夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、我が心のふるさとのひとつは、都立『神代植物園』・・。

2010-10-10 14:26:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと地域情報誌のひとつの『調布経済新聞』の関連のネット【みんなの経済新聞ネットワーク】を見て、

《 神代植物公園、「秋のバラフェスタ」で早朝開園-香りの講演会も /東京 》

と題された記事を読んで、微笑んだりした。

無断であるが転載させて頂く。

《・・
都立神代植物公園(調布市深大寺元町5、TEL 042-483-2300)で、
10月9日から、「秋のバラフェスタ」が開催される。(調布経済新聞)

同園のバラ園は、2009年度世界バラ会議で
「世界バラ会連合優秀庭園賞」を受賞した整形式沈床庭園。

敷地面積1.6ヘクタールと都内最大規模で、
1961(昭和36)年の開園時から栽培されている老大株や原種バラを含め409品種約5,200株のバラが栽培されている。


バラの花の香りが一番濃くなるのは早朝のため、来園者にその香りを楽しんでもらおうと、
今年からフェスタ期間中の土曜・日曜・祝日に通常より早い朝8時に開園する。
同日は夜間の営業時間も19時まで延長し(入園は18時まで)バラ園のライトアップを行う。

16日13時からは、エッセイストでポプリ研究家の熊井明子さんの講演会
「人生を楽しくする薔薇の香り~シェイクスピア劇の薔薇からポプリ、アロマテラピーまで~」を開催。
シェイクスピア劇で使われるバラとポプリのことやアロマテラピーについてトークを展開し、
参加者にバラのエッセンシャルオイルを加えたラベンダーを進呈する。
定員50人。30分前から先着で受け付ける。

9日・16日・23日の8時~9時は、バラ研究家の岩浪孝さんと一緒に
バラや香りについて話を聞きながら散策する「バラ園モーニングツアー」を行う。
定員は各回20人で(事前の電話受け付けのみ)。


園内では10日・17日・24日(14時~、17時~)にテラスで、
ジャズ演奏などを行う「バラ園コンサート」が開催され、
9日~31日にドリンクや軽食を提供する「バラのカフェテラス」と、
バラにちなんだ小物を販売する「ロゼマルシェ」が営業を行う(いずれも雨天中止)。


同園担当者は
「朝のバラの甘い香りや、明るい日差しの中で咲く美しい姿、そしてライトアップされたムード満点のバラ園の様子など、
さまざまなシーンで秋バラを楽しんでほしい」と話す。

開園時間は9時30分~17時(入園は16時まで)。イベント期間中は無休。
入園料は、一般=500円、65歳以上=250円、中学生=200円(都内在住在学の中学生は無料)、
小学生以下無料。今月24日まで。

みんなの経済新聞ネットワーク 10月8日(金)11時45分配信
・・》
記事の原文にあえて改行を多くした。

http://chofu.keizai.biz/headline/536/
☆みんなの経済新聞ネットワーク 《神代植物公園、「秋のバラフェスタ」で早朝開園-香りの講演会も /東京》

私はバラをこよなく愛する方にとっては、
朝のバラの甘さが残る香り、秋日和の陽射しの中でそれぞれの美麗なバラ、
そして、ライトアップされ浮かびあがり妖艶となったバラ、
朝、昼下がり、夕暮れの後、それぞれ美しい情景と思ったりした。


そして、このサイトの下に明示されている
《 調布の水生植物園で白色と赤色の彼岸花が共演-写真愛好家らに人気》
記事を読んだりした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101005-00000010-minkei-l13

私はこの中の一部に添付された美麗な一葉の写真に、
圧倒的に魅せられて、しばらく見つめ、眺めたりしていたのである・・。

http://chofu.keizai.biz/photoflash/56/

私は道端に何気なしに植えられた草花が好きで、それぞれの時節の咲く花たちに、
齢を重ねるたびに愛(いと)おしくなっている。


今回、このニュースを読んだりしていると、私も神代植物園に関して、
【 我が心のふるさとのひとつは、都立『神代植物園』・・。 】
と題し、今年の2010年1月25日に投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節になると花が少なくなり、少し寂しい気になる時もある。

こうした折、付近の小公園、遊歩道を散策したりしている。
ときには飽(あ)き足らず都立の公園に行ったりしている。

私の住む最寄の大きな公園としては、都立の『神代植物公園』があり、隣接した所に深大寺もあるが、
我が家からは少しばかり遠い徒歩で45分前後の道のりである。

私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもある。

いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業した1960(昭和35)年の頃に開園したが、
自転車で通学していた私は、ときおり開園前の雑木林の中を下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

私が心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。

私がこれまで生きてきたつたない人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思っている。
             

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、
中退を決意したりしたのである。

私は結婚して2年が過ぎた頃、私の生家の実家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物園にも訪れたりしていた。

