真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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死の島ニューギニア:人肉食事件

2008年02月12日 | 国際・政治

              日本軍のカニバリズム:人肉食事件-NO2

 今度は戦時ニューギニアで、人間の耐えうる限界を超えたともいえる極限の体験をし、生還した日本兵の人肉食事件に関する思いを「死の島ニューギニア-極限のなかの人間」尾川正二光文社NF文庫から抜粋し、確認したい。

9 危うし人間-------------------------

 ガリの転進ごろから、人間は狂いだした。時間にして言えば、上陸後一年を経過したころである。異常な神経が支配してきた軍で刊行されたパンフレット、『熱地帯の栞』というのが手渡されていた。その中に、「温帯に生存するわれわれは、この熱地に一年も住めば相当優秀な頭脳も破壊される」とあった。学的にどこまで信をおけるものかは知らないが、われわれは漠然と一年くらいで還されるだろうという、そこはかとない期待があった。「相当優秀な頭脳」が、一年でばかになるとすれば、三年もおれば「超」の字もつこうというものである。常夏の国の気候・風土が、人間の脳におよぼす直接の影響については、そう自覚されるものではなかったが、飢餓と栄養失調は、記憶力を奪い、思考力を弱めた。さらに激しい熱病が脳を蝕んだ。正常な神経も、これだけは免れえなかった。
 連日連夜の砲爆撃は、いやおうなしに脳の組織をゆさぶった。条件は、異常な神経をつくるのに十分過ぎた。生きたとかげやいなごを、そのまま口に入れるのも、豚の肉を生のまま噛りつくのも、食欲からくる異常さである。そんなことが、平然とできるようになってしまったものを、正常な神経でもってははかりえない部分があったのだ。そこに、「人間」のぎりぎりの闘いがあった人間として生きようとする願いと、生きようとする動物的本能との熾烈な闘いがあったのだ。自然と人為との、途方もないローラーに押しひしがれたものの、惨憺たる闘いである。
 ガリの転進を、おそらく史上稀にみる凄惨な行軍だったといったが、ここで恐ろしい事実を見たのである。行き倒れた兵隊の腿が、さっくりと抉り取られていたのである。キャプテン・クックの手記に、食人種のことが記されており、いまだにこんなことをするやつがいるのか、と思って見た。ところが、原住民の仕業ではなかったのだ。慄然とするような風評が流れてきた。この転進は、そこまで人間を追いつめていたのである。
 Yと二人、山道を急いでいたら、見知らぬ部隊の四、五名に呼びとめられた。食事を終えたところらしく、飯盒が散乱している「大きな蛇の肉があるんだが、食っていかないか」というのである。そのにやにやした面が、気に入らなかった。何かがある、と直感した。共犯者を強いる───そんな空気を感じたのは、思い過ごしであったろうか。その連中が、一斉に何かを待ち受けるような姿勢を見せたのは、ただごととは思えなかった。Yも同じものを感じたか、「おおきに、またごちそうになるわ」と言った。道々、妙な不安が追いかけてくるようだった。Yの表情にもそれがあった。それとなく警戒しながら、急いだ。小銃弾を浴びせられるかも知れぬという不安がひらめく。大分来てから、Yは、「やつら何をしていたんだろう。おかしい。蛇ならばくれるはずがない。良心にとがめるところがあって、おれたちも仲間に引き入れることによって、少しでも呵責からのがれようとしたのではないだろうか」などと憶測した。もちろん、何の根拠もないが、とっさに期せずして符合した感じは、何であったか。腿の肉を切り取られた死体の数は、一つや二つではなかったのだ。ついに全く光は消えた。ただ眩暈のうちに拠点を見失って、地底に転落していった。
 その夜、渓流の上に建てられた亭のような一軒を見つけ、二人は体を休めた。すばらしい自然に恵まれながら、この世ならぬさびしさに、心は沈むばかりだった。Yも同じ思いにとらわれたか、ついに一言も口をきかず、寝についた。渓流のせせらぎ、風の音が、なかなか眠らせなかった。
 山越えを終えて、海岸に出たときも、まるで中世の説話にでも出てくるような、怪異譚を聞いた。「数名ノツワモノ、部隊ヲ離脱シM岬ニコモリ、道行ク者ヲ襲ウ鬼トナル話」である。「餓鬼という鬼がでる。M岬を通るときは気をつけろ」と注意された。何かの幻影におびえてのことか、それともそれらしい事実があってのことか、その一団を、想像のうちに思い描くことはできる。われわれは、やはり白昼を選んで、そこを突き抜けなければならなかった。どこからか見られている、という意識を拭いきれなかった。
 戦争も末期になるにしたがって、白人黒人を、白豚黒豚と呼ぶようになってきた。生還が決定的に絶望となれば、瞬間の官能の満足に身をゆだねもしよう。人間であることも、善悪の範疇のなかに生きることも、無意味に思われもしよう。危ういかな人間、である身の毛のよだつような風評も流れていた。猛獣への変身に耐えて、「人間」は喘いだ。自分でやるのは嫌だが、飯盒に入れてくれたら食うだろう、というのが生き残ったものの八、九割までの答えだった。限界を超える日が、来るのか。「動物」の飢渇のうめきなのだ。
 ある夜、国民兵のたった一人の生き残りである0兵長の告白をきいた。「人間て、つまらんもんですね。自分は気の弱い男だと思っています。何にもできはしません。だのに自分の心の内をさぐってみると、誰かが飯盒の中に入れてくれるものはないかと、ひそかに期待している気持ちがあるんです。こうして打ち明けて、自分を恥じてみても、明日もまた同じことを待っているように思われるんです。もう、なさけのうて……」というのである。160センチそこそこの短身、三つ年長だったが童顔そのもの、顔のつくりもすべてが円く、いかにも人のよさを全身に示しているような男だった。程度の差こそあれ、この苦悶が限界における実相ではなかったか。牙をむき出すからだの渇き!幻覚!お釜の蓋くらいのビフテキ!
 皮膚は萎え、脂肪は切れてかさかさに乾く。眼窩は大きくくぼみ、首筋はかろうじて頭蓋を支える、頭上に襲いかかる幽鬼の爪思いがけないところから、小銃弾を浴びせられる。白昼、薪を取りに行ったものが、そのまま姿を消してしまう。描けば、そのままこの世の地獄絵巻となろう。
 われわれが理性と名づけている、そのひからびたものは、どこまで耐えうるか。正義の女神はめしいて、人間は野獣と化して野に放たれたのか。だが、われわれ自身よって、無条件に要求される何ものかが残されているはずである。たとえ『善悪の彼岸』にあろうとも、自分が、自分自身であるための、何ものかである。

          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
        http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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