下記は、宮守発電所のダム建設工事で土木機械の専門技術者として仕事をしていたが、突然松代の巨大地下壕工事に移転させられた元西松組社員、金錫智の証言の一部である。「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)からの抜粋である。
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半日本人
金錫智 韓国全羅南道木浦市 元西松組社員
西松組入社
・・・
西松組は幹部と事務員だけ十数人で、後は全部朝鮮人労務者ばかりで、日本人労務者はほとんどいない。下請けの親方の飯場に入れて、そのもとで働くことになる。約3500人収容した飯場が、ダム工事現場周辺にずらっと建ち並んでいた。所帯持ちの20組は親方に所属して、別の飯場に住んだ。
西松組では矢野亨さんが全体の所長、畠山忠男さんが副所長だった。畠山さんは、機械と電気の責任者で、村井平八郎さんは労務の責任者だった。私はどちらかというと仕事の関係もあって、畠山副所長から特別に可愛がられた。
所帯持ちの朝鮮人は早くから日本に渡航してきて、トンネル工事現場を転々としている者ばかりで、専門の技術を持っていた。独身者の1000人は、これもトンネル人夫専門に集められた労務者で、西松組の主力として働いた。
後の2500人の朝鮮人労務者は、朝鮮総督府に依頼して、徴用で強制的にひっぱってきた人たちだった。
私が直接朝鮮に行って徴用してきたわけではないが、かなり強制的だったと彼らは話していた。みんなが集まって賭博をしているところを襲い、そのまま警察にひっぱったという。
朝鮮の農村に行って、酒を飲んだり共同作業をしているところを、警官がつかめて総督府でまとめ、西松組が受け取りに行ったんだ。彼らは農作業とか土方仕事をやっているので、労働仕事には向いていた。宮守のダム工事現場でトンネル工事をしているうちに、次第に慣れてきたんだ。トンネルの穴をくるのと違って、発破で出たズリを運び出したり、セメントや砂利の運搬とか単純労働をした。
ダム工事現場の徴用の朝鮮人労務者のことを、西松組では”集団”と呼び、とっても荒い使い方をした。
飯場というのは、ダムの工事が終わればもう必要ないので、掘っ立て小屋というか、柱を立てて板をはりつけただけのバラックだ。
冬になると岩手県の山の中は雪も多く、隙間だらけだから雪が降り込んで寒くてしようがない。仮の作業小屋だから粗末なもんだ。
飯場というのは寝るためにだけあるのであって、住家というもんじゃない。もちろんそこで働く朝鮮人はもう人間扱いじゃなくて、犬や猫以下の悲惨なものだった。所帯持ちの朝鮮人は日本語がわかるが、集団の人たちはほとんどが言葉を話せないのでくろうしとった。
私は鉄道学校でトンネル掘りの専門的技術を習ったが、工事現場の労働者の生活というものをまったく知らず、宮守の発電所のダム工事にやってきて、朝鮮人労務者だけでやっている姿を見て驚いた。今のようなベルトコンベヤアなどの機械があるわけでなし、人間が蟻のように群がってやる人海戦術なんだ。
西松組が政府の日本発送電から請け負って、それを下請けにおろし、その孫請けとだんだん下がるにつれて、労務者の賃金はピンハネされて少なくなるんだ。日本発送電から一日1人2円出ると、西松組、下請け飯場、孫請け飯場と下がるにつれて手取りが50銭、飯場の飯代、布団代を差し引くと労務者には金は残らない。
