真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 マレーシア

2014年05月31日 | 国際・政治
 1988年、すでに文部省の検定を合格した高校用英語教科書から、突然その一部が削除され、代わりのものに差し替えられるということがあった。その一部とは「WAR」と題された教材の一文で、そこには、赤ん坊をほうり投げ、落ちてくる赤ん坊を日本兵が銃剣で刺すという話が出てくる。その削除は、自民党のクレームによるものであるというが、それはマレーシアに大きな怒りを生じさせたという。

 マレーシアで出版された小・中学生向けの英語学習副読本に「JAPANESE SOLDIERS IN OUR COUNTRY」(私たちの国にやってきた日本軍)という小冊子があり、その中には”赤ん坊”のことが絵入りで出てくるという。昨年(1989年)初頭、マレーシア政府はこの小冊子を8000部一括購入して、全国の小・中学校に配布したということである。日本の動きに対応したものなのであろう。

 「日本に生まれたことを誇らしく思える」教育をするために、加害の事実を隠蔽するような教育は、日本国内では支持されても、国際社会では受け入れられないのではないかと思う。特に、大戦によって大きな被害を受けた被害国や戦争被害者は、日本が誠実に歴史の事実と向き合うことを求めている。日本国憲法の精神に基づき、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すのでなければならないと思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「マレーシア」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。
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中学校2年生用『歴史の中のマレーシア』(マレー語)M・タムビラジャー著 連合出版 1988年版

              第8章 日本人によるマラヤ占領
日本によるマラヤ支配
 日本は、マレーの解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。
 ペナン島やマラッカ、シンガポールといった海峡植民地は、日本の直轄となった。マレー人の州では、スルタンが州の長となることが許された。しかし、各州には日本の軍政官がいた。この軍政官が権力を持っていた。スルタンは宗教と慣習についてのみ統治した。

 マラヤは事実上日本軍政府によって支配された。本部はシンガポールにあった。日本軍政府の長は「軍政部官長」と呼ばれた。シンガポールは、南の光という意味の「昭南」と新しく名づけられた。日本は行政上、スマトラとマラヤを合わせ、本部をシンガポールに置いた。
 1943年、日本の行政に一つの変化があった。日本は、スマトラとマラヤを合わせたのでは満足な成果が得られないということがわかった。のちにその二つを分離した。



敵機関
 敵機関は日本軍の諜報部、すなわちスパイであった。その役目は、一般大衆のなかから敵を捜し出すことだった。多くのマレー人はイギリスを支持し、日本人を憎んだ。敵機関のスパイはそういう人を探した。このスパイは、あらゆる場所にいた。日本はまた、敵機関で働く現地人を採用した。これらの人びとはいつも、ベチャ引きや給仕、物売り、コック、ボーイになりすましていた。現地人スパイは一般の人びとと接触し、彼らの会話を聞くことができる。このスパイはたとえ自分の友人であろうとだれも信用していなかった。次のことをするものはだれでも逮捕された。
 1、反日思想をもつ人間と交わる。
 2、日本人の行政に文句をいう。
 3、日本人に協力している現地人をからかう。
 4、イギリス国王または女王の写真を掲げる。
 逮捕された人びとを尋問するのは軍の警察であった。この軍の警察は、「憲兵隊」という日本の組織だった。


憲兵隊
 憲兵隊は一般の人びとにとても恐れられた組織だった。
 憲兵隊は、逮捕された人はだれでも罪があると見なした。現在では、逮捕された人は、ただ疑わしいと思われるだけである。その疑わしいと思われた人は裁判で罪が立証されるまでは罪人だとは見なされない。しかし、憲兵隊は疑わしい人を犯罪が立証された罪人のように扱った。罪のない人間を罪人だと自白させるため、さまざまな残酷な拷問が行われた。彼らは、手や足の爪を抜いた。


 日本占領時代は、マラヤの国民を怖がらせた暗い時代だった。国民のすべての生活様式は、日本人が自分たちの文化をマラヤに持ち込んだため、混乱した。このことは、この地に持ち込まれた教育制度を通して知ることができる。 


日本語教育
 すべての学校で日本語が教えられた。現地の住民が、日本語の先生になるようにも訓練された。日本語をうまく話せる人には公務員としてよい仕事が与えられた。このようにして、彼らは国民に日本語を勉強するようにしむけた。大人むけの教室がさまざまなクラブや協会で開かれた。新聞にまで日本語学習のための特別枠があった。

 学校ではまた、日本人の生活様式が教えられた、。そこでは日本人の挨拶の仕方や日本の習慣、歌が教えられた。いつも愛国的な歌が教えられた。当時、日本の国家「君が代」は全国でよく知られたものだった。



日本の独占
 日本はすべての大きな企業を支配した。個人でゴムを生産しようとすれば、すでに決められた価格で売らなければならなかった。ゴム産業は当時、発達しなかった。第一に、ゴムを輸出する機会がなかった。第二に、ゴムの木が、他の食用植物を植えるために切られてしまった。
 日本はまた、スズ鉱山も支配下に置いた。鉱山で使われる多くの機械は、イギリスによって破壊された。当時、それら機械を手に入れることは困難だった。それで国の二つの主産業となっていたゴムとスズ鉱石は、放置されたままとなった。日本人はココナツ、ヤシ油の生産や運輸業、米の流通など、主な経済活動すべてをおさえた。


食糧不足
 イギリスが私たちの国を支配していたとき、私たちは米をビルマやタイから輸入していた。日本支配時代には、米はあまり多く輸入されなかった。米不足の問題は深刻だった。日本人は米をマラヤに運ぶための輸送手段を用意しなかった。すべての輸送手段は兵士を運ぶために必要とされた。タイ政府が日本の貨幣価値を信用しないという理由で、日本人に対して米を売ることを渋るようになって、事態はますますひどくなった。それで、日本人は米の配給制度をしいた。米はまず日本の官吏や兵士、日本人に協力した現地住民に与えられた。そして余ったものが国民に与えられた。
 米がないため、国民は他の食用植物を植えるようになった。よく植えられたものとしてサツマイモやタピオカ、ヤムイモがある。都市に住んでいる人びとは、自給用の食用植物を植えるために郊外に移動し始めた。数千人のマレー人がタピオカやサツマイモを食べて生活した。これらの食物は、ただ満腹させるだけで、あまり栄養はなかった。まもなく多くの人びとは脚気や結核、皮膚病などを患った。


 日本人は米不足問題を克服すると宣言しようとしたが、成功しなかった。彼らは、二期作の台湾種の米を導入した。しかし灌漑システムがよくなかったため、収穫は年に1回だけだった。地方の農民だけが米を栽培したり、魚を採ったりして生活していたので、食糧不足には見舞われなかった。しかし、彼らの生活もしだいに圧迫された。彼らは都会から物資を買う必要があった。都会の物価がしだいに暴騰していった。


インフレーション
 日本は、役人に給与を与えるためのお金が必要だった。イギリス通貨が使用されなくなったため、日本は自分たちの通貨をつくらなければならなくなった。日本の紙幣にはバナナの木が描かれていた。それで「バナナの木の紙幣」と呼ばれた。日本人も現地の住民からものを買うお金を必要とした。彼らはお金が必要になるたびに紙幣を印刷した。物価が上がると、日本はさらに多くの紙幣を印刷した。
 日本人自身、どのくらいの量の紙幣を印刷したのかわからないようだ。ついには、すべての人びとが多くのお金をもつようになった。商店主たちも物資の値段を引き上げた。このため、日本人はさらに多くの紙幣を印刷した。経済状況はますます悪化した。このような状態をインフレーションと呼んでいる。
 物価上昇は非常に驚くべきものとなった。例えば、卵1の値段は1941年12月には、3セントであったが、1945年には35ドルであった。同様に、砂糖1カティは、1941年に8セントだったものが、1945年には120ドルにもなった。

 マラヤの人びとも、日本が負ければ日本の紙幣は価値がないということに気がついた。そこで、彼らは、そのお金をできるだけ早く使おうとした。理解していない人だけがその日本のお金をためていた。


 日本占領時代の生活
 日本の兵士が上陸したとき、マラヤの状況は混乱し殺人と強盗が多く発生した。
 彼らが全土を支配したあとも、この状態は変わらなかった。日本軍政部の態度は厳しく、乱暴だった。このことが国民生活の状況をさらに悪化させた。健康のためのサービスはないがしろにされた。ヨーロッパ人の医師と看護婦はすべて囚人キャンプへ送られた。医療品の補給は、医療施設には与えられなかった。病気とビールスが広がった。

 日本は、マラヤの国民を、日本軍自身の目的を達成するために利用した。例えば、彼らはタイとビルマの間に鉄道を建設しようとした。この計画は多くの労働者を必要とし、マレー人の労働者がそのために使われた。多くの普通の国民がトラックで運ばれ、強制的に鉄道建設のために働かされた。そのうちの多数の人は帰国できなかった。およそ10万人が、その鉄道建設のために犠牲となった。この計画は、まさに「死の鉄路」と呼ぶにふさわしい。
 マラヤにいるそれぞれの民族に対する日本の態度は異なっていた。中国人は、日本人にひどく扱われた。


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初級中学校用『歴史 第二冊』(中国語)マレーシア華文独立中学校統一課程編集委員会編(連合出版有限公司 1980年版)

               第7章 日本支配下のマラヤ
第2節 日本の統治政策

中国民族を虐殺、酷使する
 日本軍の侵略以前に、マラヤの中国人は、日本軍の中国に対する暴挙に敵愾心を抱き、南僑籌賑会の指揮のもと、さかんに中国の抗日軍に義援金を送った。これによって日本は特に中国人を敵視し、マラヤ占領後すぐに虐殺を強行した。日本軍のシンガポール上陸のとき、「星華義勇軍」の抵抗を受けた。このため、日本軍がシンガポールを占領すると、日本軍総司令官山下奉文は、3日以内に当地の中国人抗日分子を掃討するように命令を下した。このとき、日本の憲兵隊は、中国人に指定地点に集まって取調べを受けるように命令した。その結果、嫌疑を受けた4万人の中国人が、殺戮された。
 続いて、マレー半島の各地であいついで「大検証」が行われ、中国人がむやみに虐殺された。総数を計算すると、少なくとも10万人以上の中国人が殺害された。

 

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
嘘を書いてはいけない (マレーシア人)
2014-06-08 18:55:33
嘘を書いてはいけない
返信する
Unknown (aaa)
2015-05-07 18:22:05
取り敢えず嘘だという根拠を提示して貰わないと話になりません
返信する
Unknown (syasya61)
2015-05-07 21:12:53
aaa様

 コメント恐れ入ります。あなたのコメントで
>嘘を書いてはいけない
というコメントがあることに気づきました。あなたの指摘されるとおり、何を「嘘」というのかわかりませんが、わたしは、日本の戦争がアジアでどのように教えられているのか知ることは大事なことだと思い抜粋したのでした。
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