真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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山県有朋 山城屋和助事件と三谷三九郎事件

2018年08月20日 | 国際・政治

 今は亡き私の父母は、先の大戦で塗炭の苦しみを味わい、事あるごとに、「戦争だけはやってはいけない」とくり返しておりました。また、戦争を体験した人の同じ様な言葉を何度も耳にしてきました。だから、その戦争がどういうものであったのかを理解しようと、いろいろ学んでいるうちに、日本軍には、あきれるばかりの人命軽視や人権無視があったこと、また、現在の常識では考えられないほど理不尽で、不当な作戦や命令があったことを知りました。満州、731部隊、南京、従軍慰安婦、…。そして、なぜ、あれほど酷い戦争が行われることになったのか、と疑問に思いながら学んでいるうちに、少しずつ歴史を遡るかたちで、幕末や明治の歴史に関する書籍も読むようになりました。そして、先の大戦における人命軽視や人権無視は、そのころからのものではないかと考えさせられています。

 徳川慶喜が大政を奉還した日に、薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」が下されていますが、理解できません。当時徳川慶喜は、幕藩体制の行き詰まりを認識し、海外の情報をもとに、公議政体を想定して大政を奉還したといいます。にもかかわらず、「討幕」というのは、どういうことなのか、と思うのです。「討幕の密勅」は「偽勅」であると考えられる理由がいろいろあるようですが、私も、総合的に考えると、岩倉具視などの公卿の一部や長州の尊王攘夷急進派などによって画策された「偽勅」だろうと思います。
 そして、日本が一致して幕政を改革し、外圧に備えるべき時に、討幕という権力奪取の戦いに注力したのは、日本の将来を考えたからではなく、権力を私しようとしたからではないかと思うのです。

 長州藩は、攘夷を実行するとして、文久3年5月10日(1863年6月25日)に単独でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃していますが、オランダは鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行の許可証も受領していました。
 そのオランダ艦隊も砲撃をした長州藩。
 国際世論に耳を傾けず、国際法に違反するかたちで真珠湾を奇襲攻撃した日本軍。
 手痛い報復を受け、はじめてその力の差に気づき、ほぼすべての要求を受け入れた長州藩。
 工業力の差はおよそ二十倍、石油生産量や航空機製造能力は、それを上回るといわれた国力差を無視して真珠湾を攻撃し、日本滅亡が現実のものになるかもしれないところまで戦った日本軍。以後、不当なアメリカの要求を拒否しない日本の政府。
 同質ではないかと思います。
 だから私は、尊王攘夷急進派が討幕によって政権を手にした結果、こうした支持や合意のない無謀な戦争を、一方的に始める日本になったのではないかと考えてしまいます。そして、その戦争が何をもたらすのかは、ほとんど考えていなかったのではないかと思います。歴史を偽ったり、不都合な事実を隠蔽する体質も、明治維新以来続いてきたのではないかと思います。

 尊王攘夷を掲げた野蛮な暗殺や「異人斬り」の問題、「孝明天皇毒殺」や討幕のための「偽勅」、戊辰戦争時の「偽錦旗」の問題、さらには、幕府を挑発するため相楽総三に江戸攪乱を命じておきながら、都合が悪くなると、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して略奪行為を行った 「偽官軍」であるとして処刑するに至った問題、また、上記の無謀な長州藩単独の四国艦隊砲撃事件とその後の極端な方針転換、そして方針転換と矛盾する「討幕」の戦いなどが、今に通じる歴史の事実ではないかと思っているのですが、それらに加えるべき事実が、「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)に書かれていました。
 「日本軍閥の祖」といわれ、「元老中の元老」として、日本の政官界に大きな影響力をもったという山県有朋(長州藩士)の公金流用に関する問題です。薩長を中心とする
明治新政府の体質を物語る事件ではないかと思います。

 「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)のあとがきには、下記のような一節がありました。
”・・・
 書き進むにつれて、戦後の民主主義の時代にもかかわらず、薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が、そのまま今日も史家の間に踏襲されているのではないか、という疑問がいよいよ深まった。一例をあげれば、薩長とくに長州出身者によるひどい汚職などには言及することなく、司法卿として、それを摘発した新平を、逆に非難している論述が多く見られる。権力を握った政治家の汚職は、傷にはならないというのだろうか。これには裏になにかがある、と思わざるを得なかった
 ・・・”

