私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の72歳の身であるが、
愛読している『週刊新潮』と『新潮45』の記事を配信する総合ニュースサイトの『デイリー新潮』を見たりしていた中で、
【「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末 】と題された記事を見た。
私はどのようなことですか、と思いながら、精読しながら瞼(まぶた)が熱くなり、
やがて涙を浮かべて、読み終わった後、余りにも悲惨な実態に涙を流したりした・・。
この記事は、夫婦・親子だから当然と始めた家庭での介護が やがて困難を極め、長期化する実態など
在宅介護の壮絶な現実と限界をテーマに、毎日新聞の大阪社会部取材班が
『介護殺人:追いつめられた家族の告白』(新潮社)を公刊され、
新潮社の編集部が紹介された記事で、『デイリー新潮』に11月16日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末
真冬のその日、母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。
やがて死に場所を探して、河川敷へと向かった。
2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、
認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった
「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。
一家は両親と息子の3人家族だった。
1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。
症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。
長男はどうにか続けていた仕事も、休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、
「休職」を理由に認められなかった。
母親の症状がさらに進み、止む無く退職。
再度の生活保護の相談も、失業保険を理由に受け入れられなかった。
母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、
カードローンを利用しても、アパートの家賃などが払えなくなった。
長男は母親との心中を考えるようになる。
そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使って、コンビニでいつものパンとジュースを購入。
母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと、母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。
やがて死に場所を探して、河川敷へと向かった。
「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、
母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。
そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、
傍ですすり泣く息子に、さらに続けて語った。
「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。
その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。
自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、
巻きつけたロープがほどけてしまったところで、意識を失った。
それから約2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。
京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。
冒頭陳述の間、被告席の長男は背筋を伸ばし、眼鏡を外して、右手で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、
目を赤くした裁判官が、言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるように、まばたきするなど、法廷は静まり返った。
判決を言い渡した後、裁判官は
「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。
そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、
長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。
――この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として
日本中に知られることになる。
親子の境遇や長男に同情する声や、温情判決に賛同する声などが広がった。
それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、
介護殺人に関するシリーズ記事の一環として、この長男への取材を試みた。
しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、
彼はすでに亡き人になっていた。
事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも、不明のまま。
行き詰った末に、探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、
絶句して、判決後に長男が、落ち着いた先の住所を告げた。
やがて判明した死因は、自殺だった。
琵琶湖大橋から身を投げたという。
所持金は数百円。
「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。
地獄を味わった彼の言葉や、その後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。
そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。
厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。
要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。
なぜ悲劇は繰り返されるのか。
どうすれば食い止めることができるのだろうか・・。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は読みながら、《・・1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症し、症状は徐々に進み、
やがて10年後には、週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。
ご長男はどうにか続けていた仕事も、休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、
「休職」を理由に認められなかった。
母親の症状がさらに進み、止む無く退職。
再度の生活保護の相談も、失業保険を理由に受け入れられなかった・・》
こうした状況に、市役所の福祉関係者が、申請者の状況を把握して、
どうして『生活保護』を認可してあげられなかっただろうか・・。
或いは『生活保護』規約ばかりこだわる市役所の福祉関係者は、真の本当の社会保障制度を理解していない、
と私は思い深めたりした。
やがて私は、作家・深沢七郎さんが1956年(昭和31年)に
雑誌『中央公論』11月号に掲載された『楢山節考』(ならやまぶしこう)を思い馳せたりした。
山深い貧しいの因習に従い、年老いた母を背板に乗せて、真冬の楢山へ捨てにゆく物語。
自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、
厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している作品である。
しかしながら今回の「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」の母親、ご長男に置かれた実態は、
『楢山節考』よりも遥かに悲惨である。
これから到来する2025年になれば、私たち世代はもとより、団塊世代の人々も、後期高齢者となり、
この中には数多くの御方も介護となる中、一部の御方には、やむなく息子か娘にすがる在宅介護の生活が予測される・・。
そして長きに介護生活になれば、今まで過ごしてきた健康な時の日常から予測できなかった、
まさかの出来事が介護する御方、介護される御方も展開され、たとえ親子でも愛憎が増ていく日常・・。
こうした現象を予言した方は、作家・有吉佐和子さんの『恍惚の人』(こうこつのひと)であり、
1972年に新潮社から「純文学書き下ろし特別作品」として出版され、この当時に私は読み、動顛させられた作品である。
本作品は認知症などで、高齢者介護に奮闘する家族の日常が的確に表現され、介護医療の困難を提示した作品でもある。
このようなことも思い馳せて、私は高齢者72歳の身ながら、暗澹たる思いとなっている。
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愛読している『週刊新潮』と『新潮45』の記事を配信する総合ニュースサイトの『デイリー新潮』を見たりしていた中で、
【「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末 】と題された記事を見た。
私はどのようなことですか、と思いながら、精読しながら瞼(まぶた)が熱くなり、
やがて涙を浮かべて、読み終わった後、余りにも悲惨な実態に涙を流したりした・・。
この記事は、夫婦・親子だから当然と始めた家庭での介護が やがて困難を極め、長期化する実態など
在宅介護の壮絶な現実と限界をテーマに、毎日新聞の大阪社会部取材班が
『介護殺人:追いつめられた家族の告白』(新潮社)を公刊され、
新潮社の編集部が紹介された記事で、『デイリー新潮』に11月16日に配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・「地裁が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末
真冬のその日、母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。
やがて死に場所を探して、河川敷へと向かった。
2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、
認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった
「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。
一家は両親と息子の3人家族だった。
1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。
症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。
長男はどうにか続けていた仕事も、休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、
「休職」を理由に認められなかった。
母親の症状がさらに進み、止む無く退職。
再度の生活保護の相談も、失業保険を理由に受け入れられなかった。
母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、
カードローンを利用しても、アパートの家賃などが払えなくなった。
長男は母親との心中を考えるようになる。
そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使って、コンビニでいつものパンとジュースを購入。
母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと、母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。
やがて死に場所を探して、河川敷へと向かった。
「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、
母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。
そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、
傍ですすり泣く息子に、さらに続けて語った。
「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。
その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。
自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、
巻きつけたロープがほどけてしまったところで、意識を失った。
それから約2時間後の午前8時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。
京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。
冒頭陳述の間、被告席の長男は背筋を伸ばし、眼鏡を外して、右手で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、
目を赤くした裁判官が、言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるように、まばたきするなど、法廷は静まり返った。
判決を言い渡した後、裁判官は
「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。
そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、
長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。
――この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として
日本中に知られることになる。
親子の境遇や長男に同情する声や、温情判決に賛同する声などが広がった。
それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、
介護殺人に関するシリーズ記事の一環として、この長男への取材を試みた。
しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、
彼はすでに亡き人になっていた。
事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも、不明のまま。
行き詰った末に、探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、
絶句して、判決後に長男が、落ち着いた先の住所を告げた。
やがて判明した死因は、自殺だった。
琵琶湖大橋から身を投げたという。
所持金は数百円。
「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。
地獄を味わった彼の言葉や、その後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。
そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。
厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。
要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。
なぜ悲劇は繰り返されるのか。
どうすれば食い止めることができるのだろうか・・。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は読みながら、《・・1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症し、症状は徐々に進み、
やがて10年後には、週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。
ご長男はどうにか続けていた仕事も、休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが、
「休職」を理由に認められなかった。
母親の症状がさらに進み、止む無く退職。
再度の生活保護の相談も、失業保険を理由に受け入れられなかった・・》
こうした状況に、市役所の福祉関係者が、申請者の状況を把握して、
どうして『生活保護』を認可してあげられなかっただろうか・・。
或いは『生活保護』規約ばかりこだわる市役所の福祉関係者は、真の本当の社会保障制度を理解していない、
と私は思い深めたりした。
やがて私は、作家・深沢七郎さんが1956年(昭和31年)に
雑誌『中央公論』11月号に掲載された『楢山節考』(ならやまぶしこう)を思い馳せたりした。
山深い貧しいの因習に従い、年老いた母を背板に乗せて、真冬の楢山へ捨てにゆく物語。
自ら進んで「楢山まいり」の日を早める母と、優しい孝行息子との間の無言の情愛が、
厳しく悲惨な行為と相まって描かれ、独特な強さのある世界を醸し出している作品である。
しかしながら今回の「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」の母親、ご長男に置かれた実態は、
『楢山節考』よりも遥かに悲惨である。
これから到来する2025年になれば、私たち世代はもとより、団塊世代の人々も、後期高齢者となり、
この中には数多くの御方も介護となる中、一部の御方には、やむなく息子か娘にすがる在宅介護の生活が予測される・・。
そして長きに介護生活になれば、今まで過ごしてきた健康な時の日常から予測できなかった、
まさかの出来事が介護する御方、介護される御方も展開され、たとえ親子でも愛憎が増ていく日常・・。
こうした現象を予言した方は、作家・有吉佐和子さんの『恍惚の人』(こうこつのひと)であり、
1972年に新潮社から「純文学書き下ろし特別作品」として出版され、この当時に私は読み、動顛させられた作品である。
本作品は認知症などで、高齢者介護に奮闘する家族の日常が的確に表現され、介護医療の困難を提示した作品でもある。
このようなことも思い馳せて、私は高齢者72歳の身ながら、暗澹たる思いとなっている。
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