「沈黙のファイル 『瀬島龍三』とは何だったのか」共同通信社社会部編(新潮文庫)で注目したいことが二つある。その一つは、関係者の証言で、日本人が中国人や朝鮮人を抑圧していたことがはっきり分かることである。武装解除されると中国人や朝鮮人の仕返しが恐いので、武装解除の延期を依頼し、武装解除後はソ連軍に守ってもらいたいと要請せざるを得なかったのである。また、もう一つは、瀬島の文書改竄の理由である。近衛がスターリンとの会談の際に持参する予定であった「和平交渉の要綱」の中には「賠償として、一部の労力を提供することには同意す」とある。ソ連に講和の仲介役を引き受けてもらうために、秦総参謀長など関係者も「64万の日本人を差し出すことも止むを得ない」と考え、交渉に臨んだのではないかと疑われるのである。交渉に同席した瀬島が、そうした疑いをはらすために、ロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフの著書「シベリア抑留秘史」日本語訳の原稿を改竄したとすれば、いよいよ怪しいということになる。同書からの抜粋である。
---------------------------------
スターリンの虜囚たち
サムライの強気
・・・
ソ連領ジャリコーワで午後3時半から始まった関東軍総参謀長、秦彦三郎と極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの「停戦交渉」。同席した方面軍司令官マリノフスキーはその模様を著書『関東軍壊滅す』に次のように書き残している。
「つい最近まで(大戦果)を夢見ていた彼らであったが、いま、彼らは困惑と憂慮の色を顔面に漂わせて、小屋に入り帽子を取ってソビエト軍代表に敬礼した。(中略)小屋内の会談は緊張していた。ワシレフスキー元帥は日本軍の降伏手続きを説明し、まだ抵抗を続ける日本軍部隊はただちに武器を捨てるべきだと警告した。会見後すぐ、特別な事情が分かった。日本軍の数部隊が武器を捨てない事情を、秦将軍は率直に次のように説明した。関東軍司令部は困っている。ソビエト軍進攻の二日目、関東軍司令部は各部隊の統制を失い、降伏命令を全部隊に徹底することができなかった。ソ連の戦車と歩兵の進撃は急だった。混乱が起こった。司令部は各部隊と連絡することができなかった……」
ワシレフスキーは秦を机の上の地図のそばに呼び寄せ、関東軍各部隊がソ連軍に投降する日時や場所を指示した。秦はいらだたしげに肩ひもをまさぐり、眼鏡をふいた。「次のことはわすれないでください」とワシレフスキーが言った。
「日本軍は、将校とともに、秩序よく投降すること。また、最初の数日の兵士の食糧は日本軍将校が配慮すること。各部隊は食糧持参で投降すること……」
秦は同意のしるしにうなずいた。
「細部の打ち合わせがはじまった。色々な問題が起こった。秦将軍は、ソビエト軍が到着するまで、満鮮各地区の日本軍の武装を許可するように申し入れた。『住民が不穏なので……』と彼はいった。日本人は彼らがかつてひどく抑圧した昨日までの召使いー中国人と朝鮮人ーを明らかに恐れている。南満に日本人が多数逃走し、避難民となっているから、このことをソビエト軍司令部は考慮されたいと、秦将軍はいう。ワシレフスキー元帥は、ソビエト軍司令部は、占領地域の完全な秩序維持を保証すると答えた」
・・・
改竄された電文
「ワシレフスキー元帥から武装解除の具体的指示を受けた後で、関東軍総参謀長の秦彦三郎はこう言った。『満州では住民が日本軍に恨みを持っているから関東軍将兵の武器携帯を認めてほしい』と」(ワシレフッスキーの副官イワン・コワレンコ元共産党国際部副部長の日記を元にした証言)
コワレンコの証言が続く。
当時満州では中国人やソ連軍兵士による略奪が頻発していた。
「秦はその後『居留民が南に避難しているのでソ連軍に保護してもらいたい』と要望した。元帥はソ連軍の連絡用自動車を確保しておくことなどを指示した。それがジャリコーワの会談のすべてだよ」
コワレンコによると、秦が要求したのは関東軍の武器携帯と居留民保護の二点だけだった。関東軍将兵のシベリア抑留や日本帰還の話は全く出なかった。
「捕虜をどうするかは戦勝国の権限だ。肉体労働をさせるか、帰還させるか、あるいは食べてしまうのか。決めるのは戦勝国であって敗者がとやかく言えることじゃない」
この証言は秦の著書『苦難に耐えて』の記述と一致する。