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
花咲く樹木の前で、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、呑んだりりしたことが多かったのである。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。

私は定年退職後の年金生活に於いても、独りで植物公園まで四季折々、訪ねてたりしている。


一昨日、家内と夕食の時、昨年の桜を観て以来、久々に神代植物公園に行ってみよう、と私は提案した。

我が家は世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には霞嶺神社、明照院があり、私の実家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60年過ごしているので、心のふるさとの原景は
我が家の周辺にある。

私は農家の児として生を受けたのは、1944(昭和19)年の秋であり、
祖父、父を中心に小作人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。
そして竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
この頃の周辺の情景も京王腺の駅付近を除き、田畑や雑木林の多い緑豊かな村里の情景であった。
私が小学生2年に父が病死し、まもなく祖父も死去し、
我が家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、
住宅街となった。
そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。


昨日、11時少し前に家内と神代植物公園に向かって川沿いの遊歩道を歩いた。
冬晴れの澄み切った青空で風もなく暖かな11度前後の中、歩き出したのであるが、
日曜日の為か、家族連れの方たちの散策されたり、ジョキングをされる若い人たちを見かけたりした。

川の水辺の近くに鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来して、
私は興味がなかったが、家内は動物、小鳥達が好きだったので歓声をあげていた。

深大寺に着いて、いつもだったならば付近の蕎麦屋に入り昼食とし、
ビールで喉を潤(うるお)した後、十割蕎麦を頂き、蕎麦湯を飲んだりすることが多かったが、
今回は遅い朝食だったので、通り過ぎたのである。

深大寺を参拝した後、神代植物公園内を散策しはじめた。
この時節は、梅園に寄り、全般としては莟(つぼみ)の多い情景であったが、
白梅の清楚な白難波(シロナンバ)、恥らうように咲いている冬至(トウジ)、
紅梅の華やかな大盃(オオサカヅキ)、若き女性の頬(ほお)のような紅鶴(ベニズル)、
このような早咲きに私はしばらく見惚(みと)れていたのである。

この後、蝋梅(ロウバイ)の咲き始めている花に近寄ったりした。
色は黄色で花の中心は紫褐色となって折、冬の陽射しの中で安らぎのある情景を彩っていた。
この近くに黄色の花色となって、中心が淡い黄色となっているのに私は魅了させられた。
品性があり、芳香が少し強い難点を除けば、私の好きな冬の花となる。
主木の外れに『ソシン・ロウバイ』の樹木名の札があった。

そして、蝋梅(ロウバイ)の近くに、マンサクは黄色い莟(つぼみ)となっていて、
こうした光景に魅了されて、この梅園の中で何よりも心酔させられたのである。


この後、藪椿(ヤブツバキ)を誉(ほ)めたりした後、
福寿草を探したが、数輪が土の中から黄色い花が見られた程度であった。
家内は身体が冷えたというので、正門の喫茶コーナーに行き、
陽射しが受ける温室のような窓辺の席で、家内はコーヒーとホットケーキ、
私はビールを呑みながら、ソーセージの盛り合わせの軽食としたのである。

そして正門の近くに、寒ボタンの美麗な数々が展示されていたが、
私は先程に椿園で観た秘っそり咲いていた薄紅色の卜伴錦(ボクバンニシキ)と名づけられた椿に心を奪われていたので、
寒ボタンは華やかさだスターのような花だけ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、家内の要望の温室に寄ったが、私は温室は何かしら好きになれない。
私は樹木、草花に魅了されるのは、その地の四季折々の自然の中で、
それぞれの移ろいがあるので、心を寄せているのである。
食べ物の世界でいうと、人工栽培より露地野菜を好む習性と同様と思っている。

まもなく、私達は欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立の中を歩いた。

私はこうした葉を落とした冬木立の光景が歳を重ねるたびに、最も魅了させられている。

陽が高いうちに引き上げようとして、私達は3時過ぎに神代植物園の深大寺門を後にした。

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/jindai/
☆ 都立『神代植物公園』ホームページ ☆
・・】

このような私は、ふるさとの原景を求めながら、
『神代植物公園』の四季折々の樹木、草花の情景に思いを重ね、
こよなく愛し、愛惜を深めたりしている。

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この10月10日は、『東京オリンピック』が開催され、この前後の頃の私は・・。

2010-10-10 10:07:18 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
今朝、ぼんやりとカレンダーを眺め、確か『東京オリンピック』が開催された日だった、
と思いながら、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で愛用している【新おとな総研】を開き、
【あの日 この一枚】を開いた・・。

《・・
     東京オリンピックが開幕した。‐1964年(昭和39年)

