私は、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このようにつたない定年までの半生を過ごし、せめて残されたセカンドライフは、
多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
こうした中で、やはり音楽業界の動向が今でも気になり、音楽に関するニュースを年金生活13年生の今でも、
ときおり読んだりしている。
朝食後、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン 』を見ている中、
【 ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由 】と見出しを見て、
私は微苦笑しながら、クリックして精読してしまった・・。
この記事は、『NEWS ポストセブン 』に於いて、11月14日朝7時過ぎに配信された記事であり、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
《・・ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由
『べっぴんさん』のMr.Children、『とと姉ちゃん』の宇多田ヒカル、『マッサン』の中島みゆき、
古くは井上陽水や松任谷由実など、NHKの朝ドラ主題歌には大物アーティストがよく起用されている。
彼らのような大物になると、オファーを受けるか受けないかは、
レコード会社の意向よりも、本人の意思が尊重されるといわれる。
今さら売り出したいわけでもない、富も名声も手にした彼らが朝ドラ主題歌のオファーを受けるのはなぜか?
元テレビプロデューサーで上智大学教授(メディア論)の碓井広義さんは、
アーティストの情熱や好奇心が根底にあると語る。
「すでに売れてしまったアーティストでも、
『たくさんの人に自分の音楽を届けたい、聴いてもらいたい』という情熱は間違いなく、持っているはずです。
半年にわたって自分の曲が毎朝テレビで流れるという機会は、彼らにとっても経験のないことです。
その中で自分の音楽がファンだけでなく、ファン以外の人たち、子供からお年寄りまで
広い世代にどう広がっていくのかを見てみたいという、ある種の実験のような感覚もあるのかもしれません。
物語に合わせて曲を作るという“縛り”があることも、アーティストとしての創作意欲をかきたてられる一要素だと考えられます。
決まった条件がある中で、自分の世界観も見せる。アーティストとしては腕の見せ所でしょう」(碓井さん、以下「」内同)
そこにはCDが売れるか、どうかを超えた魅力があるといえそうだが、ビジネス面でも、しっかり成功している。
『とと姉ちゃん』の主題歌『花束を君に』も収録されている宇多田ヒカルの最新アルバム『Fantôme』(9月28日発売)は、
オリコンCDアルバムランキングで4週連続1位を獲得。
宇多田本人が出たいかどうかはさておき、初の『紅白歌合戦』出場への期待も高まっている。
Mr.Childrenの『ヒカリノアトリエ』も、リリースされれば音楽シーンを賑わせてくれそうだ。
また碓井さんは、“オファー形式”だからこそ受ける刺激もあるのではないかという。
「番組プロデューサーには、自分がやるときは敬愛するアーティストを選びたいという気持ちがあります。
民放ドラマの場合は、アーティストがすでに作っていた曲を局が『借りる』パターンも多いのですが、
朝ドラの場合はその都度アーティスト側にオファーをかけるのが通例。
『あなたに作ってほしい』とオファーされて作る機会は、
大物といえどそんなにあるものではないので、いつもと違った新鮮さはあると思います」・・(略)》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はNHKの朝ドラは殆ど視聴していないが、それでも2010年度下半期『ゲゲゲの女房』に於いて
主題歌を唄ったいきものがかりの『ありがとう』を聴いたりして、何かと励まされることが多かったりした。
そして2012年度上半期『カーネーション』に於いて、主題歌『カーネーション』を唄った椎名林檎さん、
2015年度上半期『マッサン』に於いては、主題歌を唄った中島みゆきさんの『麦の唄』、
2016年度上半期『あさが来た』に於いては、主題歌を唄ったAKB48の『365日の紙飛行機』、
或いは2016年度下半期『とと姉ちゃん』に於いては、主題歌を唄った宇多田ヒカルさんの『花束を君に』が、
瞬時に思い甦(よみがえ)る・・。
こうした思いを綴ると、限りなく長文になるで、今回は『いきものがかり』さんに関してだけ、発露する。
2014年11月初旬、私は確か一週間の前の夕暮れ時、ラジオを聴いていたら、
偶然に私の好きな『YELL(エール)』の曲が流れ始め、吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえた・・。
この『YELL(エール)』など数多くの名曲を創られたのは、『いきものがかり』というバンドであり、
水野良樹(みずの・よしき)さんと山下穂尊(やました・ほたか)さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによる
三人構成のスリーピース・バンドである。
私が遅ればせながら、偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2004年(平成16年)秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