そういう状態だから待遇がいいわけがなく、死なない程度の貧しい食事で、ヘトヘトになるまで働かされた。
その時、宮守では日本人は朝鮮人に対して悪いことをしたですよ。現場監督が朝鮮人を殴るし、仕事を怠けるといって叩き殺しても平気だしね。
私は彼ら集団が どういう生活をしているか、飯場を見に行ったことがあるが、もう人間としては見られないほどひどいものだった。飯場の食べ物も、人間が食べるようなものではなかった。風呂はもちろんないし、便所は屋根が少しあるだけの吹きさらしで、長い板が渡されていた。雀や燕が電線に留まっているように、みんな並んで用を足していた。3500人という大勢の人間が、短い時間にどっと押し寄せるから足りない。近くの適当な場所で用を足すから、どこへ行っても糞だらけ、踏み散らしてそのまま飯場に帰るから不潔そのものだった。
便所も汲み取りをしないから流れっ放し、悪臭が立ち込めて息もできない。飯場の中はノミとシラミの巣窟で、入ったと同時に私に襲いかかった。歩くだけで体中がかゆくなってしょうがない。それを見ると、人間の住むところじゃなく、まるで人間の地獄というか、目をそむけたくなった。それは朝鮮人そのものも悪いと、自分たちの国の人間がね。
私が考えるに、朝鮮では最も貧しい人たちに徴用をかけ、強制的に宮守に連れてきている。そうした中には両班とか、大地主とか、知識階級の人はほとんどきていない。朝鮮でも住む家もないような階級の人が多かった。
知識階級の人たちは、朝鮮支配した日本人を恨んでいる。ところが徴用されて宮守に強制的にひっぱられてきた人たちは水準以下で、何もわからないんだ。働けといわれると、牛馬のように命令どおりに働くしか方法はないし、殴られて殺されても運命としてあきらめるしかない。実に哀れな民族なんだ。境遇を変えようたって、自分の力ではどうにもならない。
そこへ軍命令で松代行きが決まり、発電所工事を一時中止して、約3500人が集団移動することになった。宮守の発電所工事は戦後もずっとやって、完成したのは昭和35年だと私は聞いた。
日本一の地下壕工事
3500人が宮守から松代に集団移動となるとそれは大変で、村井平八郎さんが計画を立て、食糧とか布団、輸送する列車などの手配をした。米から味噌まで、3500人が当分食べるだけの食糧が必要だからね。
私たち10人が先発隊として、昭和19年11月1日に松代に着いた。松代に行く時は、大本営移転のための工事とは一切知らされずに、ただ、日本一大きい地下壕工事だといわれた。
西松組の地下壕工事の隊長は宮守ダム工事現場の所長だった矢野亨さんで、イ地区の象山とロ地区の舞鶴山の責任者だった。畠山忠男さんは副隊長で、ハ地区の皆神山の責任者だった。村井平八郎さんは同じく副隊長で、朝鮮から徴用されてくる労務者の受け入れ、飯場への配置とか食糧などの支給とか、一般的な労務管理を担当した。……(以下略)
・・・
軍のというか国家的な秘密工事なので、もし私が朝鮮人だとわかればすぐに殺されるに決まっている。
第一、そんな秘密工事の任務に、朝鮮人を使うことは当時としては考えられないからだ。それだから私は、矢野隊長、畠山、村井副隊長には恩がある。
松代に着いた日に、私は矢野隊長から呼ばれた。
「三原君、お前は、誰が何といっても朝鮮人だといってはならないぞ、いいか」
と、きびしい口調でいった。それまでに私が朝鮮人だということを、この3人を除いて誰も知らなかった。……(以下略)
650人の死者か?
あの当時、労務者の正確な数というのは、東部軍関係者かそれとも運輸通信省の幹部しか知らない。私の関係する西松組は6500人、それに鹿島組関係が500人、後は間組もいたから、朝鮮人労務者だけで、松代には8000人と私は推定している。
西松組の場合、朝鮮人労務者は6500人で、事務所の労務係のところに9冊の台帳があった。一連番号が打たれて、最後が6500で終わっていたのは、私が引き揚げのための帰国者名簿を渡された時に確認した。
事故などで死亡すると、事務員の奥野が赤印で線を引いた。村井平八郎が、「今月は120人死んだ」と矢野隊長に報告しているところを私は聞いた。
私が朝鮮に帰国するために引率して松代を出る前日、旅費計算を終えて死者の数を確認すると、約650人の赤線がついていたんだ。釜山から故郷までの旅費計算に目を通すから、一人ひとりチェックしなければならない。西松組だけで死亡者は650人、鹿島組と間組は私にはわからない。3つ併せると、かなりの数になるのじゃなかろうか。
一番多い時で3500人いたイ地区の清野の労務者が、解放の時に3000人になっていたことを知ったが、逃亡はまず考えられないから、500人減ということは不思議なこともあるものだ。……(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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半日本人
金錫智 韓国全羅南道木浦市 元西松組社員
西松組入社
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西松組は幹部と事務員だけ十数人で、後は全部朝鮮人労務者ばかりで、日本人労務者はほとんどいない。下請けの親方の飯場に入れて、そのもとで働くことになる。約3500人収容した飯場が、ダム工事現場周辺にずらっと建ち並んでいた。所帯持ちの20組は親方に所属して、別の飯場に住んだ。
西松組では矢野亨さんが全体の所長、畠山忠男さんが副所長だった。畠山さんは、機械と電気の責任者で、村井平八郎さんは労務の責任者だった。私はどちらかというと仕事の関係もあって、畠山副所長から特別に可愛がられた。
所帯持ちの朝鮮人は早くから日本に渡航してきて、トンネル工事現場を転々としている者ばかりで、専門の技術を持っていた。独身者の1000人は、これもトンネル人夫専門に集められた労務者で、西松組の主力として働いた。
後の2500人の朝鮮人労務者は、朝鮮総督府に依頼して、徴用で強制的にひっぱってきた人たちだった。
私が直接朝鮮に行って徴用してきたわけではないが、かなり強制的だったと彼らは話していた。みんなが集まって賭博をしているところを襲い、そのまま警察にひっぱったという。
朝鮮の農村に行って、酒を飲んだり共同作業をしているところを、警官がつかめて総督府でまとめ、西松組が受け取りに行ったんだ。彼らは農作業とか土方仕事をやっているので、労働仕事には向いていた。宮守のダム工事現場でトンネル工事をしているうちに、次第に慣れてきたんだ。トンネルの穴をくるのと違って、発破で出たズリを運び出したり、セメントや砂利の運搬とか単純労働をした。
ダム工事現場の徴用の朝鮮人労務者のことを、西松組では”集団”と呼び、とっても荒い使い方をした。
飯場というのは、ダムの工事が終わればもう必要ないので、掘っ立て小屋というか、柱を立てて板をはりつけただけのバラックだ。
冬になると岩手県の山の中は雪も多く、隙間だらけだから雪が降り込んで寒くてしようがない。仮の作業小屋だから粗末なもんだ。
飯場というのは寝るためにだけあるのであって、住家というもんじゃない。もちろんそこで働く朝鮮人はもう人間扱いじゃなくて、犬や猫以下の悲惨なものだった。所帯持ちの朝鮮人は日本語がわかるが、集団の人たちはほとんどが言葉を話せないのでくろうしとった。
私は鉄道学校でトンネル掘りの専門的技術を習ったが、工事現場の労働者の生活というものをまったく知らず、宮守の発電所のダム工事にやってきて、朝鮮人労務者だけでやっている姿を見て驚いた。今のようなベルトコンベヤアなどの機械があるわけでなし、人間が蟻のように群がってやる人海戦術なんだ。
西松組が政府の日本発送電から請け負って、それを下請けにおろし、その孫請けとだんだん下がるにつれて、労務者の賃金はピンハネされて少なくなるんだ。日本発送電から一日1人2円出ると、西松組、下請け飯場、孫請け飯場と下がるにつれて手取りが50銭、飯場の飯代、布団代を差し引くと労務者には金は残らない。
そういう状態だから待遇がいいわけがなく、死なない程度の貧しい食事で、ヘトヘトになるまで働かされた。
