神の中で、唯一の女神で、
      元はインド河(水)の神であったが、やがて音楽の神、言語の神となり日本に伝わった当初は、弁才天と呼ばれた。
      その後、財宝・芸術に関係深い吉祥天の性格が吸収され弁財天といわれるようになり、財宝を授けてくださる神へとなったものである。
      知恵財宝、愛嬌縁結びの徳があるといわれている。
 
◎布袋尊(ほていそん)・・『福の神』
      布袋尊は、弥勒菩薩の化身といわれ、いつも笑顔を絶やさず人々に接していた人で、
      大きな袋には宝物がいっぱい入っていて、信仰の厚い人に与えられたという。
      笑門来福、夫婦円満、子宝の神として信仰が厚い。
            

今回の『七福神福々めぐり』に於いては、
街めぐりの七つの名所に、それぞれの場所にちなんだ幸福を呼ぶ、七福神の石像があります。
各旅館に用意してある用紙を、七福神の顔の輪郭の浮き彫りに押し当て、こすってください。

街を散策しながら集めてみてはいかがですか?
温泉街めぐりで福来たる。

お宿から素敵なプレゼント進呈!

こうした文面に私たち夫婦は誘惑されて、『七福神副々めぐり』に参加した。

私たち夫婦は『多田屋』に宿泊している地域からして、近くにある『福の神』が鎮座されている『青林寺』をめざして歩き初めた。
            

やがて10分ばかり歩くと、和みの丘と称せられる景観の良い小高い道を歩くと、
何かしら三十三観音像を巡る500段ぐらいある長い階段を下りながら、私は道を間違えたかしら、
と思いながら歩いたりした。
            

やがて寺の屋根が見えて、数分ばかり歩いて、目的地の『青林寺』に到着して、
まもなく『福の神』が鎮座されている石像に、家内は優先的に指定用紙に顔の輪郭の浮き彫りに押し当て、こすたりした。

そして『知恵の神』が鎮座されている『信行寺』をめざして歩いた後、
やがて『悪魔払いの神』が鎮座されている『小比古那神社』を訪れた時、
  

この大木が『夫婦神木』と制定されて、私は解説文を読み、微苦笑したりした。

そして私は、10年に一度ぐらい『おみくじ』をしているが、
百円玉で運だめしねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

やがて『おみくじ』を私は開封すると、何故かしら『大吉』であった。

☆願望(ねがいごと)
      初めは思わしくないが後は必ずよし

☆失物(うせもの)
      出にくい 人に渡る

☆旅行(たびだち)
      利少く 帰途に注意

☆病気(やまい)
      気遣いなし 信心(しんじん)せよ

このように13項目が明記されて、やがて私は微苦笑したりした。
            

そして総評としては、
初めは冬の枯木の葉おちて 花もなく淋しく此末(このすえ)如何(いかが)なろうかと気遣うも
其内に春となって花さく如く 末よき運なり 
何事も慎(つつし)み退屈せず 時をまてば必ずよし

こうしたことを読み終わった後、何かと単細胞の私は微笑んだりした。

やがて私たち夫婦は街の中心に出て、残りの七福神の石像にお逢いして、
私たち夫婦はお互いに生まれて初めて『七福神のめぐり』を完了した。

余談であるが、『七福神福々めぐり』の完遂した記念品、
お宿から素敵なプレゼント進呈は、家内が私の分まで指定用紙を申告して、
可愛らしい蝋燭(ろうそく)セットをペアで頂いたりした。
            

そして家内は今回の旅路の思いでの品として、サイドボードにある旅の記念コーナーに
飾るわ、と私に言ったりしている。


★コメント欄は、数日だけ閉鎖させて頂きます。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和倉温泉ぐうたら滞在記 ③和倉温泉駅~穴水駅、往還記

2016-11-12 16:10:33 | 
11月8日は宿泊している『多田屋』の館内にいたので、
さすがの《ぐうだら》の私でも、明日(9日)は小雨が降っても和倉温泉駅から穴水駅まで往復しょうょ、
と私は家内に言ったりした。

こうした根底には、JR東日本が定期月刊誌『トラヴェール』(10月号)を今回の旅路の前に、
偶然に読んだりしていた。

この中に於いて、《北陸は、ローカル列車天国だ!》と題された特集の中で、
《海の列車【のと鉄道】》が紹介されていた。

そして『里山里海の風景を走る』という章を私は読んで、魅了されたりした。

《・・和倉温泉駅から、今度は穴水行き普通列車に乗り込む。
ホームに入ってきたのは、ローカル線ならでは、一両編成のディーゼルカー。
(略)
発車すると間もなく、周りは緑に囲まれ、時折、木々の間に七尾湾が垣間見える。
笠師保駅を出ると視界が開け、一面に広がる田んぼの向こうに、
海がそのまま続いているように見える。・・》

こうした文面を読み、和倉温泉~穴水駅を走行する【のと鉄道】に乗ってみたく、
私は家内を誘ったりした。

午前中は小雨、午後より曇りが予測される中、私たち夫婦は和倉温泉駅に行ったりした。
            

まもなくプラットホームに私は立ったりした。
            

そして9時48分発の穴水駅行きに乗車して、私は車窓から素朴な情景を眺めたりした・・。

やがて10時21分に予定通り穴水駅に到着して、私たち夫婦は穴水の街並みを
あてどなく歩いたりした。
            

こうして歩き廻ったりしていると、商店街で店の屋号についているフレーズに、
私は瞬時に魅了されて、こっそりと私は撮ったりした・・。
            

こうして一時間半ばかり歩いたりしていたが、小雨は降ることはなかったが、
12月中旬のような寒気であり、早々と穴水駅に戻ったりした。
            
そして駅に隣接している土産屋さんの横にある処で、コーヒーを飲んだりした。

やがて12時16分発で穴水駅に別れを告げて、和倉温泉駅に12時49分に到着した後、
タクシーを利用して『多田屋』に帰還した。

そして明日は、久々の晴れ間と予報されていたので、和倉温泉の街並みを散策しょうと、
私たち夫婦は話し合ったりした。

★コメント欄は、数日だけ閉鎖させて頂きます。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和倉温泉ぐうたら滞在記 ②それぞれの館内、館外、そして部屋の彩(いろど)り

2016-11-12 13:49:47 | 
初めて乗車した『能登かがりび』は、予定通り和倉温泉駅に15時57分に到着し、
改札口を出たら、それぞれの名高い観光ホテルが、送迎車が待機していた。

そして私たち夫婦は宿泊する『多田屋』さんの送迎車に乗車すると、
まもなく七尾湾に面した名高い各観光ホテルの街並みを通りすぎて、静寂な道を5分ぐらい走行した後、
『多田屋』さんの館が視えたりした。
            
                ☆付近にある駐車場の情景が良かったので、二日後に私は撮ったりした☆

私たち夫婦は正面玄関先から下車して、フロントでチェックインをした後、
指定された部屋に案内されていた。

そして最上階の5階の角部屋に通されて、上り框(あがりかまち)の板間も感じよく、
和室は10畳で、窓際にはテーブルと4つソファ椅子がゆったりと配置されて、
七尾湾の海上が一望できたりした。

そして床の間にある掛け軸は、東京の田舎者の私には、余りにも行き過ぎた文面が掲げられて、
苦笑したりした。
            

この館内には、高貴な御方が宿泊される海際の貴賓室『利久』(全12室)、露天風呂付客室『抱室』(全8室)、
或いは特別室『神楽・侘助』』(全9室)があり、
そして基本客室として『花の館・汐の館』』(全31室)がある。

私たち夫婦が選定したのは、基本客室で『汐の館』の最上階の5階の角部屋に指定されたことは、
数か月前に程ほど価格で4連泊、部屋から海が展望できる処、要望した結果と私たち夫婦は好感したりした。

館内の大浴場、露天風呂、付近にある独り用の陶器風呂も三つあり、
私は幾たび独り陶器風呂に、湯温が最適で身も心も湯船にあずけて、海上を眺めると更に解放感があったりした。

そして食事処は、レストラン『潮音』で、4日間の固定された景観の良い二人用のテーブルで、
朝食、そして夕食を私たち夫婦は頂いたりした。

こうした中で、素材を大切にした会席料理を明朗な若き女性からアドバイスを受けたりしながら、
それぞれの確かな料理を賞味したりした。

おしながきには、例えば『花遊膳』と題して、食前酒から最後には水物の料理が羅列しているが、
二日の夕食より、『XX様 御滞在献立』とおしながきの名称が変貌して、
私たち夫婦は気付いて、お互いに微笑んだりした。

いずれにしても風呂、食事処、部屋はプライバシーに関することなので、
『多田屋』公式ホームページを掲載させて頂く。http://tadaya.net/

館外で魅了されたは、館内から出て、海辺にテラスが配置されて、その先には小さな桟橋があり、
この桟橋にはベンチがあり、座っているとゆるやかな波間を眺めていると、
自身が小さな船に乗船しているような幻想を感じたりした・・。
            

この場所を家内は好感して、やがて有料の肴釣り道具をお借りして、
二日目の午前中を楽しみながら、釣り糸を海面にたらしたりしていた・・。
            

私は海釣りは苦手であったので、館に面した石庭風な庭を眺めたりしていた。
斜面を巧く活用した配置に、私は長らく見惚れたりして、こうした情景は私は数時間眺めていても、
あきない美景であったりした。
  

結果としては、二日目はどんよりとした曇り空、ときおり小雨が降ったり、
或いは淡き陽射しもある不安定な天候であり、館内と館外で過ごしたりした。

やがて売店で私は地酒を買い求めて、私たち夫婦は部屋に戻り、
窓辺の近くソファに座ったりした。

そして家内は金沢で買い求めた和菓子、御酒に相応しい食物を取り出して、
家内は煎茶、私は地酒を頂きながら、昼食代わりに食べたりした。

こうした中、海上が刻々と変貌する情景を眺めたりし、談笑しながら数時間ばかり過ごしたりした。

★コメント欄は、数日だけ閉鎖させて頂きます。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和倉温泉ぐうたら滞在記【2016.11.7.~11.11.】 ①和倉温泉に向かう中・・。

2016-11-12 09:10:31 | 
私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であるが、
昨年の5月から、独り住まい家内の母の体調の悪化に伴い、長女の家内と家内の妹で交互に介護が増えて、
私たち夫婦の旅路は、激少してきた。

やがて私は、今年の7月初旬に秋になったら旅行に行こうょ、と家内と話し合ったりして、
まもなく能登半島の和倉温泉に少しゆっくりと滞在しょうと、7月中旬に旅行代理店に手配を依頼した。

私たち夫婦の和倉温泉の旅に関しては、30年近く前の頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室は、瞬時に魅せられたりした。

ロビーの外れから大浴場に向かうまで畳が敷かれて、この間の更衣室まで、
あたかも大名屋敷にあった畳上の広々とした廊下ようであり、こうした情景に好感した。

翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。

こうしたささやかな和倉温泉の想いで秘めた私たち夫婦は、
今回、宿泊先は、七尾湾に面して名高い観光ホテルが集結している処より、
少し離れた静寂な観光ホテルを選定した結果、『多田屋』に4連泊で宿泊することとした。

やがて私たち夫婦は10月上旬に旅立つ予定であったが、家内の母の容体の影響で、
結果としては11月7日より4泊5日で、久々(ひさびさ)の秋の旅路となった。

私たち夫婦の旅路は、ここ12年の年金生活の中でリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
朝の10時頃から、のんびりと街中、周辺を歩いたりして遊学しているが、
大半は午後3時頃には宿泊先に帰還して、館内でゆったりと時間を過ごす旅路が多くなっている。

その上、天候の悪化などになれば、館内でゆっくり過ごそう、というタイプであるので、
世にいわれている《ぐうだら》に属している、と我ながら苦笑する時もある。

今回の和倉温泉に滞在した時も、曇り時々小雨など天候不順が多く、ぐうだら滞在となり、
自身の心のかたみとして、綴る。
            

11月7日(月)
東京駅・10時24分・発『かがやき』509号に乗車し、金沢駅・12時52分・着、
やがて金沢駅・15時00発『能登かがりび』5号に乗車し、和倉温泉駅・15時57分・着、
そして宿泊先の送迎車のご厚意に甘えて、『多田屋』に到着。

こうした予定で私たち夫婦は、自宅を7時20分に出て、やがて東京駅に着いたのは8時20分であった。
家内は万一交通遅延が発生したら、という思いで、殆ど2時間前に到着する習性から、
私は従事して、早や40年近くなっている。

いつもように新幹線待合処に待機しながら、昼食として駅弁特選コーナーに行き、
テレビ番組で取り上げられた『牛肉どまん中』を私は選定し、
家内は『50品目弁当』を買い求めて、やがて新幹線内で賞味したが、お値段の割にはいずれも美味であった。

やがて金沢駅に到着後、金沢の名店が集約されている駅ビル内の『あんと』で家内が買物している間、
私は新しい構内、周辺を少し散策したりした。


この後、『能登かがりび』5号に乗車し、和倉温泉駅に向かう中、宿泊する『多田屋』に関して、
旅行代理店から頂いた簡易な案内書を思い重ねたりした。

《・・和倉温泉の中心部から少し離れた場所に佇む『多田屋』は、
波穏やかな海と小高い山に囲まれた和倉温泉の隠れ宿です。

2011年6月に国内で初めて『世界農業遺産』に認定された能登の景勝地をめぐる拠点として、
じわもん(地元食材)と新鮮な海の幸にこだわった会席料理にて
皆様のお越しをお待ちしております。》
            

こうした文面を思い馳せたりしたが、やがて滞在中、私たち夫婦それぞれ良質な面を実感させられたりした。

★コメント欄は、数日だけ閉鎖させて頂きます。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島、ささやかかな私の旅路を思い馳せて、やがて微苦笑を重ねて・・。【下】

2016-11-08 12:39:38 | ささやかな古稀からの思い
翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。

風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。
            

私達夫婦の能登半島の旅に関しては、30年近くの頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室は、瞬時に魅せられたりした。

ロビーの外れから大浴場に向かうまで畳が敷かれて、この間の更衣室まで、
あたかも大名屋敷にあった畳上の広々とした廊下ようであり、こうした情景に好感した。

翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。
            

私自身は1961年(昭和36年)の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、この当時は国鉄(現在・JR)時代で、夜行列車で早朝に羽咋駅で下車した後、
岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963年(昭和38年)の夏、ワンターフォーゲルの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を半日遊覧バスコースで鑑賞したり、そして独りで周辺を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。

家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。
            

こうした中、私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの横幅が大きいキスリングを背負いながら、
路線バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。

岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)で白米を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・と歓声まじりの女性グループの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家で、大切に育てられたお坊ちゃまらしく、
『恥ずかしいから、岩陰に退散しょうょ・・』、
と私に言ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を食べたりした。

やがて観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたりして、
私は苦笑したりした。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、記念にと思いながらオシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


或いは古びた寺院に宿泊した時、夕食付で500円と言われて、余りにも廉(やす)い宿泊代で、
私と悪友は、本当かな・・今までで最も廉いょ、とお互いに驚いたりした。

そして夕食は麦飯に粟(あわ)が入った混ぜご飯であり、
悪友は食べられないょ、と言ったりしたが、私は一食は一食だ、と粗食を食べたりした。

やがて就寝前に悪友は、暗い廊下を懐中電灯を翳(かざ)してトイレに行ったが、まもなく引き返してきた・・。
『XXょう・・ここのトイレ・・怖くて使えないょ・・」
と悪友は少し怯えた表情で、私に言ったりした。

そして私がトイレに行くと、懐中電灯を照らすと、確かに便器から30メートルぐらい下に受け入れ岩があり、
翌日、私はひゃがんで用を足していると、しばらして反響がするような音がして、私は微苦笑したりした。
            

このようなことを私は家内に言いながら、談笑したりした。

その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を食べたりした。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、
曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、30分ばかり散策して、ホテルに戻ったした。


翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、街中の朝市まで散策した。
そして朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりした。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。

『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴(さかな)ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていた。

このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館した。


2001年(平成13年)の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。

私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、風も吹き雨も強さを増す中、
傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
私は冬のフィールド・ジャケット、長ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。


2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。
            

途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で、雨やどりをしたりした。

ときおり風が吹き、雨を眺め、やむなく私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりした。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に言ったりした。

何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、と報じられて、
私は普段の行いが悪かったのかしら、と私は家内に言ったりしながら、微苦笑したりした。


このような能登半島に関して、ささやかかな私の旅路を思い馳せて、微苦笑をしたりしている・・。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島、ささやかかな私の旅路を思い馳せて、やがて微苦笑を重ねて・・。【上】

2016-11-07 12:37:56 | ささやかな古稀からの思い
私は1970年(昭和45年)の春、この当時としては大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてこのレコード会社で、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦した。

この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。

こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も1999年(平成11年)2月に出向となり、                                   
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした・・。
 
やがて私は出向先の物流会社の勤務に馴染み、この当時は朝の起床は4時45分で、
少しばかりの遠方の神奈川県・厚木市の郊外にある物流センターに行き、
帰宅は早くても夜の9時過ぎであり、これ以降は定年退職時の2004年(平成16年)秋まで続いた。
            

2000年(平成12年)の年は、5月の連休を活用して新しくできた倉庫間の音楽商品の大移動で出勤したりして、
この前後の休日も倉庫内部の整備などで休日出勤をすることが多く、
体力のギリギリまで奮闘した年でもあった。

世にいわれる過酷な勤務であったが、私の40歳前後の時にシステムの開発時に比べれば、
出向の身であったので、最終の責任、成果は問われることがなかったので、こうした一面は楽であった。

この間に、長兄の次男の結婚もあり、自宅の庭の大幅な剪定を植木屋さんに依頼して、
定年後に備えて、徹底的に短くして頂いた。

そして、12月になると家内と年末年始のことで話し合った。
過酷な勤務状況が続いているので、家でのんびりしょうか、と思ったりした・・。
            

前年の年末年始は山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉に行ったりした。

1999(平成11)年の1月9日に母の一周忌の法要を終えた後、
この当時の私は、2月より出向となり、殆ど本社で30年近く勤務して奮戦してきたので、
失墜感があり、盛夏の頃まで心の奥底に感情のわだかまりがあったしたが、何とか吹っ切れて業務に専念できた。

この後、初秋に妹の長男、秋に長兄の長男の結婚式などがあり、
私自身、公私共々波乱に満ちた年でもあった。

こうした思いかあり、せめて年末年始は日本海の雪降る温泉地に滞在して、のんびりしょうよ、
と私は家内に言ったりした。

結果として、選定したのは山形県・鶴岡市の海辺にある湯野浜温泉の『亀や』に於いて、
12月29日から4泊5日に宿泊滞在をして、周辺を遊学した旅路となったりしたが、
何よりも料理は、今まで数多く旅路を重ねてきた私たち夫婦は、とびぬけて美味しい料理で、
驚きながら頂いたりした。
            

こうした心情を秘めていた私は、せっかくの年末年始の休暇を利用して、
旅行に行こうょ、と私は家内に言ったりした。

私は以前から、総合月刊雑誌の『文藝春秋』の中で広告として掲載されている、
石川県・能登半島にある輪島市にある『ホテル高州園』が、渡り廊下から見える浪の花・・
確かこのような文面に魅せられて、いつの日にか、と夢を膨らませていたりしていた。

このようなことを家内に話したら、数日後に家内は駅前からJTBとJR『びゅう』のパンフレットを頂いたりした。

私は家内と『ホテル高州園』の掲載されているページを見ながら、
露天風呂が、あたかも波打ち際にあるような写真の横に、
《 日本海は庭園です。
       一望千里の大海原 》
こうした文面に魅せられて、年末年始の旅行を決めたりした。

仕事納めの翌日の12月29日から4泊5日で旅行代理店に予約し、
雪が舞い降る中、風も吹く街並み、郊外を散策して、海辺で浪の花が観られれば最良だし、
そして『ホテル高州園』の露天風呂から日本海を眺めよう、と私たち夫婦は大いに期待したりした。
            

やがて2000年(平成12)年12月29日、私達夫婦は自宅を8時過ぎに出て、
東京駅より上越新幹線の『あさひ』に乗車し、越後湯沢駅で乗り換えて、在来腺の特急『はくたか』で金沢駅に向った。

越後湯沢の駅の売店で買い求めた駅弁とお茶、地酒を越後湯沢から30分過ぎた頃から、
車窓から雪景色を眺めながら、私は駅弁を食べ、地酒を呑みながら、
やっと旅に来たか、と満足した思いであった。

そして、金沢駅は改築中であり、金沢駅前から能登半島の輪島駅前までの特急バスの乗り場が解かりづらかったが、
何とか見つけ私達はバスに乗った。

車窓から情景は、残り雪がところどころ観られ、ときおり風が強く吹く冬景色であり、
雪景色を期待していた私は少し失望したりした。

やがて輪島駅前でバスに下車したのは、午後3時半過ぎであり、
暖かい陽射しに少し戸惑いながら、タクシーで『ホテル高州園』に向った。

『ホテル高州園』でチェック・イン後、部屋から観た情景は、岸壁に建つホテルに打ち寄せる波、
そして遥か彼方まで観えるおだやかな日本海の波間、
私は荒々しい日本海の冬を想定していたので、戸惑いを重ねたりした。

そして、露天風呂に入ると、日本海の波打ち際をまじかに観る状景から程遠く、
何よりもプラステックの青いトタンが、前方の日本海を半分ぐらいを遮(さえぎ)られ、
公報した写真とは余りにも違う、と大いに落胆したりした。

夕食前のひととき、家内と館内を見て廻ったのであるが、
ロビーのはずれ、階段の踊り場などで、テレビ・ドラマの撮影に使用されたらしく、
記念写真が飾られていて、私は嫌な予感をしたりした。

たかがテレビ・ドラマに出演した主役の人たちとホテルの方が記念写真を撮り、
これを売り物のひとつにする程度の低さには、あきれたのである。
            
            
こうして私は綴りながら、食事の料理を思い出そうとしたが、何を頂いたか、すっかり忘れているので、
安易な食事だった、と思える。

そして、この『ホテル高州園』が街中に経営している土産屋を私達に盛んに薦めるので、
更に程度の低いホテルに宿泊した、と私達夫婦は失望を重ねたりした。

もとより現在は、どのように変貌しているか知らないが、あくまでこの当時に私たちが感じたことである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の旅路、私たち夫婦のささやかな旅行は、石川県・能登半島の和倉温泉に滞在プランとなり・・。

2016-11-06 12:52:59 | 旅のあれこれ
私は東京の調布市に住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であり、
結婚以来、国内の各地をときおり旅路を重ねてきた・・。

やがて2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
旅行の日程から解放されて、5泊6日前後の旅路が多くなったりした。

そして季節としては、5月の大型連休が終わった後、
或いは舞い降る雪が恋しく冬の時節に旅行をすることが、多かったりしてきた。


私たちの旅路、定年後まもなく自動車の免許書の更新を中止した私は、
最寄駅の近くにある旅行代理店に私たち特有のプランを依頼して、JR、航空機、フェリーなど、
そして宿泊先を選定したりしてきた。

或いは通販のクラブツーリズムの滞在型で、魅了されたプランに参加して、
幾たびか活用したりしてきた。

いずれにしてもリゾートホテル、観光ホテル、観光旅館などに滞在して、
街中、周辺を歩き廻ったり、郊外の山里の小道を歩いたりして、遊学をしたりしてきた。
            

こうした中、秋の旅路も、少しばかりしてきた・・。

2011年10月16日から3泊4日で、初めて八ヶ岳の山里にある大泉高原を訪れた。

八ヶ岳の高原にあるリゾートホテル『八ヶ岳ロイヤルホテル』に三連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
星空が観やすく、数多くの落葉樹が朱色、黄色などに染め始める錦繍(きんしゅう)の情景が展開する光景を託して、
周辺を歩き廻ったり、山里の散策路を歩いたりした。


2011年11月13日から3泊4日で、秋田県の田沢湖の高原温泉を訪れた。

田沢湖の湖畔より北上した山麓に『プラザホテル山麓』に3連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
乳頭温泉郷に近く、何かと気になっていた乳頭温泉郷めぐりもあったりした。

この年の3月の初旬に私たち夫婦は5月中旬頃に、乳頭温泉郷の各地の温泉めぐりと散策を8泊9日間の予定をしていたが、
3月11日の東日本大震災で東北の各地が甚大な被災となり、やむなく中止したので、
敗者復活戦のような変貌したプランとなった。

そして私たちは湯めぐりしたり、付近の山里の路を歩いたりして、最終の夕べには初雪にめぐり逢えたりした。
            

2012年10月22日からは、北海道の洞爺湖に晩秋の時節に初めて訪れた。

洞爺湖の湖畔の近くにある観光ホテル『湖畔亭』に9連泊するクラブツーリズムのプランがあり、
私たちは周辺を歩き廻ったりして、この間、花火が連日打ち上げられて、
私たちは指定された部屋のベランダから鑑賞したり、やがて三日後には私は部屋に敷かれた布団に横たわりながら、鑑賞した。


2014年10月14日からは、八幡平の周辺に点在する温泉地を訪れたりした。

私はこの年の9月下旬に古希(こき)と称される満70歳となり、家内は12月下旬に高齢者入門の65歳となり、
お互いに介護保険を有する夫婦となる。

そして何かしら記念品をお互いに思案したりしたが、
結果的には、私たち夫婦の共通趣味の国内旅行をしょうと、7月下旬に決意した。
     
やがて幾つかの旅行プランを思案したりしたが、
やはり源泉かけ流しの温泉宿に宿泊するのが、私たちの身も心もやすらぐことができると、
いつの日にか訪れ、宿泊したい地域を選定した。

そして岩手県と秋田県の県境にある八幡平の周辺には、
藤七(とうしち)温泉、後生掛(ごしょがけ)温泉、ふけの湯温泉、玉川温泉など多彩にあり、
旅行代理店に手配を依頼した。

結果として『藤七温泉』に三連泊し、『ふけの湯温泉』に一泊、そして『後生掛温泉』二泊となり、
こうした地域の幾つかの温泉宿に宿泊して、落葉樹が朱紅色、黄色に染められた錦繍(きんしゅう)の情景を見ながら、
周辺の遊歩道、自然研究路などを散策したりした。

こうした中、八幡平の天空のような遊歩道を歩いたりしたり、圧倒的に魅了されたり、
或いは玉川温泉には宿泊している後生掛温泉より日中、路線バスで往還して訪れたりした。


このようなささやかな秋の旅路を思い馳せたりした。
              

この後の私たちの旅行は、春夏秋冬を含めても激少している。

昨年の2015年2月9日より、オーホッツク海に面した紋別で流氷を目的に三連泊した後、
そしてサロマ湖の厳冬期を見たく三連泊した後、やがて網走湖畔で一泊するプランを旅行代理店に依頼して、
遊学したりした。

結果的に、紋別は観光ホテルの『セントラルホテル』で、サロマ湖は東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に、
網走湖畔で観光ホテルの『網走湖荘』に予定通り宿泊できたりしたが、風雪の怖さを実感させられたりした。


我が家の両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、『要支援2』となってきた。

こうした中、整形外科、内科、眼科に通院している中、膝(ひざ)と腰に激痛が感じ、
昨年の5月より少し遠い大学病院で検査、そして入院、退院後の検査が加わりした後、
リハビリで近くの病院に行ったりしている。

そして家内は付き添う為に、家内の母宅で駐在することが多くなってきた。

やがて家内の妹が強力な援軍となり、家内と家内の妹が交互に、
家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしている。

そして本年の5月より、家内の母は市の福祉課が再審査を得て、
『要支援2』から『要介護1』と認定されたりした。

こうした関係で、家内は家内の妹とお互いに日程を調節して、家内が担当した期間には家内の母宅で孤軍奮闘し、
私は我が家で『おひとりさま』の生活をしたり、私たち夫婦の旅行も少し遠ざかったりしている。
              

やがて家内は家内の母の介護で、疲労が増してきたので、気分転換に、疲労回復も兼ねて
伊豆半島の西海岸にある『堂ヶ島温泉ホテル』に3連泊プランが、クラブツーリズムの雑誌に掲載されていたので、
私たちは利用して、周辺を遊学したりした。

まもなく、私たち夫婦はお墓に関しては樹木葬と決めてきたが、肝要の墓地を決定する為、
伊豆七島にある大島に今年5月19日に訪れて、三原山の中腹にある『大島温泉ホテル』に一泊だけして、
墓地の仮契約したり、三原山に登山したりした。

このように私たち夫婦の旅路は、激少してきた。

やがて私は、秋になったら旅行に行こうょ、と家内と話し合ったりして、
能登半島の和倉温泉に少しゆっくりと滞在しょうと、7月中旬に旅行代理店に手配を依頼した。

そして私たち夫婦は10月上旬に旅立つ予定であったが、家内の母の容体の影響で、
結果としては明日より4泊5日で、久々(ひさびさ)の秋の旅路となる。

尚、私の能登半島のささやかな想いで、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いです。

★この間、コメント欄は閉鎖させて頂きます。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長期入院を助けてくれる公的保障は意外に多い!、高齢者の私は多彩な保障を学び、やがて安堵を重ねて微笑み・・。

2016-11-05 13:55:58 | ささやかな古稀からの思い
昨夜、愛読しているネットの『ダイヤモンド・オンライン』を見ている中、
【 長期入院を助けてくれる公的保障は意外に多い! 】と見出しを見て、
年金生活している満72歳の身の私は、これから予期せぬ出来事のひとつ大病に遭遇して、
やむなく長期に入院することは困苦するので、記事を読んでしまった。

この記事は、『ダイヤモンド・オンライン』の中で、『ライフ・健康』分野がある中で、
『知らないと損する!医療費の裏ワザと落とし穴』と特選された連載記事があり、
私が見た記事は【第118回 長期入院を助けてくれる公的保障は意外に多い!】であり、
この分野の詳しいフリーライターの早川幸子さんの寄稿文である。

そして『ダイヤモンド・オンライン』に2016年6月30日に配信されていて、 無断ながら転載させて頂く。

《・・長期入院を助けてくれる公的保障は意外に多い!
            

「入院から在宅へ」という国の医療政策によって、病院に入院する日数は、この10数年でずいぶんと短くなった。
厚生労働省の「患者調査」(2014年)によると、すべての病気の平均で見ると、
1996年に40.8日だった入院日数は、2014年には31.9日となっている。

病気別に見ても、通院治療が進んでいるがん(悪性新生物)の平均在院日数は、
1996年に46.0日だったものが、2014年には19.9日と20日以上も短縮されている。

また、心疾患(高血圧性のものを除く)は、38.9日から20.3日になっており、
ほとんどの病気が、入院してから1ヵ月以内に退院している。

ただし、なかには入院が、長引くものもある。
2014年でも統合失調症や躁鬱病などの精神疾患は291.9日、
脳梗塞や脳出血などの脳血管疾患は89.5日となっている。

病気やケガをしても、治療費の多くは健康保険でカバーできるが、
入院が長引くと「医療費がどんどん増えてしまいそう」
「収入が減って生活できなくなりそう」などの不安が出てくるのも事実だ。

そうした不安から、民間の医療保険に入っている人も多いはずだが、その前に知っておきたいのが、公的な保障だ。

健康保険だけではなく、年金保険や介護保険にも、長期療養の経済的な不安をカバーできる保障があるからだ。
そこで、今回は、療養が長引いた場合に利用できる公的な制度、医療費節約のポイントを確認しておこう。
            

☆まずは高額療養費で、自己負担を抑える

病気やケガで入院すると、症状に応じて、手術や投薬、リハビリテーション医療などが行われる。
かかった医療費は、治療内容によって異なるが、健康保険が適用されるので、
そのうち自己負担するのは、年齢や所得に応じて原則的に1~3割だ。

ただし、入院や手術をして自己負担したお金が、一定額を超えると「高額療養費」が適用される。
高額療養費は、家計に過度な負担を与えないように配慮した制度で、
年齢や所得に応じて、1ヵ月に自己負担する医療費に上限が設けられている。

たとえば、70歳未満で一般的な所得の人(年収約370万~770万円)の限度額は、
【8万100円+(医療費-26万7000円)×1%】。
医療費が100万円かかった場合は、約9万円が限度額だ。
            

☆「限度額適用認定証」で、窓口負担もより軽く

以前は、いったん病院の窓口で3割を支払い、健康保険に申請して、限度額を超えた分の払い戻しを受けるようになっていた。
あとから払い戻されるとはいえ、数10万円のお金を用立てるのは大変だ。
そこで、作られたのが「限度額適用認定証」だ。

限度額適用認定証は、その人の所得を証明するもので、病院はこれを見て患者の高額療養費の所得区分を確認する。

現在、高額療養費は、70歳未満は所得に応じて5段階に分類されているが、
健康保険証を見ただけでは、その患者がどの所得区分なのか判断できない。

そのため、以前は払い戻し手続きが必要だったわけだが、
限度額適用認定証ができたことで、病院はその人の所得を確認できるようになった。

現在は、会計時に窓口で限度額適用認定証を提示すると、
払い戻し手続きなしで、最初から高額療養費の限度額までを支払えば、よくなっている。

限度額適用認定証は、自分が加入している健康保険で、すぐに発行してくれるので、
入院した場合は、家族に頼んだりして入手しておこう。

治療が長引いて、直近1年間に医療費が高額になった月が3回以上になると、
4回目からは「多数回該当」が適用され、さらに限度額が引き下げられる。
一般的な所得の人は、4万4400円になるので、負担はずいぶん抑えられる。

長期療養中、他にも家族が病気やケガをして、
1ヵ月にひとつの医療機関に支払った自己負担限度額が、2万1000円を超えると、「世帯合算」ができる。

合算制度は、ひとつの医療機関で、入院と通院をして別々に会計した場合などにも利用できるが、
払い戻しを受けるためには、申請が必要だ。
該当する人は忘れずに手続きを。

ただし、世帯合算できるのは、同じ健康保険に加入している家族であることが条件。
共働きで夫婦別々の健康保険に加入していたり、同居していても後期高齢者医療制度に加入している親の医療費は
合算できないので注意しよう。
            

☆トラブルの多い差額ベッド代、希望しなければ支払う必要なし

入院が長引いた場合に、問題になることが多いのが、差額ベッド代だ。

6~8人などの大部屋に入院した場合の室料は健康保険が適用され、高額療養費の対象にもなる。
だが、患者個人の希望によって、個室などの特別な環境の病室を利用した場合は、
大部屋の室料との差額を病院が徴収してもよいことになっている。

差額ベッド代の平均は、1人部屋が7812円、2人部屋が3130円、
3人部屋が2878円、四人部屋が2509円となっている(厚生労働省「主な選定療養に係る報告状況」2015年)。

たとえば、脳血管疾患の平均在院日数は約90日間なので、
1人部屋に入院すると、差額ベッド代の合計は、約70万円。
健康保険がきかないので、全額自己負担しなければならなくなってしまう。

厳しい経営環境におかれている病院にとって、差額ベッド代は、貴重な収入源だ。
そのため、とりあえず患者に同意書を書かせて、差額ベッド代のかかる部屋に入院させようとする病院もある。
            

患者も、本当は差額ベッド代のかからない病室に、入院したいと思っていても、
「断ったら、きちんと治療をしてもらえないのではないか」などの遠慮から、
渋々、差額ベッド代を払って入院しているケースもある。

だが、差額ベッド代は、入院したら必ずかかるわけではない。
あくまでも患者の希望によって、個室などを利用した場合を除いて、本来は徴収してはならないもので、
厚生労働省も医療機関に対して、守るべき注意事項として次のような通知を出している。

1.同意書による患者の同意確認を行っていない場合。
  同意書に、室料の記載がない、患者側の署名がないなど、内容が不十分な場合も含む。

2.治療上の必要があって、特別療養環境室に入院させる場合。

3.病棟管理の必要性などから特別療養環境室に入院させた場合。
  実質的に患者の選択によらない場合。

差額ベッド代のかかる部屋を希望しない場合は、入院時に渡される書類を丁寧に読んで、
安易に同意書には、サインしないようにしたいもの。

最初は「個室でゆっくり療養したい」と思って納得したとしても、
入院が長引くと、徐々にその負担は重くなっていく。

差額ベッド代を負担に感じるようになったら、早めに部屋を代えてもらうように、
看護師やソーシャルワーカーに話すようにしたい。

それでも、差額ベッド代が徴収され続けて、トラブルになるようなことがある場合は、
厚生労働省の分局である地方厚生局、市町村の国民健康保険課に相談してみよう。
            

☆入院中の収入の保障制度もあり、傷病手当金や障害年金で、収入減をカバーしよう

長期入院でもうひとつ心配になるのが、「仕事ができなくなって収入が途絶えてしまう」というもの。
たしかに収入がなければ、医療費も払えなくなる。

だが、会社員が病気やケガで仕事を休んで、給料をもらえなかったり、減額されたりした場合は、
健康保険から「傷病手当金」を受け取ることができる。

1日あたりの給付額は、日給(標準報酬日額)の3分の2で、会社から給与が払われていても、
この金額に満たない場合は、差額が支給される。

給付期間は、3日連続で休んだあとの4日目から、最長1年6ヵ月。
その間に実際に休業した日数だ。

大手企業の従業員などが加入する組合健保のなかには、法律で決められた健康保険の保障に加えて、
独自の保障を上乗せしているところも多い。
そうした付加給付のある健康保険だと、傷病手当金の金額が給与の8割、給付期間が最長3年といったところもある。

病気やケガで仕事を休んでも、当面の生活費は確保できるので、会社員はその点でも安心だ。
            

自営業の健康保険には、傷病手当金はないが、障害年金でカバーできる可能性がある。

障害年金は、公的年金の保障のひとつで、その障害の原因となった病気やケガで回復の見込みがなく、
障害が固定した場合に給付を受けられる。

給付の対象になる障害は、手足の切断や失明など、重篤なケースがイメージされがちだが、
「がんによる倦怠感が強くて働けない」「躁鬱病の症状が繰り返し起こる」などでも認定を受けられることもある。

職業に関係なくもらえるのが、障害基礎年金1~2級、会社員には障害厚生年金1~3級の上乗せもある。
もらえる年金額は、障害基礎年金1級が97万5125円、2級が78万100円で、
18歳未満の子どもがいる場合は、加算もある(2016年4月現在)。

障害厚生年金は、その人の勤続年数や勤務期間中の平均給与によって異なるが、
最低でも58万5100円が給付される。

障害認定は、原則的にはじめて医師の診察を受けてから、
1年6ヵ月たっても、回復の見込みがないと診断された場合だ。

しかし、脳梗塞や脳出血などの脳血管疾患による機能障害は、
「初診日から6ヵ月を経過した日以後に医学的観点から、それ以上機能回復が殆ど望めない」と認められると、障害認定が受けられる。
            

☆後遺症による生活の困難には、介護保険を

脳血管疾患の人が、すべて障害年金をもらえるわけではないが、
日常生活に著しい制限を受ける後遺障害が残った場合は、支給対象になることもある。

国民健康保険加入の自営業の人は、傷病手当金がないので、
障害が残って仕事ができなくなったというケースでは障害年金が頼りになる。

脳血管疾患による障害は、1年半を待たなくても、障害年金を受けられる可能性もあるので、
担当の医師に診断書を書いてもらえるように、早めに相談しておこう。

ただし、年金保険料を滞納していると、障害年金を受け取ることはできなくなる。
障害年金を受け取るには、次のいずれかの要件を満たす必要がある。

・初診日がある月の前々月までの期間の3分の2以上、保険料を納めていること
・初診日が65歳未満で、初診日のある月の前々月までの1年間に保険料の未納がない

年金保険料を滞納すると、老後の年金がもらえないだけだはなく、
障害年金や遺族年金を受け取る権利も、みすみす逃すことになってしまう。

免除申請をしておけば、保険料を納められなくても、加入期間にカウントされるので、
経済的に苦しくて保険料を納められない場合は、必ず免除申請をしておこう。
            

☆民間保険の保険に入る前に、公的保障を調べてみよう

病気の治療が終わり、退院して自宅などに帰っても、がんや脳血管疾患などを患うと思うように体が動かず、
日常生活に支障をきたすこともある。
その場合は、介護保険を利用すれば、生活のサポートをしてもらうことも可能だ。

サービスを利用できるのは、原則的に65歳以上で介護が必要な人だが、
介護保険料を納めている40~64歳の人で、認知症や脳血管疾患、がんなど加齢が原因で起こる病気の人は、
介護サービスを利用できる。

介護保険の利用には、市区町村への申請、医師の意見書などが必要で、
地域の介護認定審査会で、要介護度が決められる。

利用できるサービスは、要介護度に応じて異なるが、
入浴などの身体介助のほか、家事や買い物などの生活支援もあり、
少ない費用負担で、住み慣れた地域で生活をしてくためにサポートしてもらえる。

このように、社会保険には、病気やケガをしたときの医療保障だけではなく、
働けなくなったときの所得補償、介護が必要になったときの生活サポートなど、さまざまな保障が用意されている。

自分が加入している健康保険や年金保険に、どのような制度があるのかを知っておくと、
万一、病気やケガをしたときも、慌てないで対処ができるはずだ。

「民間の保険に入ろうかな」と思ったら、その前に、まずは公的保障について調べてみよう。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            

私は記事を読み終わった後、安堵を重ねた後、やがて微笑んだりした・・。

過ぎ去り年の2004年(平成16年)の秋に、中小業の民間会社のサラリーマンを定年退職した後、
多々の理由で年金生活を始めた。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たった2人だけで家庭であり、
私たち夫婦は齢を重ねるとボケたことを配慮して、まもなく銀行、郵便局、生命保険等を出来うる限り集約したりした。
       
こうした中で、保険関係をすべて見直して、現役時代より生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険は、ほぼ半減に修正し、
火災保険、家財保険だけは従来通りとした。

やがて私は高齢者入門の65歳になり、介護保険証を受けたりした。

そして2011年(平成23年)10月初旬に、
家内は家内の父の命日に際して、家内の母と妹の三人で、
墓参を兼ねて1泊2日の短き慰安旅行に行った時に、何かの話題の後に、年金生活の保険金の話題になったらしい。

この時に、程ほどの貯金があれば、『国民健康保険』、『介護保険』もあり、
高額治療になった場合は、程ほどの自己負担で済むから、
『医療保険』などはなくても大丈夫よ、と家内は言われたりした、と家内の帰宅後に私は教えられた。
            

この後、少しばかりのんびりとした私は、
現行の長期にわたって自己負担する高額な医療費について調べたりした。

或いは遠い親戚の叔父さんが3度ばかり入退院されて、たまたま私は、
《・・70歳未満の場合は、年収が約210万~790万円の一般所得者は、
一か月当たりの自己負担の上限を8万100円・・》
と教えられ、何かと思い込みの激しい私は、そうなんだ、と教示させられたりした。

そして私は厚生労働省の公式サイトのひとつ『高額療養費制度を利用される皆さまへ』を視たりした結果、
公的の『国民健康保険』と『介護保険』さえ加入していれば、
我が家としては、『死亡保険』、『医療保険』、『傷害保険』は、年間として少なくとも約30万円を支払ってきたが、
我が家としては不要かしら、と私たち夫婦は結論した。
         
そして、私は解約の手続きを開始したりしたのは、年金生活を7年過ぎた頃であった。

家内は、年30万円で7年だから、210万円・・無駄だったかしら、と苦笑したりした。

『でもねぇ・・先の見えない漠然とした年金生活を始めて・・無事に病気することなく、
旅行に行けたし・・こうして8年を迎えられたのであるから・・良かったじゃないの・・』
と私は微苦笑しながら、家内に言ったりした。

そして我が家は、私は国民健康保険、介護保険さえあればと思いながら、
生命保険、死亡保険、医療保険、傷害保険を解約したりした・・。

我が家はこれ以来、『高額療養費制度』を頼りにしてきた。
            

昨年の晩秋に、私は白内障で健康保険適用外の左眼、右眼を受け70万円の手術料、
そして前後には治療費は、健康保険適用『2割』で数万円を支払い、
そして今年の3月に、大腸ガン検診の大腸の内視鏡の受診し、健康保険適用『2割』で2万円前後を要した。

そして70歳以上の人の高額療養費の限度額の特権として、
一か月自己負担上限額『一般』1万2000円に基づき、私の住む調布市から、還付連絡を頂き、
いずれも樋口一葉さんのお札に満たない額を返金された。
            

今回の記事で、特に学んだのは、《・・トラブルの多い差額ベッド代、希望しなければ支払う必要なし・・》であった。

私は若き40代の時に、突然にギックリ腰で、三度ばかり入院した苦い体験がある。

この当時の私は、あるレコード会社の情報畑で、システムの開発、運営に従事して、
平日は15時間ぐらいの勤務は、当然のように感じながら、ときには徹夜勤務して奮戦していた時代であった・・。

こうした中、最初は土曜日も休日出勤した翌日の日曜日、自宅の和室でゴロコロと横たわって休んでいた時、
家内から、掃除機を取って下さい、と言われた私は、
近くの押し入れの下段に収納している掃除機を、かがんで取ろうとした時、まもなく腰に激痛を感じて、横たわったりした。

翌日の月曜日の早朝、相変わらず腰回りに痛み感じていた。
そしてタクシーで病院に行き、治療を受けて出勤しょうか、と思いながら、
布団から這(は)いずりだして、トイレを終え、何とか洗面所で歯を磨こうとした時、
激痛がはしり、くずれ、床に寝転んでしまった・・。

私は家内に声をかけ、
『みっともないけれど、救急車を呼んでくれないか・・』と言ったりした。

やがて 私はタンカーに乗せられ、病院に入ったのであるが、
ロビーの椅子に入院患者の方たちが、数多くたむろしていた・・。そして私を眺めていたのである。

『あれは、ぎっくり腰だなぁ・・間違いがねぇ・・』
とその中のひとりが言ったのである。

私の方は、腰は痛いが、頭のほうは正気だったので、恥ずかしい思いであった・・。
こうしたことが私としては、生まれて初めての救急車に乗車した初体験となった。
                    
そしてこの時は、入院直後、医師の人から、
『3日ぐらい容態を診ましょう・・』
などと私は云われ、私は多忙時期であったので、焦(あせ)った。

そして私は医師に、『早く・・職場に戻らないと・・痛くても緊急の処置をして下さい・・』
と私は懇願したりした。

結果的には、1泊2日の入院生活を生れて初めて体験したが、通された部屋は『2人部屋』であった。
                         

この一年過ぎた頃、やはり腰に激痛を感じて、身動きができず、やむえず救急車に、お世話になった。

この時は、治療を受けながら担当医師より、
『1週間前後、容態を診ましょう・・それから具体的に・・』
このような意味合いを、私は言われたりした。

やがて私は、看護婦長の姿を見つけて、
『早く・・職場に復帰しないと、会社に影響します・・
担当の先生に、短期決戦のような治療をお願いして欲しい・・』
と私はひたすら懇願したりした。

そして入院生活は3泊4日で卒業したが、最初は『個室』であり、懇願してやがて『六人部屋』となったりした。
            

この後、二年過ぎた頃、 やはり腰に激痛を感じて、身動きができず、やむえず救急車に、お世話になった。

さすがに3度目に病院に運ばれた時は、私は 観念し、
担当医師の指示に基づいて、結果としては28日間の入院生活となり、『2人部屋』で過ごした。

この当時は、会社が斡旋した生命、障害保険などに加入していたので、入院手当の保障があり、
殆ど医院の指示により、『2人部屋』を指定され、少し高いなぁと私は思ったりしたが、家内は無条件に支払ったりした。
            

年金生活の今、私は大病に遭遇して入院した時、もとより『六人部屋』を希望するが、
こればかりは医院の指示に寄ると思われる。

そして《・・差額ベッド利用の同意書に、安易にサインしてはいけない!・・》と初めて学び、
微苦笑をしたりした。

いずれにしても、何かと多彩な公的保障を学び、高齢者の私には限りなく優(やさ)しい制度である、
と安堵を重ねたりした・・。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本は“不健康長寿大国”、高齢者の私は教示されて驚き、やがて悲嘆させられたり、微苦笑したり・・。

2016-11-04 14:16:58 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
昨夜、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン』を見ている中で、
【 健康寿命日本一は山梨 沖縄は不健康化が急速に進む 】と題された見出しを見た・・。

私はセカンドライフと称される第二の人生を過ごす中、ささやかな願いを叶えたく健康寿命を保つために、
殆ど毎日歩いたりしているひとりで、どういうことですか、と思いながら精読してしまった・・。

この記事の原文は、『SAPIO』の2016年9月号に掲載された記事のひとつであり、
関連の『NEWS ポストセブン』で2016年8月25日に配信されていたが、 無断ながら転載させて頂く。

《・・健康寿命日本一は山梨 沖縄は不健康化が急速に進む

長生きはしたいが、病気にはなりたくない・・誰もがもつ健康への願い。
だが、「介護の必要などがなく生活できる期間」を表す健康寿命にも、大きな地域差があることを、データは示している。

「日本人は平均寿命の長さで知られるが、本当に大事なのは健康寿命。
この寿命を見ると、実は日本は“不健康長寿大国”なのです」
長尾クリニックの長尾和宏院長は、こう強調する。
            
厚労省によると2013年の日本人の健康寿命は、男性71. 19歳、 女性74. 21歳。
平均寿命との差は、男性で約9歳、女性で約12歳となる。
日本人は、亡くなるまでの10年前後を要介護状態で過ごすのだ。

そうした中、健康寿命の都道府県別ランキングの1位は、男女とも山梨だった。
以下、男性は沖縄、静岡、石川、女性は静岡、秋田、宮崎が続く。

「要介護になるきっかけの多くは、糖尿病や認知症です。
自然が多い山梨や静岡では、日頃から体をよく動かして野菜を多く食べる生活習慣があり、
それが健康寿命の長短に、影響してくると考えられます」(長尾氏)

健康寿命には、人との「つながり」もカギとなる。
山梨には、各人がお金を出しあって旅行や飲み会をする「無尽」という昔ながらの習慣が残っている。

「現在も高齢者を中心に、無尽が盛んです。
地域の人とのつながりが、健康寿命の長さにつながるのでは」(山梨県福祉保健部健康増進課)

静岡も高齢者の就業率が高く、地域のボランティアなど社会活動が盛んだ。

一方、かつて日本一の長寿県として知られた沖縄は、「不健康化」が急速に進む。
平均寿命は女性3位、男性30位まで下落し、急性心筋梗塞や脳血管疾患などによる現役世代の死亡率が高い。
ライフスタイルの欧米化が顕著で、肥満者の割合も全国トップクラスになった。

「外食やコンビニ中心の食事と運動不足は、生活習慣病につながる。
沖縄の凋落は“日本の未来”を暗示しているように見えます」(長尾氏)・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は今回、《・・日本人は、亡くなるまでの10年前後を要介護状態で過ごす“不健康長寿大国”・・》
教示されて、驚いたりした。

しかし冷静に振り返れば、厚生労働省の「平成25年簡易生命表」などによれば、
男性は健康寿命は71.19歳、そして平均寿命は80.21歳、
女性は健康寿命は74.21歳、そして平均寿命は86.61歳、と公表されてきた。

そして平均寿命と健康寿命の間には、男性で約9年、女性で約13年の差があり、
それぞれ人生の晩秋期として、何よりも悩ましい難関の期間となる。

もとより健康寿命は、健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間であり、
やがて要支援・要介護状態となり自立度の低下や寝たきり、終末期となる。

そして誰もが最後まで、健康で心身溌剌とした生活を送りたいと念願して、
自助努力されて過ごされている、と私は深く感じたりしてきた。

昨今、75歳以上の男女は 体力が過去最高に向上された、と私は感じ、微笑んだりした・・。
そして平均寿命が延びて、行動的な高齢者が増えつつある中、
20数年前より、多くの御方が5歳~10歳ぐらい若返りになっている、と私は感じたりしてきた。
                         

しかしながら認知症や様々な病を抱えて、やがて終末期を迎えた時、
殆どの日本では、欧米の主要国と思考が違い、自身が口からを食事ができなくなっても、
栄養などの摂取のために腹部に手術で穴をあけ、胃に直接チューブを入れて流動食を流し込む胃ろうや点滴などの、
延命治療を施(ほどこ)して、ろうそくの火ように命だけは生きさせられている・・。

もとより親族、親戚、知人などのいつまでも長く生き続けて欲しいなどの念願で、
延命治療が行われている、と私は思ったりしている。

そして本人は望んでいないにもかかわらず生かされ、生かすためのコストで国家財政が逼迫しているのが、
実態となっている。


こうした風潮の中、延命治療を施さず、徐々に人生の最終ステップに向かう老衰死が、
少しづつ増えている、と私は過日に学んだりした。

何かしら日本では、老衰による死者が増加し、
1938年の9万8451人をピークに、老衰による死者の数は、減少を続けていたが、
2000年に2万1213人で底を打った後、大幅な増加に転じ、昨年は戦後最高の7万5340人を記録した(厚労省『人口動態調査』)、
と知ったりした。

そしてこの10数年で、およそ3.5倍に増加し、全死因に占める割合を比べても、
2000年の2.3%(死因順位7位)から、昨年の5.9%(同5位)へと急伸している、と学んだりしてきた。

そして老衰死する多くの高齢者の死にゆく様は、安寧そのものであり、
がんや心臓病などに見られる「闘病」というイメージは感じられず、
苦しみはなく、自然な状態とわかっているから、やがて迎える最期の瞬間も、痛みや苦しみとは無縁で、
むしろ“快楽”を覚えるものであるとされている、と私は教えられたりした。
            
    
ここ数年、月刊総合雑誌、新聞などに於いて、
到来する2025年には、団塊の世代が75歳以上となり、やがて2038年前後には、
推計約170万人もの人が亡くなる“多死社会”のピークが来る、と掲載されている記事が多くなっている。

こうした中で、医師の長尾和宏さんは、
「病院で死ぬ人が、在宅死を上回ったのが1976年。
40年前までは、家で死ぬ人のほうが多かった。

終末期を病院のベッドで過ごし、過剰な延命治療をすることが、果たして本当に幸せなのか考えてほしいのです」
穏やかな最期を迎える「平穏死」という考え方を提唱する。

「人が死に向かうときには、体の機能が徐々に落ちて終末期を経てから、やがて死を迎えます。
終末期に食べ物を受け付けなくなるのは、自然なこと。

しかし、点滴で無理に栄養を入れ過ぎてむくみ、もがき苦しみながら亡くなるというケースも。
医療の目的は、命を延ばすこと。
終末期以降も過剰な延命治療を続ける医療機関も少なくありません。

最期をどこで、どのように迎えるか、選択権は患者本人にあります。

しかし認知症や意識不明で病院搬送された後など、意思表明が困難なことも多いのです。
延命治療をどこまで希望するか、終末期医療の選び方によって、
穏やかな最期を迎えられるということを知ってほしいと考えています」

このような記事を私は数年前に読み、延命治療に対して拒否しょう思っていた私は、深く共感を深めてきた。
            

今回の記事に於いて、《・・沖縄は、ライフスタイルの欧米化が顕著の上、
外食やコンビニ中心の食事と運動不足は、生活習慣病につながり、
やがて急性心筋梗塞や脳血管疾患などによる現役世代の死亡率が高い・・》と学んだりしてきた。

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』の真似事をしている。
そして前菜を必ず頂いているし、日本人の波長に合う和食の代表、と思ったりしている。

そして程ほどに毎日歩いたりし、粗食も愛食しているので、長き生きできるかしら、
と何かと気弱な私でも、微苦笑したりしている。

やがて私はいつの年にか、神様か仏様の采配に寄る世界であっても、
何とか最後のお願いとして、穏やかで安らかに、逝きたいと念願している。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過ぎゆく日々を思い馳せ、やがて老ボーイの私はブログを読みながら、独り微苦笑を重ねて・・。

2016-11-03 14:28:43 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、築後38年を過ぎた古ぼけた一軒屋に住み、自動車もない稀(まれ)な家となっている。

今朝、家内と共に朝食を頂いた後、やがて私たち夫婦は駅の近くにあるホームセンターに向かった。
穏やかな秋晴れの中、20分ぐらいを歩いてホームセンターに着いた。

我が家の居間と和室の間にあるドア・ノブが故障してきたので、やむなく修理する為に、
新たな備品を買い求めにきたのであるが、多彩なドア・ノブを見たりしたが、やがて10分ぐらいで、
選定して買い求めたりした。

この後、家内はドラッグストアーで化粧品、洗剤などを買い求める為、
駅前のベンチで、私たちは待ち合わせることとした。

そして私は本屋に寄り、二冊ばかり購入した後、駅前のベンチで腰を下ろした。

平素でも人出が多い上、祭日に相応しく、更に多くの人がにぎあう中、
正装された若き30代の父親と母親に引率された5歳ぐらい男の児を私は見掛けて、
『七五三』の祝いで、神社に参拝に行くのかしら、と私は感じて微笑んだりした。

やがて私は、去年の『文化の日』には、私はどのような思いで過ごしていたのだろうか、
とぼんやりと思い馳せたりした。
              

まもなく家内と私は合流した後、昼食代わりにスーパーでお弁当を買い求めて、帰宅した。

やがて昼食後、私はブログを開き、昨年の『文化の日』に綴った投稿文を読みだした・・。
『朱色、紅色、黄色など多彩に染められる錦繍の情景を迎える中、とりとめなく思い馳せれば・・。』
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20151103

私は読みながら、去年のこの『文化の日』には、このような思いでいたか、と独り微苦笑をしたりした・・。

そして一昨年の平成14年、やがて平成13年・・と読んだりして、
あの年の今の頃は・・と独り微苦笑を重ねたりした・・。
              

私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職して、
定年後、多々の理由で年金生活を始め、まもなく偶然にブログの世界を知った・・。

そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入し、この日から4306日が過ぎている。

この間、まもなく他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり中断したが、
やがて2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
        
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸11年が過ぎて、早や12年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                           
              
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

或いは年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどが心の叫び、思いがあふれ、
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                                                 
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々の心情を脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、
あますことのないように綴ってきた。

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。
       
恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。
                                                   

こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは5年近く前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
不勉強の為に筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省する時もある。

今回、たまたま読み返したりしたが、余り進歩してないなぁ・・と微苦笑をしたりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長寿のための食生活 丸ごと食べられるジャコ・納豆を推奨、里彦の私は学び、やがて微苦笑を重ねて・・。

2016-11-02 16:15:28 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
先程、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン』を見ている中で、
【 「長寿のための食生活 丸ごと食べられるジャコ・納豆を推奨 】と題された見出しを見た・・。

私は健康寿命を何とか持続しているが、ささやかな願いを叶えたく、歩いたりしているが、
やはり食事も、日頃の程ほどの食べ物を頂くことが肝要と思ったりしている。

このような思いがある私は、ジャコ・納豆の食べ物も建康寿命を延ばすと知り、
詳細に学びたく記事を精読してしまった・・。

この記事の原文は、『週刊ポスト』の2016年11月11日号に掲載された記事のひとつであり、
関連の『NEWS ポストセブン』で2016年11月2日に配信されていたが、 無断ながら転載させて頂く。

《・・長寿のための食生活 丸ごと食べられるジャコ・納豆を推奨

☆とても体に良いジャコ
            

日本が世界トップの長寿国なのは、主な死亡原因とされる心臓病(心筋梗塞)が、諸外国に比べて少ないのも一因である。

心筋梗塞の原因は、コレステロールだが、日本人のコレステロール値は、諸外国の平均を下回っている。
なぜ低いのかというと、米を主食にしていたからだと考えられる。
米は脂肪が少ないながらも、カロリーが摂れるのだ。

さらなる理由を武庫川女子大学国際健康開発研究所の家森幸男所長が語る。
「日本人は、魚をたくさん食べる。
魚にはタウリンが多く含まれていて、高血圧や動脈硬化の予防になるとされています。

また、魚にはDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)も含まれており、
これは血液をサラサラにする効果もあります。
これにより、動脈硬化になりにくかったということです」

DHA(ドコサヘキサエン酸)とEPA(エイコサペンタエン酸)は、人間にとって必須の不飽和脂肪酸で、
血液や血管を健康に保つ効果があるとされている。

かつてご長寿の双子姉妹として、テレビ番組やCMに引っ張りだこになった「きんさん、ぎんさん」の好物も、
「魚」だったという。

「特に魚は、内臓や頭も丸ごと食べてほしい。
そのほうが必要な栄養素が摂れます。
難しいと思う人には、一匹丸ごと食べられるジャコがお勧めです」(家森氏)

魚は脳卒中の予防にも効果的だが、大豆を食べていれば、さらに予防効果は高まる。

「血管(動脈)は、内膜・中膜・外膜の三層になっていますが、
大豆に含まれるイソフラボンは、内膜の内皮細胞に対して、一酸化窒素の生成を促して血管を拡張させ、
血液の流れをスムーズにさせるため、脳卒中を予防するのです。

ただし、イソフラボンの摂取のために大豆を食べるなら、豆腐や豆乳よりも、
大豆を丸ごと食べることができる納豆のほうがいい。
その時に、醤油をかけすぎると、塩分過多になるので、注意が必要です」(前出・家森氏)・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
                          

私は読み終わった後、『ジャコ』って、魚の一種類と想像できたが、
無念ながら具体的には解らなかった。

私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて小学3年生の頃、先生から『山彦海彦』の話を私たち生徒に優しく教えて頂いた時、
私は少し戸惑ったりした・・。

少年の私としては、山の幸で生活されている両親に育った『山彦』でもないし、
或いは海辺で生計をたてている両親の児の『海彦』にも属さないのである。

この頃の生家は、田畑が広がり、周辺は平坦な田畑、雑木林、竹林などが広がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖と先生たちは称していた。

この当時の私は、山辺も知らなかったし、海も観たことのない少年であり、
やむなく里の児の『里彦』だ、と秘かに心に決めたりした。

このような心情が私の心の奥底に今だあり、『里彦』とか『里っ児』と思ったりする時もある。
            

今回、恥ずかしながら『ジャコ』を学ぼうとしてネットで検索した。
《・・ちりめんじゃこ(縮緬雑魚)は、
イワシ類(カタクチイワシ・マイワシ・ウルメイワシ・シロウオ・イカナゴなど)の仔稚魚を食塩水で煮た後、
天日などで干した食品。

ごく小さな魚を平らに広げて干した様子が、
細かなしわをもつ絹織物のちりめん(縮緬)を広げたように見えることからこの名前がついた。
魚そのものはシラスといい、しっかり干さないものは、その名で呼ばれることもある。

収量が多く、油分の少ないカタクチイワシの仔魚が用いられることが多い。
ちりめんじゃこの体長は一般に10~40㎜のものを指し、20㎜前後のものが商品として一般的である。
また、牛乳と共にカルシウムを多く含む食品の代名詞ともなっている。・・》

このように表示されて、『ジャコ』は『雑魚』のことをいうこと、生まれて初めて知った。

そしてイワシなどは、ときおり幼年期から生から焼いたり、或いは干したイワシを焼いて頂いたり、
青年期からは、シラス、ちりめんじゃこ(縮緬雑魚)を食べたりしてきたので、微苦笑をして、
何かと無知なことの多い私でも、『ジャコ』かょ、と赤面したりした。
            

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であるが、
食事に関しては、私は幼年期に農家の児として育ったので、齢ばかり重ねた今でも、
朝食は、ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の『一汁三菜(いちじゅうさんさい)』の真似事をしている。

私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、
大きな皿に盛大に食べたりしている。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂くことが多い。

ここ二週間前の頃から、改めて納豆は良いと知り、朝食に頂いている。
        
家内は時折つきあうが、大半は食パンにジャム、オレンジ・ママレード、或いはブルーベリーを塗り、
二枚ばかり食べながら、ホット・コーヒーを飲みながら頂くことが多い。
そしてバナナなど果物も食べたりしている。

昼食は私はホット・コーヒーか煎茶を飲みながら、小さな塩フランスバンを三ばかり食べたりしているが、
家内はケーキのような菓子パンを食べることが多い。

そして昼食は、お互いに自由な時間を過ごしているので、
それぞれ自在に食べることが多いのが、実態となっている。
                                                               
やがて夕食の時は、私は前菜として、冷凍のブロッコリーを電子レンジで少し温めて、
やはりミッカンぽん酢とお醤油をかけて、食べている。

そして牛肉、豚肉、鶏肉、ラム肉などのいずれかを野菜を加えて、多めに頂いたりし、
ときにはシイタケ、シメジ、マイタケなどの茸(きのこ)も好きで、食べたりしている。

家内は肉と野菜を食べたりした後、プリンかショートケーキを食べたりしている。

こうした朝食、夕食を頂いている中でも、 私は平素は亡き母の遺伝を素直に受け継いだ為か、
男の癖におしゃべりで、家内と談笑をしたりしている。

こうした日常生活の食事となり、ときおり駅前に買物とか旅行の旅先の時は、
家内の要望を聞いて、食事処で少し背延びした料理も頂いたりしている。
                          
ときおり家内が独り住まいの家内の母宅に、家内の妹と交代で、看病で宿泊することも多くなっていて、
私は我が家で『おひとりさま』の生活になるが、こうした時でも殆ど食事内容が変わらなく過ごしたりしている。
            

このような食事を頂いているが、やはり里彦の私は、魚の生臭いが苦手で、
海辺、海上の釣りなどは避けている。

せめて平素はシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂いたりし、
ときおり旅路で、食事処で魚を焼いて下さった簡素な料理に好感して、何かと多くめ賞味して、
補(おぎな)っているのが実態となっている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする