夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

能登半島、ささやかかな私の旅路を思い馳せて、やがて微苦笑を重ねて・・。【下】

2016-11-08 12:39:38 | ささやかな古稀からの思い
翌日の12月30日、私達夫婦は何かしら街中の観光より、曽々木海岸を散策しょう、
とホテルを10時過ぎに出た。

路線バスの輪島駅前の周辺のスーパーに寄り、
やはり年末なので、店内には御節料理の単品の数々、そしてこの地域の魚介類などが多く並べられて、
この中で食べたい品を昼食の代わりとし、地酒も買い求めたが、
こうしたこの地方独自の食べ物が購入でき、私達は思わず微笑んだりしていた。

路線バスの輪島駅前は、帰省客が圧倒的に多く、この地方の方言が飛び交う中、
私達は曽々木海岸方面のバスに乗った。

風もなく穏やかに晴れ渡たり、左は日本海、右は険しい山里の状景が続き、
そして千枚田の冬枯れの情景を車窓から眺めたりした。
            

私達夫婦の能登半島の旅に関しては、30年近くの頃の2月に、
団体観光ツアーの1泊2日で、小松空港から安宅海岸、兼六園、そして北上して千里浜から能登金剛を観た後、
和倉温泉の観光ホテル『のと楽』に宿泊し、特にこの『のと楽』の大浴場の更衣室は、瞬時に魅せられたりした。

ロビーの外れから大浴場に向かうまで畳が敷かれて、この間の更衣室まで、
あたかも大名屋敷にあった畳上の広々とした廊下ようであり、こうした情景に好感した。

翌日は、金沢市内の郊外にある焼き物センターに寄り、小松空港から帰京した短じかな旅をしたりしていた。
            

私自身は1961年(昭和36年)の秋、学園祭の期間と休日を利用して、
悪友と2人だけで、この当時は国鉄(現在・JR)時代で、夜行列車で早朝に羽咋駅で下車した後、
岬の先端まで西海岸を出来る限り歩こう、と貧乏旅行の5泊6日をした。

この後の私は、1963年(昭和38年)の夏、ワンターフォーゲルの夏季合宿の打ち上げを千里浜で行った後、
独りで金沢市内を半日遊覧バスコースで鑑賞したり、そして独りで周辺を散策した後、山陰地方を周遊した。


この程度ぐらいの体験であり、私はバスの車窓なら能登半島の北部の情景を眺めたりしていた。

曽々木海岸で下車した後、私達は岩の多い浜辺を散策したりした。
私達は岩に座り、快晴の陽射しの中、蒼い海原の光る海を眺めたり、
私は地酒を呑んだりし、煙草を喫ったりしていた。

家内は煎茶を飲みながら、スーパーで買い求めた和菓子を食べたりしていた。
            

こうした中、私は高校二年の時の貧乏旅行をした時の思いで話を家内に語りかけた・・。

悪友と私は、それぞれザックの横幅が大きいキスリングを背負いながら、
路線バス代を倹約する為に、出来る限る歩いたりし、宿だけは民宿に宿泊していた。
そして、ある日、この曽々木海岸で昼食にした。

岩の多い海岸で、飯盒(はんごう)で白米を炊き終わり、簡素な食事をしょうとしていた時、
大通りに団体観光バスが止まり、数多い観光客の方たちが下車してきて、
海が綺麗ねぇ・・やはり曽々木海岸は名所よ・・と歓声まじりの女性グループの声が聴こえてきた。

悪友はサラリーマンの家で、大切に育てられたお坊ちゃまらしく、
『恥ずかしいから、岩陰に退散しょうょ・・』、
と私に言ったが、私は農家の児として育った身なので、無視して悠然と昼食を食べたりした。

やがて観光客を乗せたバスが立ち去った後、悪友は昼食を食べ始めたりして、
私は苦笑したりした。

そして私は岩のはずれで海を見ながら、記念にと思いながらオシッコをしたのであるが、
悪友はカメラを持ち出して、この時の私の状景を撮ったりしていた。
この一葉の写真は、今でも私のアルバムに貼ってある。


或いは古びた寺院に宿泊した時、夕食付で500円と言われて、余りにも廉(やす)い宿泊代で、
私と悪友は、本当かな・・今までで最も廉いょ、とお互いに驚いたりした。

そして夕食は麦飯に粟(あわ)が入った混ぜご飯であり、
悪友は食べられないょ、と言ったりしたが、私は一食は一食だ、と粗食を食べたりした。

やがて就寝前に悪友は、暗い廊下を懐中電灯を翳(かざ)してトイレに行ったが、まもなく引き返してきた・・。
『XXょう・・ここのトイレ・・怖くて使えないょ・・」
と悪友は少し怯えた表情で、私に言ったりした。

そして私がトイレに行くと、懐中電灯を照らすと、確かに便器から30メートルぐらい下に受け入れ岩があり、
翌日、私はひゃがんで用を足していると、しばらして反響がするような音がして、私は微苦笑したりした。
            

このようなことを私は家内に言いながら、談笑したりした。

その後、海岸を北上しながら歩き、景観の良き処で、
スーパーで買い求めた昼食代わりのおつまみの数々を食べたりした。


私達は3時過ぎに、輪島の市内に戻ったのであるが、
街並みの情景より、私達はバスの車窓から眺めた能登の景観、
曽々木海岸の人気の少ない歩道の方が遥かに魅せられたので、30分ばかり散策して、ホテルに戻ったした。


翌日の12月31日の朝、どんよりとした曇り空であり、街中の朝市まで散策した。
そして朝の7時半過ぎに、朝市のある路上を見て、この地の野菜、鮮魚そして干物などの即売を眺めたりした。

鮮魚の販売する高齢の小母さんの前で立ち止まると、
わずかで元気のない鮮魚があった。

『悪天候が続き・・漁にも出られなかったので・・このような肴(さかな)ばかりでして・・』
と小母さんは申し訳なさそうに、このような意味合いの言葉を重ねていた。

このようなこともあり朝市を通り過ぎ、大晦日の街中を2時間ばかり散策して、
ホテルに帰館した。


2001年(平成13年)の元旦は、霧雨の降る朝を迎えた。

私達は、街中にある住吉神社に参拝した後、風も吹き雨も強さを増す中、
傘を差しながら街の岬の汐見橋まで30分ばかり歩いたり、
帰路は漁労の倉庫街から入り江に近い歩道を歩き、
私は冬のフィールド・ジャケット、長ズボン、軽登山靴は濡れて、ホテルに戻った。


2日の朝、チェック・アウト後、曇り空の中、金沢市内の兼六園でゆっくり散策しょう、
と特急バスで輪島をあとにした。
            

途中の千里浜を通り過ぎる時、強い風で樹木が傾きかかったり、
金沢市内の住宅地を通過する時は、風もなく、穏やかな陽射しの中をバスは走破した。

そして、兼六園を散策していると、雨が降り出してきて、
やむえず園内の簡素な食事処で、雨やどりをしたりした。

ときおり風が吹き、雨を眺め、やむなく私は地酒を注文し、おでんを食べながら、呑んだりした。
家内は煎茶と和菓子を食べたりした。

この後、駅前に近い全日空のホテルの喫茶店で、
私達はコーヒーを呑み、家内はケーキを頂き、私は煙草を喫ったりして、
今回の年末・年始の旅行は失敗だった、と私は家内に言ったりした。

何よりも悪かったのは、『ホテル高州園』の露天風呂の看板に偽りあり、
そして館内の状景であった。

帰宅後、一週間過ぎた頃、兼六園は20センチばかりの雪景色、と報じられて、
私は普段の行いが悪かったのかしら、と私は家内に言ったりしながら、微苦笑したりした。


このような能登半島に関して、ささやかかな私の旅路を思い馳せて、微苦笑をしたりしている・・。

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