その時、宮守では日本人は朝鮮人に対して悪いことをしたですよ。現場監督が朝鮮人を殴るし、仕事を怠けるといって叩き殺しても平気だしね。
私は彼ら集団が どういう生活をしているか、飯場を見に行ったことがあるが、もう人間としては見られないほどひどいものだった。飯場の食べ物も、人間が食べるようなものではなかった。風呂はもちろんないし、便所は屋根が少しあるだけの吹きさらしで、長い板が渡されていた。雀や燕が電線に留まっているように、みんな並んで用を足していた。3500人という大勢の人間が、短い時間にどっと押し寄せるから足りない。近くの適当な場所で用を足すから、どこへ行っても糞だらけ、踏み散らしてそのまま飯場に帰るから不潔そのものだった。
便所も汲み取りをしないから流れっ放し、悪臭が立ち込めて息もできない。飯場の中はノミとシラミの巣窟で、入ったと同時に私に襲いかかった。歩くだけで体中がかゆくなってしょうがない。それを見ると、人間の住むところじゃなく、まるで人間の地獄というか、目をそむけたくなった。それは朝鮮人そのものも悪いと、自分たちの国の人間がね。
私が考えるに、朝鮮では最も貧しい人たちに徴用をかけ、強制的に宮守に連れてきている。そうした中には両班とか、大地主とか、知識階級の人はほとんどきていない。朝鮮でも住む家もないような階級の人が多かった。
知識階級の人たちは、朝鮮支配した日本人を恨んでいる。ところが徴用されて宮守に強制的にひっぱられてきた人たちは水準以下で、何もわからないんだ。働けといわれると、牛馬のように命令どおりに働くしか方法はないし、殴られて殺されても運命としてあきらめるしかない。実に哀れな民族なんだ。境遇を変えようたって、自分の力ではどうにもならない。
そこへ軍命令で松代行きが決まり、発電所工事を一時中止して、約3500人が集団移動することになった。宮守の発電所工事は戦後もずっとやって、完成したのは昭和35年だと私は聞いた。
日本一の地下壕工事
3500人が宮守から松代に集団移動となるとそれは大変で、村井平八郎さんが計画を立て、食糧とか布団、輸送する列車などの手配をした。米から味噌まで、3500人が当分食べるだけの食糧が必要だからね。
私たち10人が先発隊として、昭和19年11月1日に松代に着いた。松代に行く時は、大本営移転のための工事とは一切知らされずに、ただ、日本一大きい地下壕工事だといわれた。
西松組の地下壕工事の隊長は宮守ダム工事現場の所長だった矢野亨さんで、イ地区の象山とロ地区の舞鶴山の責任者だった。畠山忠男さんは副隊長で、ハ地区の皆神山の責任者だった。村井平八郎さんは同じく副隊長で、朝鮮から徴用されてくる労務者の受け入れ、飯場への配置とか食糧などの支給とか、一般的な労務管理を担当した。……(以下略)
・・・
軍のというか国家的な秘密工事なので、もし私が朝鮮人だとわかればすぐに殺されるに決まっている。
第一、そんな秘密工事の任務に、朝鮮人を使うことは当時としては考えられないからだ。それだから私は、矢野隊長、畠山、村井副隊長には恩がある。
松代に着いた日に、私は矢野隊長から呼ばれた。
「三原君、お前は、誰が何といっても朝鮮人だといってはならないぞ、いいか」
と、きびしい口調でいった。それまでに私が朝鮮人だということを、この3人を除いて誰も知らなかった。……(以下略)
650人の死者か?
あの当時、労務者の正確な数というのは、東部軍関係者かそれとも運輸通信省の幹部しか知らない。私の関係する西松組は6500人、それに鹿島組関係が500人、後は間組もいたから、朝鮮人労務者だけで、松代には8000人と私は推定している。
西松組の場合、朝鮮人労務者は6500人で、事務所の労務係のところに9冊の台帳があった。一連番号が打たれて、最後が6500で終わっていたのは、私が引き揚げのための帰国者名簿を渡された時に確認した。
事故などで死亡すると、事務員の奥野が赤印で線を引いた。村井平八郎が、「今月は120人死んだ」と矢野隊長に報告しているところを私は聞いた。
私が朝鮮に帰国するために引率して松代を出る前日、旅費計算を終えて死者の数を確認すると、約650人の赤線がついていたんだ。釜山から故郷までの旅費計算に目を通すから、一人ひとりチェックしなければならない。西松組だけで死亡者は650人、鹿島組と間組は私にはわからない。3つ併せると、かなりの数になるのじゃなかろうか。
一番多い時で3500人いたイ地区の清野の労務者が、解放の時に3000人になっていたことを知ったが、逃亡はまず考えられないから、500人減ということは不思議なこともあるものだ。……(以下略)
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