  私も、明治維新以後の日本が、歴史の事実をきちんと明らかにせず、不都合な事実を隠蔽して、歴史を創作してきたきた問題があり、それが現在も続いているように思います。

 平成28年11月4日、政府は、
明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。
と発表し、以後様々な施策を推進しているようです。やはり、”薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が…”まさに「正論」として語られ、現政権に引き継がれているからだと思います。

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                       四章 民権を守る政治家

 山県の公金流用を摘発

 ・・・
 岩倉使節団一行を横浜まで見送った留守内閣の送別の宴で、西郷が井上に「三井の番頭さん、一杯」と盃をつきつけたのは有名な話である。それほどまでに井上馨と財閥との癒着は、目に余るものがあった。

 岩倉使節団の監視の役を帯びて、大久保、伊藤とともにアメリカ経由で、イギリス駐在大弁務使として着任した外務大輔寺島宗則から、副島外務卿のもとに届いた一通の手紙が、ことの発端であった。
「日本の紳士にして野村三千三なるもの、多く世人の知らざる所なるに、当地に於ける豪遊は目覚ましきものなり。有名な巴里の旅館に宿泊し、屢ば(シバシバ)劇場に遊んで一流の女優に戯れ、又競馬に万金を一擲して破れ、近日は巴里一富豪の金髪美人と婚約を結ぶとの噂あり。彼が巴里に来着してより、費消したる金額すでに数十万円に達せるは事実なり」
 巴里在住の公使館中弁務使鮫島尚信も、同様の手紙を日本の友人に寄せていた。

野村三千三はそのとき山城屋和助と称する陸軍省の御用商人で、長州の出身、奇兵隊の隊長をつとめたことがあり山県陸軍大輔とは古くからの友人であった。戊辰の役では北越に転職して軍功があったが、維新後、商人となり山城屋和助と名乗り、横浜に店を持った。そのとき山県は兵部大輔であったので、同郷のよしみで兵部省の御用商人となることができた。山城屋は兵器の輸入とともに、文明開化に伴う百貨を輸入し、そのみかえりとして国産の生糸を輸出することを考えた。そして山県にそのための資金を兵部省から出資することを依頼した。山県は、兵部省会計局長木梨精一郎と相談し、山城屋の言うままに五十万円の大金を貸し与えた。それほどに長州閥に属する兵部省には金があったのだろう。

 一躍巨額の大資本を持つようになった山城屋は、商店を拡張し、あらゆる軍需品を兵部省に納め、それだけでも巨万の利益を得るようになった。一方潤沢な資本をもって各県の生糸を買い集め、諸外国の商館と取引契約を結んで盛んに輸出した。兵部省の長州系の官吏は、山城屋が巨額の官金を借りていることをよいことに、山城屋から無証文で金を借り出しては遊興にふける者もあるといったありさまで、山城屋がそのために支出した金額も少なくなかった。

 ところが、ヨーロッパでは普仏戦争の影響から生糸が暴落した。その間の、野村の兵部省からの借金は六十四万九千円(一説では八十万円)になっていた。この金額がいかに多額であったかは、明治四年十月から五年十一月までの十四ケ月間の政府の経常歳入が二千四百四十二万円であり、明治四年の陸軍費八百万円、海軍費五十万円、臨時軍事費二十五万円というのと比べてもわかる。
 山城屋はこの失敗を取りかえすため、自らが海外へ行って直接商取引をする、と横浜を出帆してヨーロッパに向かった。そのあげくの巴里での豪遊であった。金はせべて兵部省、そのときは陸、海二省にわかれていたから、陸軍省から出ていたのである。

 陸軍省の会計局長木梨精一郎の下にいた、陸軍少佐種田政明という薩摩出身の会計官が、それを調べあげて、同郷の陸軍少将、桐野利秋に詳細に告げた。薩摩隼人気質を代表したような桐野はそれに怒り、兵を出して山城屋商店を包囲しようという騒ぎになった。
 外務卿副島から、山城屋こと野村三千三が出途不明の大金を蕩尽していることを聞き、山城屋の商況と陸軍省との連携について調べを進めていた新平は、桐野が兵を出そうとしているのを聞くと「司法権を無視し、軍人の職権を乱用するもの」として、西郷参議のもとに使者をはしらせて阻止したうえで、司法大丞島本仲道に公然と陸軍省の会計の調査を命じたのである。
 山県は山城屋を急ぎ呼びもどして、融通した官金の返納を迫った。山城屋は、ただちに返金することは出来ないが、ヨーロッパで取引した商品が着けば、必ず返金するから、と一時を糊塗するために空手形を出した。山県は木梨と相談した上で、これを承諾し、薩摩隼人の追及に対しては「返納済みなり」と答えたので、商取引に無知な軍人たちはなすことなく引きさがった。しかし司法省は破産に瀕している山城屋がそのような大金を返済することができるはずがない、と調べを進めると、空手形であることが忽ち露見した。そこで新平は司法卿の職権をもって、陸軍省の会計全部の調査を決定した。
 山県からの急使によってそれを知った山城屋は、かねての覚悟によって事件に関する帳簿と、長州派軍人への貸金の証文類一切を焼き捨て、陸軍省の応接室で切腹自殺をとげた。
 薩摩派の軍人はそれに飽き足らず、山県をはじめとする長州派を非難攻撃し、山県は辞表を出すという事態に発展した。そのころ陸軍大将である西郷隆盛は、明治天皇の西日本(伊勢、関西、九州)御巡幸に供奉して鹿児島に帰っていた。

 
 天皇御巡幸の目的は、廃藩を行ったばかりの政府の威光を内外に示し、天皇の権威と仁徳を国民に印象づけるためであったが、一方では、鹿児島に引きこもって政府の召命に応じようとしない薩摩藩主の父島津久光を慰撫するためでもあった。久光の態度は保守派の反政府運動の拠り所ともなりかねないため、旧臣の西郷や大久保の悩みの種となっていた。
 六月二十二日、各地の訪問を終えて鹿児島に着いた天皇は、早速久光と会見した。ところが久光は政府の開化政策を猛烈に非難攻撃し、西郷や大久保の免職まで直言するありさまであった。そこへ三条太政大臣から山県の辞職、近衛兵の騒ぎが報じられ、西郷は急遽帰京することになった。

 西郷はもともと政界と財閥の癒着をにがにがしく思ってはいたが、天皇が保守的な鹿児島におられる時ではあり、みずから山県にかわって近衛都督の職につき、桐野利秋以下薩摩出身の近衛士官の山県攻撃を中止させた。
 山県は、明治二年に渡欧し、兵制を調査研究し、三年八月に帰国すると大村益次郎没後の軍政を担当し、兵制をフランス式に統一するなど、軍政の長官としては、他の追随を許さない能力を持っていたからである。
 西郷の配慮によって事なきを得たので、以来山県は西郷隆盛に深く恩義を感じた。西郷が西南戦争で死亡したのち、元勲となった山県が、西郷の遺族に伯爵を授与することを決定したのも、それがためである。

 当時の山県と陸軍省御用商人との醜関係は、山城屋だけではなかった。山城屋についで起こった陸軍御用の三谷三九郎の破産事件にも、山県は深い関係を持っていたのである。
 三谷は十二代を数えた江戸の富豪で、代々両替商として金銀のみを取り扱う家柄であった。慶応年間に、長州から預かっていた三千三百両を、幕府の長州征伐のときに取りあげられたことがある。戊辰三月、東征軍が江戸にはいると、そのことを咎められて斬首になるところを、長州藩士である野村三千三(山城屋和助)の手引きで、あやうく逃亡することができた。そののち三千三百両を返納し、そのうえに五千両の献金、三万両の御用金の献金などによって大総督府の御用達となり、引き続き陸軍省の用達となることができたのである。
 三谷は、山城屋同様に巨額の金を陸軍省から借り出し、その勢いは三井、小野をも凌ぐほどであった。三谷はその金を自邸に置かず和田倉門内の旧会津邸にある金蔵に納め、鍵は三谷の手代が持っていて、陸軍省監督長である船越衛の監督のもとに開閉していた。
 山城屋事件が起こり、船越が金蔵の現在高を調べると三十万円の大金が不足していた。これは鍵を預かっていた三谷の手代渡辺弥七らが、油の相場に失敗し、金蔵の金を使い込んでいたのであった。三谷は驚いて、横浜の外国商人から十万円を借りて一時の急をつくろったが、遂に東京市中にある五十余カ所の三谷家の地所を抵当として陸軍省に提出し、破産のやむなきに至った。

 奇怪なことに、新平が翌六年司法省を去り大木喬任が後任になると、陸軍省では山県、船越が、大蔵省においては井上、渋沢が謀議し、三谷所有の地所五十カ所の代金として五万円を三井が支払い、三井が代わって陸軍御用商となると、大蔵省より三十万円、陸軍省より三十万円合わせて六十万円を十ヵ年無利息で三井に下げ渡したのである。

 井上と三井との関係は、西郷をして「三井の番頭さん」といわしめたほどであって、明治四年末から五年にかけて、政府は内国公債として大蔵省証券六百八十万円と北海道開拓使兌換証券二百五十万円を発行したが、このとき発行業務をすべて三井組に請け負わせ、井上は総額の二割、すなわち二百万円以上の公債を三井組に与えた。そのことに非難の声があがると、井上は三井組に与えた公債の代金を大蔵省に納めさせ、そのかわりとして高い利子を払うことにした。この種の三井に対する特典は、井上大蔵大輔とその片腕である渋沢栄一によって、以前から行われていた。当然何らかの見かえりがあってのことであろう。
 後年、三谷家の奥で娘分の扱いであった”まさ”からの聞き書きによると、三谷の破産の裏には、山県をはじめ陸軍の士官が、砂糖にたかる蟻のようにむらがって食い荒らした事実があることが、はしなくも描かれている。
 三谷の今戸の寮は、陸軍省御用のために建てられた料亭のような大構えで、五十畳敷きの座敷には絨毯が敷きつめられているといった贅沢な建物であったという。そこへ毎週土曜から日曜日にかけて山県は子分を引き連れて泊りがけで豪遊する、堀の芸妓衆はみな寮のお客の相手をさせられた。山県はひいきの芸妓の一人から百五十円を無心されると「よしよし、三谷から借りよ」と鶴の一声で、もちろん貸し下されだった。

 山県卿の奥方と木戸卿の奥方ーー京の芸者幾松あらため松子夫人ーーが来たときには、当時評判の田之助一座を寮に招いて芝居をさせた。歌舞伎の名優田之助は脱疽にかかって、両脚をヘボン博士の手術で切断したが、その後は、狂言作者黙阿弥にせがんで、座ってでもできる狂言を作ってもらい、出演したのが『国性爺』の錦祥女であった。両脚切断というショッキングな出来事のあと、再び舞台へ出たというので大評判となり、大入り、大当たりとなっていた。その舞台を、そっくり三谷の今戸の寮に移して、田之助に錦祥女をさせ、堀の芸者多数が花をそえて、二人の奥方に観劇させたのである。
 花柳界で遊べば人目にたつが、御用商人に大金を貸し出し、陰で官金を湯水の如く使っていたのであった。山城屋はともかくとして、十二代も続いた三谷は破産に追いこまれ、あげくのはてに、三井に取って替わられたのである。
 
 司法省は、三谷の破産事件に対しても陸軍省の不正貸付の疑いをもって調査を始めた。その追及に、陸軍省会計監督長の船越が、山県の身代わりに山城屋、三谷への公金貸付の責任を負って辞職し、閉門九十八日の処罰を受けた。罪を免れた山県は、船越が代わって罪を引き受けてくれたことを恩にきて、次女を船越の長男と結婚させている。翌年新平が明治六年政変で政府を去ると、大久保利通は新設した内務省の戸籍権頭に船越を抜擢し、その後船越は各県知事を歴任したのち、男爵、貴族院議員、宮中顧問官へと出世したのは山県の引きたてであった。その反面、山県の不正を告発した種田は熊本鎮台に左遷され、九年の神風連の乱で非業の死を遂げた。
 
 心ならずも山県の不正事件を収拾した西郷には、ちょうどその時期が天皇巡幸と重なったこと、近衛兵(薩、長、土出身の士族軍隊)を無疵で全員復員させたいという考えがその底にあった。西郷を士族のリーダーとして保守反動と見る考えもあるが、このときの西郷は徴兵制に賛成し、士族の秩禄処分(それまで政府が藩庁から肩がわりしていた家禄を買い上げて消却させること)の遂行に熱心であった。大久保にあてた五年二月十五日付の手紙に、秩禄処分の資本にするためにアメリカで三千万円の外債の募集案をたて、大蔵少輔吉田清成を派遣したと報告し、「此の機会を失うべからず、両全の良法」と自信をもってしたためている。

 一方これまで徴兵制の実施は、山県の功績とみられていて、長州藩の奇兵隊の体験から国民皆兵を主導したとされているが、山県ら陸軍省首脳は、実は士族中心の軍隊を計画していた。彼らは新しい国軍の計画書である「四民論」と題する文書を正院に提出した。それによると徴兵の対象を戸主以外の士族と卒、手作りの地主と上層の自作農の次、三男と限定し、それ以外の階層からは代人料として金銭を徴収するという意見であった。
 それに反対したのは左院であった。江藤副議長が去ったあとも、新平が残した法治的理想主義、民権尊重の精神が漲っていた。左院は、陸軍省の、身分によって服役に差を設ける案は四民平等の精神に反すると反対し、「一朝軽易ニ之ヲ議定スベキニ非ズ」と慎重審議を要求した。
 山城屋和助事件によって、薩摩、土佐系の士官から追いつめられていた山県にその余裕はない。一刻も早く近衛兵を解隊させて、反長州派の勢力を打ち砕くためには、早急な徴兵制施行以外に道はなく、山県は士族中心の軍隊の構想を放棄したのである。
 徴兵の「詔」に「苟(イヤシク)も国あれば則(スナワ)ち兵備あり、兵備あれば則ち人々其役に就かざるを得ず……全国四民男児二十歳に至るものは尽(コトゴト)く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし」との国民皆兵の原則が、政府の告諭として発令された。明治五年十一月二十八日である。その翌日に山城屋は陸軍省の応接室で自殺した。「詔」、「告諭」と同時に発令すべき「徴兵令」は、翌六年一月十日に出された。当時の状況は、徴兵制によって安価にして大量の軍事力を動員する必要などなかったし、財政的にも無理があったにもかかわらず、これほど急いで決定した裏には、山城屋事件とのかかわりも考えざるを得ない。

 明治五年十一月二十八日、司法省から「司法省達第四十六号」が発布された。それは奇しくも国民皆兵の詔、告諭が出されたのと同じ日であった。
 此の達こそ、新平の人権擁護の精神から発せられた画期的な法律であった。その内容は、「地方官の専横や怠慢によって、人民の権利が侵害されたとき、人民は裁判所に出訴して救済を求めることができる」という思い切ったもので、それは全六箇条、簡明にして具体的なものである。
(一)地方官及び戸長等が太政官布告、諸省布達に違背して規則を立て処置をなすとき
(二)地方官、戸長が人民の願、伺、届等を壅閉する(にぎり潰す)とき
(三)地方官が人民の移住来住を抑制するなど人民の権利を妨げるとき
(四)地方官が太政官布告、諸省布達をその隣県における掲示の日から十日を過ぎても布達しないとき
(五)地方官が誤解などにより太政官布告、諸省布達の趣旨に違背する説明書を頒布するとき
(六)地方裁判所や地方官の裁判に不服なとき、は司法省裁判所へ出訴してよいと定めた。司法裁判所は、今日の最高裁判所に相当する。

 この「司法省達第四十六号」は、廃藩置県後、新しい支配者となった知事をはじめとする地方官にとって、実ににがにがしい限りであった。彼らは薩長藩閥系の下級武士から成り上がったものが多く、任地においては封建領主きどりで人民に君臨し、あるものは江戸幕府時代以上に人民の権利を侵していた。
 伊藤博文が『憲法義解』(明治二十二年)にその時のありさまを「明治五年、司法省達第四十六号(により)……地方官吏を訟うる文書法廷に蝟集し、俄に司法官、行政を牽制する弊端を見るに至れり」と記しているところを見ると、この達には大きな効果があったようだ。
 中でも新平が薩長藩閥を向こうにまわし民権擁護の施政を貫いたのが、翌六年の尾去沢鉱山事件と京都府事件となってあらわれた。

 

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2 コメント

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深い洞察に感服 (井上行雄)
2021-12-03 13:00:28
勝海舟の研究家です。明治期は特に長州藩閥に汚職事件・疑獄事件が発生した時期ですが、私はこれらが、太平洋戦争の遠因になったと考えています。実に現在でも同様の事件が発生しており、次第に日本が右傾化しつつあることは極めて危機的な状況であると考えています。明治期の勝海舟は、当時の国内のこのような動きと長期的な影響を明察していおります。歴史洞察の深い記事をご投稿いただきましてありがとうございました。勝海舟の氷川清話、海舟座談、海舟語録などをお読みになるとサラに確信を深められるのではないでしょうか。現在は日本と言う国家が光に向かうか闇に向かうかの那一点と考えており、実に明治政府の状況に酷似しております。
井上
返信する
ありがとうございます (syunrei hayashi)
2021-12-03 22:09:51
井上行雄様

お褒めの言葉と同時に、重要な課題を与えていただきありがとうございます。読破すべく、計画したいと思います。日本は先の戦争における加害の事実をことごとく消し去り、中国や韓国との溝を深めるばかりで、将来が、思いやられます。
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