やがて2008年〈平成20年〉の初秋、私たち夫婦は家内の母を誘い3人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に、観光バスで行く途中であった・・。
日本海の近くにある高速道路のあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
何かと好きな徳永英明(とくなが・ひであき)さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。
♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ・・
ぼんやりと聴いていたが、のびのびとした爽(さわ)やかな唄声に、瞬時に魅了されたのである・・。
偶然にこの曲を知り、たまたまその唄声に魅了され、
やがて後日、水野良樹さんと山下穂尊さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲名を知ったりした。
その後の私は『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。
そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったりした。
私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。
私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、と思ったりした。
確か2009年(平成21年)9月下旬に私が高齢者入門の65歳になった時、
ラジオから『YELL(エール)』の曲が流れ始め、私は聴いたりしていると、
私の高齢者入門の門出を励ますように感じたりした・・。
しかしながら後日に、第76回NHK全国学校音楽コンクール・中学校の部の課題曲『YELL(エール)』と知り、
そして水野良樹さんが作詞と作曲を担当されたと学んだりした。
何かと多感で不安を秘めた中学生や高校生に人生の途上を励ます歌だろうと解釈したが、
高齢者の私だって、大いに励まされるょ、と独り微笑んだりした。
過ぎし2012年7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなったりした。
その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。
そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となったりしてきた。
或いは2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。
そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、ぼんやりとニュースだけは見ることが多かった。
そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっていた。
こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。
この少し前の4月の初めの頃だったか、私は居間でパソコンを8時過ぎに開いていたら、
♪ありがとうって伝えたくて・・とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』と思わずテレヒの番組を見たりした。
そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。
そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。
余談であるが、私は現役サラリーマンの時代は、あるレコード会社に長らく勤めた身であるが、
彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、齢を重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。
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アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このようにつたない定年までの半生を過ごし、せめて残されたセカンドライフは、
多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
こうした中で、やはり音楽業界の動向が今でも気になり、音楽に関するニュースを年金生活13年生の今でも、
ときおり読んだりしている。
朝食後、ときおり愛読しているネットの『NEWS ポストセブン 』を見ている中、
【 ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由 】と見出しを見て、
私は微苦笑しながら、クリックして精読してしまった・・。
この記事は、『NEWS ポストセブン 』に於いて、11月14日朝7時過ぎに配信された記事であり、
無断であるが記事の大半を転載させて頂く。
《・・ミスチル、宇多田ら 大物歌手が朝ドラ主題歌を受ける理由
『べっぴんさん』のMr.Children、『とと姉ちゃん』の宇多田ヒカル、『マッサン』の中島みゆき、
古くは井上陽水や松任谷由実など、NHKの朝ドラ主題歌には大物アーティストがよく起用されている。
彼らのような大物になると、オファーを受けるか受けないかは、
レコード会社の意向よりも、本人の意思が尊重されるといわれる。
今さら売り出したいわけでもない、富も名声も手にした彼らが朝ドラ主題歌のオファーを受けるのはなぜか?
元テレビプロデューサーで上智大学教授(メディア論)の碓井広義さんは、
アーティストの情熱や好奇心が根底にあると語る。
「すでに売れてしまったアーティストでも、
『たくさんの人に自分の音楽を届けたい、聴いてもらいたい』という情熱は間違いなく、持っているはずです。
半年にわたって自分の曲が毎朝テレビで流れるという機会は、彼らにとっても経験のないことです。
その中で自分の音楽がファンだけでなく、ファン以外の人たち、子供からお年寄りまで
広い世代にどう広がっていくのかを見てみたいという、ある種の実験のような感覚もあるのかもしれません。
物語に合わせて曲を作るという“縛り”があることも、アーティストとしての創作意欲をかきたてられる一要素だと考えられます。
決まった条件がある中で、自分の世界観も見せる。アーティストとしては腕の見せ所でしょう」(碓井さん、以下「」内同)
そこにはCDが売れるか、どうかを超えた魅力があるといえそうだが、ビジネス面でも、しっかり成功している。
『とと姉ちゃん』の主題歌『花束を君に』も収録されている宇多田ヒカルの最新アルバム『Fantôme』(9月28日発売)は、
オリコンCDアルバムランキングで4週連続1位を獲得。
宇多田本人が出たいかどうかはさておき、初の『紅白歌合戦』出場への期待も高まっている。
Mr.Childrenの『ヒカリノアトリエ』も、リリースされれば音楽シーンを賑わせてくれそうだ。
また碓井さんは、“オファー形式”だからこそ受ける刺激もあるのではないかという。
「番組プロデューサーには、自分がやるときは敬愛するアーティストを選びたいという気持ちがあります。
民放ドラマの場合は、アーティストがすでに作っていた曲を局が『借りる』パターンも多いのですが、
朝ドラの場合はその都度アーティスト側にオファーをかけるのが通例。
『あなたに作ってほしい』とオファーされて作る機会は、
大物といえどそんなにあるものではないので、いつもと違った新鮮さはあると思います」・・(略)》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私はNHKの朝ドラは殆ど視聴していないが、それでも2010年度下半期『ゲゲゲの女房』に於いて
主題歌を唄ったいきものがかりの『ありがとう』を聴いたりして、何かと励まされることが多かったりした。
そして2012年度上半期『カーネーション』に於いて、主題歌『カーネーション』を唄った椎名林檎さん、
2015年度上半期『マッサン』に於いては、主題歌を唄った中島みゆきさんの『麦の唄』、
2016年度上半期『あさが来た』に於いては、主題歌を唄ったAKB48の『365日の紙飛行機』、
或いは2016年度下半期『とと姉ちゃん』に於いては、主題歌を唄った宇多田ヒカルさんの『花束を君に』が、
瞬時に思い甦(よみがえ)る・・。
こうした思いを綴ると、限りなく長文になるで、今回は『いきものがかり』さんに関してだけ、発露する。
2014年11月初旬、私は確か一週間の前の夕暮れ時、ラジオを聴いていたら、
偶然に私の好きな『YELL(エール)』の曲が流れ始め、吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえた・・。
この『YELL(エール)』など数多くの名曲を創られたのは、『いきものがかり』というバンドであり、
水野良樹(みずの・よしき)さんと山下穂尊(やました・ほたか)さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによる
三人構成のスリーピース・バンドである。
私が遅ればせながら、偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に初めて魅せられたのは、
2004年(平成16年)秋に定年退職後、多々の理由で年金生活を始めて、
やがて2008年〈平成20年〉の初秋、私たち夫婦は家内の母を誘い3人で
富山市の郊外にある呉羽山に5泊6日の温泉滞在旅行に、観光バスで行く途中であった・・。
日本海の近くにある高速道路のあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
何かと好きな徳永英明(とくなが・ひであき)さんの歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。
♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ・・
ぼんやりと聴いていたが、のびのびとした爽(さわ)やかな唄声に、瞬時に魅了されたのである・・。
偶然にこの曲を知り、たまたまその唄声に魅了され、
やがて後日、水野良樹さんと山下穂尊さん、そして同級生の妹・吉岡聖恵ちゃんによるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、『帰りたくなったよ』という曲名を知ったりした。
その後の私は『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしていた。
そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と後日にNHKのBS2で『いきものがかり ライブ』を視聴して、改めて知ったりした。
私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
何かとすれ違うことの多い人生の中で、
この当時の私は63歳の身であったが、夢中にさせてくれたことに感謝をしたりした。
私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な伸びのある唄声で、多くのファンを獲得された、と思ったりした。
確か2009年(平成21年)9月下旬に私が高齢者入門の65歳になった時、
ラジオから『YELL(エール)』の曲が流れ始め、私は聴いたりしていると、
私の高齢者入門の門出を励ますように感じたりした・・。
しかしながら後日に、第76回NHK全国学校音楽コンクール・中学校の部の課題曲『YELL(エール)』と知り、
そして水野良樹さんが作詞と作曲を担当されたと学んだりした。
何かと多感で不安を秘めた中学生や高校生に人生の途上を励ます歌だろうと解釈したが、
高齢者の私だって、大いに励まされるょ、と独り微笑んだりした。
過ぎし2012年7月の初め頃、私は居間で新聞、本を読んだりしている時、
家内はテレビを視聴したりしていると、
テレビから吉岡聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声が聴こえる時が多くなったりした。
その後に気付いたのであるが、第30回夏季オリンピックがイギリスのロンドンで7月27日から開催され、
NHK放送テーマソングとして、いきものがかりの『風が吹いている』が選定されて、
このグループの女性ボーカルの吉岡聖恵ちゃんが唄っていた、と解ったりした。
そして今日まで、我が家は何かとのNHKテレビ放送を視聴することが多く、
オリンピック開催中に伴い、少なくとも一日に数回は、
吉岡聖恵ちゃんの『風が吹いている』の唄声を聴いたりし、
齢ばかり重ねた高齢者の私でも、励まされるような心情となったりしてきた。
或いは2010〈平成22〉年の5月頃、いつものように私は朝の7時より、
NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴していた。
そして家内は、洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、ぼんやりとニュースだけは見ることが多かった。
そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっていた。
こうした時に、いつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、体力の衰えた私でも、思わず微笑を浮かべたりした・・。
この少し前の4月の初めの頃だったか、私は居間でパソコンを8時過ぎに開いていたら、
♪ありがとうって伝えたくて・・とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』と思わずテレヒの番組を見たりした。
そしてNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』の歌だ、と少し判りかけたのである。
そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされた・・。
余談であるが、私は現役サラリーマンの時代は、あるレコード会社に長らく勤めた身であるが、
彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、齢を重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。
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夢逢人さんの感性がまったく私と同じであり、そのことを適切に表現されていることに感動しました。畏れ多くも感性が同じなどと表現したことをお許しください。
さらに、ボーカルの吉岡聖恵さんの何とも言えない魅力についてもまったく同感です。「YELL」が全国合唱コンクールの課題曲に選定された経緯についてのNHKの番組も視聴しました。
一世を風靡してしまった感のある「いきものがかり」ですが、これからも彼ら彼女らの活躍にエールを送りましょう!!!
>拝読させていただいた「いきものがかり」論にまったく賛同します。
>夢逢人さんの感性がまったく私と同じであり、そのことを適切に表現されていることに感動しました。
私は貴兄が「いきものがかり」を知っていることに、失礼ながら世代間からして、
驚いたりして、良き音楽は世代を超越する、と嬉しく感じている次第です。
私は貴兄と感性、感覚が、少し似ているかしら、と感じることがあります。
貴兄の11月2日『大きなイベントを終えて』を読ませて頂いた中、
ある団体の事務局長をされている貴兄が、重責で多忙の中、
《・・私の中には「どうせやるなら楽しく!」という思いをいつの場合も忘れないようにしている。・・》
私も現役時代、同じ仕事をするなら、明るく楽しくしょうょ、と職場で幾たびも言ったりしてきた次第です。
>さらに、ボーカルの吉岡聖恵さんの何とも言えない魅力についてもまったく同感です。
>「YELL」が全国合唱コンクールの課題曲に選定された経緯についてのNHKの番組も視聴しました。
>一世を風靡してしまった感のある「いきものがかり」ですが、これからも彼ら彼女らの活躍にエールを送りましょう!!!
音楽ジャーナリスト・柴那典(しば・とものり)さんが、新刊『ヒットの崩壊』(講談社現代新書)11月15日発売に伴い、
11月上旬に音楽に関して、有力なアーチストにインタビーされていた記事がネットの【cakes(ケイクス)】で公開されていました。
たまたま11月4日に於いては、『いきものがかり・水野良樹が語る「音楽の危機」』が掲載されて、
ここ10数年の実情が的確に水野良樹さんが発露されて、無力な私でも感銘した次第です。
長文で恐縮ですが、お読み頂ければ幸いです。
《・・いきものがかり・水野良樹が語る「音楽の危機」
☆ヒットの崩壊
2010年代、「ヒットの方程式」が、成立しなくなりました。
そのことについて、J-POPのシーンのど真ん中で活躍する、
いきものがかり・水野良樹さんはどう感じているのでしょうか?
☆いきものがかり・水野良樹が語る「J-POPの変化」
2010年代は、さまざまな意味で「ヒットの方程式」が、成立し得ない時代となった。
ヒット曲は、もはやお茶の間のものではなくなった。
しかし、「みんなが知っているヒット曲」がなくとも、
ファンを増やし、動員を稼ぎ、ライブを主軸に活動を続けていくことが、できるようになった。
その変化を、J-POPのシーンのど真ん中で活躍してきたアーティスト自身は、
どのように感じているのだろうか。
そのことを尋ねるべく、いきものがかり・水野良樹にインタビューを行った。
「やっぱり、かつてはヒット曲に関するルールが、もう少しシンプルだったんですね。
それが、2000年代の後半から2010年代に入って、
『何をヒット曲とするのか』というルールが、だんだんわかりづらくなっていった。
ランキングだけでは、わからなくなった。
だからこそ、ヒット曲というものを、みんなが認識しづらくなってきたんだと思います」
彼も小室哲哉と同じく、このように指摘する。
いきものがかりは、2006年にメジャーデビューしたグループだ。
メンバーは、ボーカルの吉岡聖恵、リーダーでギターの水野、ギター・ハーモニカの山下穂尊という3人。
「ありがとう」「YELL」「じょいふる」など数々のヒット曲を送り出し、
2016年にはデビュー10周年を迎えている。
まさに彼らは2000年代後半から、2010年代のJ-POPのシーンを代表するアーティストであるわけだが、
そこに至るまでは、決して順風満帆な道程ではなかったと水野は振り返る。
「僕たちにとっては、環境がどんどん厳しくなっていくことを感じる10年間でした」
デビューした当時、スタッフやサポート・ミュージシャンやエンジニアなど周囲の大人たちは、
みな1990年代のCDバブルを体験していた。
その頃の華やかな思い出話を聞かされることも多かった。
彼らが知名度を拡大していく2000年代後半は、CDセールスが目に見えて落ち込んでいく期間でもあった。
もし1990年代にデビューできていたら、
もっと華々しい成功を手に入れていたはずだと、周囲の大人たちから聞かされることもあったという。
それでも、彼は自分たちを「運が良かった」と語る。
「2006年はまだCDも売れていたし、それを中心としたシステムが、まだ維持されていた。
そこでスタートすることができたのは、幸せだったと思います。
僕らはCDを売ることが難しくなってしまう少し前に、デビューすることができた。
そこでリスナーを獲得することができて、次の作品を作るための資本を得ることができた。
なので、ちゃんとしたレコーディング環境を維持することができたし、
僕らが演奏していただきたいと思うミュージシャンの方に、オファーをすることができた。
レコード会社も、ちゃんと自分たちの作品を尊重しながら、プロモーションしてくれた。
僕らは、運良くそういう環境で、活動を続けることができた。
そういう意味では、すごくギリギリの、CDバブルの本当に最後の残り火があるときに、
デビューできたのは、運が良かったことだと思うんです」
☆音楽は社会に影響を与えているか
1990年代のCDバブルは、すでに終焉を迎えた。
しかし、ここまで書いてきたように、2010年代のJ-POPを巡る状況は
「CDは売れなくとも、ミュージシャンは生き残る時代」となっている。
パッケージ市場が縮小しても、ライブを軸に、活動を続けていくことができるようになっている。
いきものがかりもライブ人気は高い。
2016年の夏には、メンバー3人の地元、神奈川県海老名市と厚木市で、
メジャーデビュー10周年を記念した単独野外ライブを開催、4公演で10万人を動員した。
そういう意味では、彼らもまたマーケットの変化に対応したグループであるとも言える。
では、水野自身は、そこについてどんな風に考えているのだろうか。
この先、ミュージシャンは、ライブ主体に活動するようになっていき、
音楽シーンに「みんなが知っているヒット曲」は必要なくなっていくのか。
そう尋ねると、彼は力強く否定した。
「ヒット曲が少ないことが、意味するのは、
つまり、音楽という存在が、社会に対して与える影響が弱くなったということだと思うんです」
「CD売れない」とか「ライブの収益は拡大している」とか、
そういう変化は、あくまで音楽業界の中のトピックだ。
ビジネスモデルの話と言ってもいい。
しかしその外側、ポップ・ミュージックと社会との関わりに目を向けると、見えるものは変わってくる。
「僕らが青春時代を過ごしたCDバブルの時代というのは、
別に音楽が好きじゃない普通の高校生の子もテレビで
『HEY!HEY!HEY!」や『ミュージックステーション』を観ていた。
それを観てないと、みんなの話題についていけなかったんです。
テレビが、今より影響力が強い時代だったから、ドラマやCMで流れている曲が、
そのまま社会に、インパクトを与えていた。
しかもビジネスとしても成功していた。
そういう時代を僕は見てきたんです。
ヒット曲っていうのは、そういうものだと思ってたんですよ」
1990年代、音楽は、ポップ・カルチャーの主役だった。
少なくとも、テレビから流れるヒット曲の数々は、若者たちの話題の中心になっていた。
世代の共通体験となっていた。
歌は世につれ、世は歌につれ──。
ヒット曲は、その時代の流行の映し鏡となる。
だから、時を経ても「あの頃」を思い出すためのキーになる。
そうやってポップ・ミュージックは、時代の象徴となってきた。
そういうヒット曲の持つ力が、失われてしまうことは、音楽それ自体の価値が、損なわれることにもつながる。
そこに大きな危機感がある、と水野は言う。
「たとえビジネスとして、成立していたとしても、
みんなが共有できるヒット曲がないということは、音楽が社会に影響を与えていると言い切れないということになってくると思うんです。
そうすると、逆に社会全体から見たら、
音楽はいくつかあるコンテンツのうちの一つでしか、なくなってしまう。
極端に言えば、どうでもいいものになってしまうんじゃないか、という危惧があるんです」・・》
こうしたことを私は読み、私は溜息を重ねたりした次第です。
そして私は、10月初旬に会社のOB懇親会などで、定年後ここ10数年のレコード会社の烈風に憂い、
最後7年はリストラで悪戦したけれど、総対的には僕たちは幸福な時代を過ごせた・・、
と私は同じ時代を過ごしてきた同期世代に、言ったりしている次第です。
水野良樹が発した言葉の一文の紹介ありがとうございました。
彼が名声に浮かれず、時代を、社会を冷静に見つめ、分析していることを知ることができ、「さすが」との思いを強くしました。
水野が言うことは、私も皮膚感覚で感じていた部分でした。
歌の世界ばかりじゃないないですが、いろいろなさまざまな価値観が急激に変化していることを感じざるを得ない現代です。昭和は遠くなりにけり、ということでしょうか?
実は今月末、拙ブログに時々登場する「めだか学校」で「歌で甦る昭和の記憶」と題する歌唱の集いがあります。
私たち昭和世代は、誰もが知っているヒット曲を口ずさむことができますが、平成世代はそうしたことは難しいんでしょうなぁ…。
そのことをどうこう言うつもりはありませんが…。(言ってもはじまりませんしね)
>歌の世界ばかりじゃないないですが、いろいろなさまざまな価値観が急激に変化していることを感じざるを得ない現代です。
>昭和は遠くなりにけり、ということでしょうか?
確かに貴兄が明記された通り、敗戦後はラジオ、映画・・やがてテレビ・・と誰しもが娯楽として共有できた時代でした。
平成にネット、携帯電話、そしてスマホが多く国民が利用され、
人それぞれ多彩な社会価値観となってきました・・。
>実は今月末、拙ブログに時々登場する「めだか学校」で「歌で甦る昭和の記憶」と題する歌唱の集いがあります。
>私たち昭和世代は、誰もが知っているヒット曲を口ずさむことができますが、平成世代はそうしたことは難しいんでしょうなぁ…。
>そのことをどうこう言うつもりはありませんが…。(言ってもはじまりませんしね)
時代遅れの私は、音楽に関しては、ときおり古き良き時代の歌を聴いたり、
かぼそい声で唄ったりしている次第です。
こうした中で、私は退職後まもない時、ネットで【なつかしい童謡・唱歌・わらべ歌・寮歌・民謡・歌謡】公式サイトを知り、
改めて学んだりしている次第です。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html
この中に於いて、左上段になある『文化庁「親子で歌いつごう 日本の歌百選」』コーナーに魅せられている次第です。
解説に明示されている通り、
《・・文化庁などの主催による「親から子、子から孫へ~親子で歌いつごう 日本の歌百選」の選考委員会が、
平成19年1月14日、選出した101曲を発表しました。
ハガキやメールなどにより全国公募をしたにしては、計6671通、859曲とちょっと寂しい応募数ですけれど、
ま、それは置いておいて、目次の一つとしてアップ致しました。1曲多いのは、絞りきれなかったためだそうです。・・》
貴兄の参集している「めだか学校」で「歌で甦る昭和の記憶」と題する歌唱の集い・・
参照になるかと思い、記載した次第です。