日本初、アジアでも初となる第18回オリンピック・東京大会が開幕。
この日午後2時、世界94の国と地域から集まった選手団の入場行進が始まった。
日本は史上最多(当時)の金メダル16個を獲得し、大いに国威を発揚した。
・・》

このように解説され、写真が一葉添付されていた。

http://otona.yomiuri.co.jp/history/101010.htm
☆【YOMIURI ONLINE】【あの日 この一枚】《東京オリンピックが開幕した》☆


私はこのような解説文を読み終えると、あの当時の1964(昭和39)年の前後の頃が思いだされた・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。

小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年位まで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび通った映画館に寄ったり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。

担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催される年で、日増し毎に景観が変貌していた・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各方面の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したりしたのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
ある大手の音響・映像の会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。
そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐむ・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。

まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。


http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I
☆【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】☆


このように東京オリンピックが開催された前後を綴ったが、
齢ばかり重ねた高齢者2年生の私は、懐かしく愛惜を重ねている・・。

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『「フジタ」全員解放…船長拘束を2日超える』、私は安堵しながらも微苦笑し・・。

2010-10-10 01:19:30 | 時事【政治・経済】等
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を読み、

《 「フジタ」全員解放…船長拘束を2日超える 》

やっと解放されてか、と安堵しながら、微苦笑した。

無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
【上海=加藤隆則】
北京の日本大使館は9日、中国河北省石家荘市で軍事管理区域に立ち入り、
違法な撮影を行ったとして中国国家安全局に拘束されていた
中堅ゼネコン「フジタ」の現地法人「藤田中国建設工程有限公司」(上海)社員、高橋定(さだむ)さん(57)が、
解放されたと発表した。

これによって、9月20日に拘束された「フジタ」の日本人社員4人は、
19日ぶりに全員解放された。

中国国営新華社通信は9日、
高橋さんが「過ちを悔いる文書を提出したので保釈し、拘束を解除した」と伝えた。

その後、日本大使館員が石家荘の空港で高橋さんと面会。
高橋さんは同日午後7時(日本時間同8時)ごろ、国内便で上海浦東空港に到着した。


高橋さんは同空港で日本メディアに体調を問われると、
「疲れました」と繰り返した。

事件については固く口を閉ざしたが、
軍事管理区域立ち入りについては、小さな声で「知りませんでした」と答えた。

高橋さんは駐上海日本総領事と面談した後、
市内のホテルに宿泊、10日に帰国する。


今回の事件は、沖縄・尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件で日本側が中国人船長を逮捕、
拘置したことに対する中国側の事実上の報復措置だったとみられている。
関係筋によると、「拘束から19日」というタイミングでの解放は、
船長拘置期間の「17日間」を超えたことと関係がある。
中国側には、今解放してもネット世論の反発を抑えられるとの判断があったという。

また、中国側は、今月末にハノイで開かれる東南アジア諸国連合(ASEAN)関係の会議での
菅首相―温家宝首相による正式な首脳会談の実現を重視しており、
その前に、フジタ社員拘束事件の収拾に踏み切ったとの見方が強い。

今月4日に行われたアジア欧州会議(ASEM)首脳会議の際の日中首相会談を受け、
11月に横浜で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に胡錦濤国家主席の出席を検討している。
ハノイでの首脳会談は、その条件整備と位置づけられている。

8日に中国国内で服役中の民主活動家・劉暁波(りゅうぎょうは)氏のノーベル平和賞受賞が決まったことから、
中国は高橋さんの解放を急いだ可能性もある。
4人の拘束事件発生後、日本ばかりでなく、国際社会でも、中国の人権抑圧イメージが一層強まっていた。

(2010年10月9日23時39分 読売新聞)
・・》

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20101009-OYT1T00812.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《「フジタ」全員解放…船長拘束を2日超える》☆


私が安堵しながら微苦笑したのは、
昨日の午前中のひととき、中国で服役中の劉暁波(りゅうぎょうは)氏のノーベル平和賞受賞の話題を、
たまたま家内と話したりしていたのである。

『中国は国際社会の世論で、人権問題が追及されるので、
いくら一党独裁の国家でも動揺・するよ・・。

先日、尖閣諸島で日本側が中国人船長を逮捕し留置したら、
中国は報復措置として、中国の現地で働いている「フジタ」の日本人社員4人を、
言いがかりを付けて拘束したでしょう・・』
と私は家内に云った・・。

『中国はひどいことをするのね・・だから、信用できないのょ』
と家内は私に云った。

『でもねぇ・・今回のノーベル平和賞の件で・・
最後のひとり・・中国はかまっている余裕はなく・・すぐに解放すると思うょ』
と私は苦笑しながら、家内に云ったりした。

このような話をたまたましたのであるが、
中国政府の真の思惑は、無念ながら私は解らないでいる。


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