「私は関東軍の一般状況を説明した後、日本軍の名誉を尊重されたいこと、および居留民の保護に万全を期せられたいことの二件を強く要請した。これに対し、ワシレフスキー元帥はわが方の要求を快く承諾し、特に日本人には階級章および帯刀(剣)を許し、将官には専属副官および当番を許すと言明した」
・・・
ジャリコーワの停戦交渉から二日後、瀬島は大本営に「交渉」結果を打電した。
関東軍総参謀長秦中将及ビ極東「ソ」軍最高司令官ワシレフスキー元帥トノ協定左ノ如シ
(一)武装解除ニ当リテハ都市等ノ権力モ一切ソ連軍ニ引渡ス
(二)前線後方共ニ軍隊、軍需品ノ移動ヲ行ハズ。但シ局地的ノモノハ差支ヘナ シ
(三)ソ連ハ日本軍隊ノ名誉ヲ重ンズ。之ガタメ将兵ノ帯刀ヲ許シ、又武装解除後
ノ取扱ヲ極力丁寧ニス。解除後ノ将校ノ生活ハ成可ク今迄同様トス(食事並
ニ当番ノ如キ)
(四)治安ノ間隙ナカラシム。之ガタメ満州内要地等ニ於テハ、ソ連軍隊ガ進駐シ
警備其ノ他ナシ得ルニ至リ全力ヲ日本軍ニ於テ実質的ニ武装解除ス。従テ
コノ間ノ警備ハ日本軍に於テ負担ス
(五)関東軍司令部ノ解体ハ全力ノ武装解除後ニ於テコレヲ為ス。コノ間ノ通信機
関、連絡用飛行機、自動車ノ使用差支へナク、日本軍ノ要求ニヨリソ連ニ於
テモ飛行機ヲ差出ス
(六)武装解除後ノ日本軍隊ノ給与ハ自隊ニ於テ之ヲ行ヒ、之ガ為食糧運搬ノ自
動車ノ使用等ハ概ネ現在通リ実施ス。給与ノ定額ハ概ネ現在程度ナリ
(七)鉄道ハ速ヤカニソ連ノ管理ニ移ス。食糧輸送ノタメ必要ナルトキハ日本軍ヨ
リ要求ス
(八)満鮮、居留民ノ保護ニ就テハソ連ニ於テ充分留意ス
八項目の「協定」の中に関東軍将兵の帰還や抑留についての記載はない。ワシレフスキーがモスクワに打った電文(8月20日付)も同じだ。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また日本軍将官、将校兵士に対する然るべき取り扱い給養、医療を要請した。私は必要な指示を与えた」
この電文はロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフが発見。著書『シベリア抑留秘史』(92年)でその存在を明らかにした。
だが全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された日本語訳の単行本には、原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の16文字が「然るべき取り扱い給養、医療」の後に加筆されていた。
あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。 ……(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
---------------------------------
スターリンの虜囚たち
サムライの強気
・・・
ソ連領ジャリコーワで午後3時半から始まった関東軍総参謀長、秦彦三郎と極東ソ連軍総司令官ワシレフスキーの「停戦交渉」。同席した方面軍司令官マリノフスキーはその模様を著書『関東軍壊滅す』に次のように書き残している。
「つい最近まで(大戦果)を夢見ていた彼らであったが、いま、彼らは困惑と憂慮の色を顔面に漂わせて、小屋に入り帽子を取ってソビエト軍代表に敬礼した。(中略)小屋内の会談は緊張していた。ワシレフスキー元帥は日本軍の降伏手続きを説明し、まだ抵抗を続ける日本軍部隊はただちに武器を捨てるべきだと警告した。会見後すぐ、特別な事情が分かった。日本軍の数部隊が武器を捨てない事情を、秦将軍は率直に次のように説明した。関東軍司令部は困っている。ソビエト軍進攻の二日目、関東軍司令部は各部隊の統制を失い、降伏命令を全部隊に徹底することができなかった。ソ連の戦車と歩兵の進撃は急だった。混乱が起こった。司令部は各部隊と連絡することができなかった……」
ワシレフスキーは秦を机の上の地図のそばに呼び寄せ、関東軍各部隊がソ連軍に投降する日時や場所を指示した。秦はいらだたしげに肩ひもをまさぐり、眼鏡をふいた。「次のことはわすれないでください」とワシレフスキーが言った。
「日本軍は、将校とともに、秩序よく投降すること。また、最初の数日の兵士の食糧は日本軍将校が配慮すること。各部隊は食糧持参で投降すること……」
秦は同意のしるしにうなずいた。
「細部の打ち合わせがはじまった。色々な問題が起こった。秦将軍は、ソビエト軍が到着するまで、満鮮各地区の日本軍の武装を許可するように申し入れた。『住民が不穏なので……』と彼はいった。日本人は彼らがかつてひどく抑圧した昨日までの召使いー中国人と朝鮮人ーを明らかに恐れている。南満に日本人が多数逃走し、避難民となっているから、このことをソビエト軍司令部は考慮されたいと、秦将軍はいう。ワシレフスキー元帥は、ソビエト軍司令部は、占領地域の完全な秩序維持を保証すると答えた」
・・・
改竄された電文
「ワシレフスキー元帥から武装解除の具体的指示を受けた後で、関東軍総参謀長の秦彦三郎はこう言った。『満州では住民が日本軍に恨みを持っているから関東軍将兵の武器携帯を認めてほしい』と」(ワシレフッスキーの副官イワン・コワレンコ元共産党国際部副部長の日記を元にした証言)
コワレンコの証言が続く。
当時満州では中国人やソ連軍兵士による略奪が頻発していた。
「秦はその後『居留民が南に避難しているのでソ連軍に保護してもらいたい』と要望した。元帥はソ連軍の連絡用自動車を確保しておくことなどを指示した。それがジャリコーワの会談のすべてだよ」
コワレンコによると、秦が要求したのは関東軍の武器携帯と居留民保護の二点だけだった。関東軍将兵のシベリア抑留や日本帰還の話は全く出なかった。
「捕虜をどうするかは戦勝国の権限だ。肉体労働をさせるか、帰還させるか、あるいは食べてしまうのか。決めるのは戦勝国であって敗者がとやかく言えることじゃない」
この証言は秦の著書『苦難に耐えて』の記述と一致する。
「私は関東軍の一般状況を説明した後、日本軍の名誉を尊重されたいこと、および居留民の保護に万全を期せられたいことの二件を強く要請した。これに対し、ワシレフスキー元帥はわが方の要求を快く承諾し、特に日本人には階級章および帯刀(剣)を許し、将官には専属副官および当番を許すと言明した」
・・・
ジャリコーワの停戦交渉から二日後、瀬島は大本営に「交渉」結果を打電した。
関東軍総参謀長秦中将及ビ極東「ソ」軍最高司令官ワシレフスキー元帥トノ協定左ノ如シ
(一)武装解除ニ当リテハ都市等ノ権力モ一切ソ連軍ニ引渡ス
(二)前線後方共ニ軍隊、軍需品ノ移動ヲ行ハズ。但シ局地的ノモノハ差支ヘナ シ
(三)ソ連ハ日本軍隊ノ名誉ヲ重ンズ。之ガタメ将兵ノ帯刀ヲ許シ、又武装解除後
ノ取扱ヲ極力丁寧ニス。解除後ノ将校ノ生活ハ成可ク今迄同様トス(食事並
ニ当番ノ如キ)
(四)治安ノ間隙ナカラシム。之ガタメ満州内要地等ニ於テハ、ソ連軍隊ガ進駐シ
警備其ノ他ナシ得ルニ至リ全力ヲ日本軍ニ於テ実質的ニ武装解除ス。従テ
コノ間ノ警備ハ日本軍に於テ負担ス
(五)関東軍司令部ノ解体ハ全力ノ武装解除後ニ於テコレヲ為ス。コノ間ノ通信機
関、連絡用飛行機、自動車ノ使用差支へナク、日本軍ノ要求ニヨリソ連ニ於
テモ飛行機ヲ差出ス
(六)武装解除後ノ日本軍隊ノ給与ハ自隊ニ於テ之ヲ行ヒ、之ガ為食糧運搬ノ自
動車ノ使用等ハ概ネ現在通リ実施ス。給与ノ定額ハ概ネ現在程度ナリ
(七)鉄道ハ速ヤカニソ連ノ管理ニ移ス。食糧輸送ノタメ必要ナルトキハ日本軍ヨ
リ要求ス
(八)満鮮、居留民ノ保護ニ就テハソ連ニ於テ充分留意ス
八項目の「協定」の中に関東軍将兵の帰還や抑留についての記載はない。ワシレフスキーがモスクワに打った電文(8月20日付)も同じだ。
「関東軍参謀長秦中将は私ワシレフスキー元帥に対して、満州にいる日本軍と日本人ができるだけ早くソ連軍の保護下に置かれるよう、ソ連軍の満州全域の占領を急ぐよう要請し、同時に、現地の秩序を保ち企業や財産を守るために、ソ連到着まで武装解除を延期されたいと陳情した。秦中将は、日本人、満州人、朝鮮人の関係が悪化していると述べた。また日本軍将官、将校兵士に対する然るべき取り扱い給養、医療を要請した。私は必要な指示を与えた」
この電文はロシア軍事検察庁法務大佐ボブレニョフが発見。著書『シベリア抑留秘史』(92年)でその存在を明らかにした。
だが全国抑留者補償協議会(全抑協)から出版された日本語訳の単行本には、原文にない「更に軍将兵、一般日本人の本国送還」の16文字が「然るべき取り扱い給養、医療」の後に加筆されていた。
あってはならない歴史的文書の改竄。全抑協から出版前の原稿点検を頼まれた瀬島の行為だった。 ……(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます