真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍の「私刑」と「殺人教育」

2019年12月24日 | 国際・政治

 皇軍といわれた日本の軍隊は、いろいろな面で特異な軍隊でした。でも、今はその特異性が忘れられつつあるように思います。だから、今回は「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から、日本軍の内部で広く組織的に行われた「私刑」すなわち私的制裁(リンチ)と「殺人教育」についての部分を抜粋しました。日本軍の人権無視や人命軽視の体質は、日本の戦争や皇国日本の実態を考える上で、無視されてはならないことだと思うからです。

 「第七章 私刑」では、殴る、蹴るについての制裁部分のみを抜粋しましたが、「ウグイスの谷わたり」や「セミ」、また「自転車乗り」などと名づけられた制裁についても、証言に基づいて、取り上げています。こうした日本軍の野蛮な側面は忘れられてはならないことではないかと思います。
 また、「第十一章 殺人教育」についてでは、下記の文中に”殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。”とありますが、見せるだけではなく、命令したこともあったことを見逃すことができません。

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあります。部下全員を集めて、次の如く談話し、教育したというものです。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
「此には銃殺より刺殺が効果的である

 次々に初年兵が送られてくるために、こうした考え方に基づいて、国際法違反の捕虜の殺害が常態化していったのではないかと思います。当時初年兵として実際に中国人の捕虜刺突を命ぜられた土屋芳雄氏の証言が、「聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)に出ていました。

昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した
 ・・・
その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
 ・・・
ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。…”

 こうした証言には、受けた衝撃の大きさから、多少の誇張が含まれている部分もあるかも知れないと思いますが、似たような証言は多々あり、大筋間違いのないことだと思います。

 また、初年兵教育とは別ですが、多くの捕虜の殺害に関して、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」には、

〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。”(『南京戦史資料集』678頁
 などという記録も残されています。日本軍の人命軽視、国際法違反は否定しようがないことだと思います。 

 下記は、「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から抜粋しました。
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                           第七章 私刑
 下級兵士から上級の兵・下士官の将校に対する反抗を「対上官犯」と呼ぶなら、反対に上位の者から下位者に対して行われる暴行は、私的制裁または私刑(リンチ)と呼ばれる行為である。日常化したリンチが、「天皇の軍隊」の秩序維持にとってどれだけ必要なものであったかを、さらに「衣」師団の諸氏が証言する。
 天皇の軍隊は私的制裁(私刑=リンチ)を禁じていた。あらゆる規律違反は天皇の名のもとに厳然としていたはずであり、規律の乱れについては、やはり天皇の名において軍法会議以下幾種もの処分決定機関がある。1942(昭和17)年12月にも陸軍省名で「私的制裁の根絶」を通牒している。しかし
私的制裁は連綿と絶えることがなかった。皇軍内部におけるリンチは、将校と初年兵、下士官と初年兵など階級差があまりに大きい者同士の間では起こりにくかった。むしろ古年兵から初年兵に、下士官から上級兵に対してというふうに接近した階級間でより残酷に現れる。直接の下手人はその上位者の暗黙の了解または教唆のもとに行われ、それは自己保身と出世にとってむしろ必要なものと考えられていた。米国における黒人へのリンチも、下手人の役目は下層白人階層によって担われていたことのアナロジーである。膨大な差別の体系は、近代では法律や規範のみで禁止することはむずかしい。法的には許されなくとも、差別構造の不安定な部分を補強するために、リンチは”立派な”存在意義をもっていた。天皇絶対制と私的制裁とは切っても切れない関係にあったといえよう。
 別の例でいえば、ベトナムの末端での犯罪「ソンミ事件」は、合衆国のたてまえとして、また法的にも許されぬことになっているが、ニクソン大統領は事実上これをすべて無罪とし、ソンミはニクソンと切っても切れない関係にあった。天皇とリンチの関係、天皇と中国人虐殺との関係も全く同様である。ここでは皇軍内部のリンチの証言だけを幾つか記すことにする。
「衣」第四十二大隊第四中隊の小林栄治氏は、館陶事件より少し前の一等兵時代に、兵営内で自分の同期兵がやられた例をあげた。この場合は加害者も被害者も同じ一等兵だが、一方は二年先輩であった。二年以上軍隊にいておなじ一等兵に留まっているのは、かなり出世が遅い部類にはいる。
 小林氏の友人U一等兵は、古参兵一等兵二、三人に囲まれて、むりやりダルマストーブの前に坐らせられていた。石炭がどんどん投げ込まれたストーブの前に、U氏はパンツ一枚で正座したままの姿勢で「お説」教される。お前はふだんの動作がなまいきだ、誰それの銃をよく手入れしない、誰それ古参兵殿の衣服の洗濯をサボっていた、などと色々理由をつけられていた。一時間後にはU一等兵のヒザがしら全体が大きな水ぶくれとなったが、なおしばらく私刑は続いた。U一等兵が元の元気な身体に戻るまでには一ヶ月以上かかった。しかし彼はまだ幸運なほうだったといえるかもしれない。リンチで殺された場合に較べれば
 リンチで殺された者はまったくの犬死である。しかし、事件を公にせずにしかも鮮やかに処理するやり方があった。次の証言は「衣」第五十四旅団第四十五大隊砲兵中隊の坂倉清兵長(1942年当時)による。
 独立混成第十旅団(「衣」師団の前身)第四十五大隊第一中隊の本部は、かつて大汶口(ダイモンコウ)西方地区にあった。中隊のひとりに山下一等兵という古参兵がいた。酒好きで、中隊のもてあまし者だったという。ある日、人事係のT曹長が酒に酔った山下一等兵を連れてきて、中隊本部前に掘ってあった壕の中にほうりこんでしまった。さらにT曹長が彼に縄をかけようとしたとき、山下一等兵は抵抗したようだ。T曹長は直ちに山下一等兵を射殺してしまった。
「徂徠山付近に敵兵現わる」として非常招集が懸けられたのは、その晩のことだった。 兵士たちは夜中に叩き起こされ、何のことやらさっぱりわからぬままに軍装備をほどこし、中隊本部からほど遠からぬ山のふもとまで行った。だが結局何事もなく基地に引き返した。戦闘があろうはずがなかった。単なる偽装行動に過ぎなかったからだ。戦闘行動が成立するためには、中隊から大隊本部へ向けて電報を一本打つだけで事足りた。「徂徠山方面に敵兵あり」と。そして、翌日には下士官が「陣中日誌」か「戦闘詳報」を書いてただ一行をつけ加えればよかった。
「同地ニオイテ、陸軍一等兵山下某、壮烈ナル戦死ヲ遂グ」
 この様にしてリンチで虐殺された兵隊もまた、もちろん靖国神社に「英霊」としてまつられているはずだ。この話は坂倉氏が「衣」師団に移る前の1940(昭和15)年春、新兵教育を受けている間に、その年の一月にあったことだとして古参兵から教えられた話である。その先輩兵士はこうも言った。── 「だから、へたに上の者にさからったら、えらいことになるかも知れんからな」
 すると他の古参兵がそのコトバを解説するように付け加えた。──「まあ言ってみりゃあ、処罰は何も軍法会議とか営倉入りとかいったもんだけじゃないっちゅうわけだ。上官には刀というものがあるからなあ」「軍隊じゃ、お前たち一人くらいなくなっても構わんということだ。また一銭五厘(召集令状の葉書代)で新しいのを連れてくりゃあいいっちゅうことになる」
 これらの話はどれも、皇軍では少しでも上官にとがめられるようのことでもあれば命さえ保障されない、ということをたとえ話として解説入りで説明したものだった。「教育的配慮」ともいえるかもしれない。古参兵たちが語ったように、山下一等兵が果たして本当に飲んだくれで、部隊のもて余し者だったものか、それとも山下氏がただT曹長から嫌われていたに過ぎないのか、本当のところは坂倉氏も知らない。本当の飲んだくれだったとしても、だからリンチで殺してよいことにはもちろんならないが、そんな正論が「天皇の軍隊」に通じることはあり得ない。

 何んといっても最もありふれた制裁は殴ることだ。殴る理由は何でもよい。命令に絶対服従しなければ殴られるのに勿論十分な理由となるが、そうでなくとも顔つきが気に食わなかったり、洗濯物のボタンがひとつとれかかっていたり、朝くつがちょっとばかり汚れていたリ、あらゆる一挙一動について上級兵は下級兵を殴る理由を見つけるのにこと欠かなかった。読者がもし若い人であれば、こうした情況については1932~1933年(昭和7~8年)以前に生まれた男たちの、とくに旧制中学に少しでもいたことのある人にきいてみることだ。軍隊のこの野蛮性は中学にまでもちこまれて、上級生による下級生へのリンチは片田舎にいたるまで日常化していた(実はこれは、戦後も一部の反動的右翼大学の体育系クラブ活動の中にみられ、あるいは、赤軍派事件のような形でもみられる。)
 こういう有様だから、元「衣」師団の兵士たちに向かって、「あなたは皇軍兵士になってからの一年間に何回くらい殴られた経験があると思いますか。大体でよいのですが」とか、「入隊して初めて殴られた経験なら思い出せるのでは?」とか「どんな理由で殴られることがいちばん多いのでしょう」などと聞いてみても、満足のいく答は得られそうにない。「そりゃ数え切れんくらいと言うしかないですよ」とか、「さあ毎日殴られるほどですから思い出せません。入隊してその日に自分の名を呼ばれる。外の社会でやったように普通の大きさで『ハイ』と返事をしたら、もうパンチがとんでくるんですわ。凄い大声で返事をせんけりゃいかんというわけです」という具合である。後者の例は
「衣」第四十五大隊第一中隊の石神好平上等兵(1942年当時)の返事だが、これが彼自身の場合だったのか、それとも他人の場合であって一般的にそういう場合が最も多い、という意味なのか、本人でさえ正確に思い出せないほどなのだ。この事実を坂倉氏は「殴られるのはほとんど毎晩ですから、そのことを”総まとめ”で覚えているだけ」と表現し、鈴木氏は「理由が一切ないのが皇軍です」と述べている。
 元「衣」兵士・石神上等兵((53)は、千葉県千葉郡豊臣村字古和釜823番地(現・船橋市小和釜)の小作農民出身、当時の米の収穫量は反当り6俵が相場(71年度産米は玄米ベース7.6俵=農林省調べ)だが、そのうち地主に4俵を納めると手元に2俵しか残らなかった。──「当時貧農には悪い田んぼしか借りられなかったなあ。女は乳まで泥につかるような田んぼで収穫も反当り5・6俵、それでも4俵納めんけりゃならなんだですよ。そんな田を3反借りてました」
 応召した1940(昭和15)年の5月には父親が胃ガンで死んだが、それでも母親と石神氏の四人の兄弟妹、それに石神氏の妻と子ひとりが食えなかった。12月4日の入隊の前日に親戚へのあいさつ回りを済ませると当日の朝までにイモ掘りと小麦の種まきをすませて東京・上野の集合場所に駆けつける有様だった。一週間後には鈴木・坂倉氏らと同じ船で中国・青島(チンタオ)に送られていた。とたんに、リンチに明け暮れる初年兵の日常が始まる。
「最近の初年兵はたるんどるな」
 小隊長か中隊長または週番下士官が、分隊長か専任兵長(含分隊長各)にわざと聞こえよがしにそんなひとりごとを言った場合は、初年兵たちはその晩たっぷり殴られることを覚悟しなければならなかった。そしてそんなセリフは演習が終ったあとだけでなく、点呼に遅刻する者が出たり馬の世話が少し足りなくても、部隊内に病人が出ても、食事中誰かのハシの上げおろしが気に食わなくても、ポツリと言われるのである。
 将校とか下士官が直接手を下すことはほとんどなかった。殴り役は専任兵長とか年期のはいった上等兵や一等兵の担当する場合が多い。また初年兵同士二列に向かい合わせに並んで、互いに思い切り殴り合う方法も行われた。「対抗ビンタ」というのがそれだ。その場合兵長らは直接手を下さないが、もし誰か殴り方に手加減をしたと見られれば、上官から直接制裁を受けることになる。今からみれば狂気のサディスト大集団であった。
 殴り方はボクシングでいう顔面フックのように拳を固めてやるか、平手打ちが普通だが、平手のほうが殴る側も殴られる側もより痛みが強い。しかし拳打ちか平手打ちでやられているうちはまだ大けがをせずに済むだけ救いがあるほうかも知れない。
 初年兵教育で「教える側」に立つ教官、助教らは、手に標悍(ヒョウカン)を短くしたものを常に持ち歩いていた。標悍とは、射撃の標的やその目安にするために地面に立てるポールで、鉄パイプでできている。鉄かぶと(ヘルメット)をかぶった兵隊を、頭上から標悍で打ちすえると、やがて鉄かぶとの下から鮮血がタラタラと流れ落ちることがある。初年兵がそれを拭うことは「反抗心あり」とみなされた。また殴られることになる。そんなときこの鉄パイプのほうも曲がることがある。殴りどころが悪いと目をはらすこともあり、これは殴った側も「下手クソ」だと笑われることになった。といってもこれはあくまでも「下手だ」といわれるだけであって、決して「けしからん」と非難されるほどのことではなかった。
 前頭部をあまりに強く殴られたために、1943(昭和18)年夏のある日、北海道出身のある兵隊の両眼がとび出してしまうという事件が、この「衣」師団で起きた。さすがにこのときは殴った上官も重営倉入りを命じられたりしているが、この件についてはあらためて別の機会に触れることになろう。
 また「にぎり」とよばれる木銃も若手兵士を殴る道具によく使われた。木銃は銃剣術等の初歩的訓練をするために鉄砲の形に造った木型のこと。さすがにこれで顔面を殴ることは滅多になく、下級兵士を寝台へ腹ばいにさせておいて、その尻を殴る例が多い。
 携帯天幕も、内務班内では最も手近にあるリンチの”小道具”としてよく使われた。皇軍兵士は軍装備をするとき、携帯天幕を背嚢のいちばん上部に縛りつけて運んでいる。野営する場合には、このおよそタタミ二畳敷き(3.3平方メートル)の天幕にカシ(樫)の棒の支柱を立てて使用する。それらを折りたたむと、カシの棒の上部に固く天幕をまきつけて縛った形になる。布がまいてあるとはいっても、シン棒は固い。ヘルメットなしのとき頭を殴られると、裂傷ができて血が額を伝わるほどの威力があった。
 また上靴(スリッパ)とか編上靴(ヘンジョウカ・軍靴)・帯革(タイカク・革バンド)で顔面を殴りつけることもあった。だからリンチの数多く行われる部隊では顔面に靴底のビョウが走った傷跡をもつ兵士が多かったり、革バンドの巻きついた跡が首筋や額に残っている兵士をよく見かけたものだ。
「要するにリンチの道具には何でも使うんですが、銃剣はまず使いませんでしたね」と坂倉氏は言う。「これは日本人同士の場合には危険が大きいという理由もありますが、中国人民に対しては銃剣に血のりをつけるとあとで武器の手入れがいやだからです。さびやすくなって。それでついスキ・クワなどの農機具やコン棒などを使って虐殺したんです」
 皇軍兵士にとって中国人の生命は、自分の銃剣のサビほども重んじられるものではなかったことになる。

 このように何が何でも下級兵を殴ることが普通である「天皇の軍隊」にあっては、殴らないリーダーはその上級者からかえってにらまれ、制裁をうけることにもなる。鈴木丑之助氏の話はその一例だ。──「私自身は初年兵教育の期間中あまり殴らなかったせいですかねえ、同年兵が殴られてるの
を見るのがいやだったし、いざ自分が教える側に回っても殴るのはいやでした。もう殴らんでも物がわかる年齢ですから」
 ・・・
 「教育」が始まって二ヶ月ほどたったある晩のこと、教官である納冨少尉(佐賀県出身)の当番兵が、「教官殿がお呼びですから教官室へ来て下さい」と彼を呼びに来た。何の用件かわからず、もしかしたら明日のカリキュラムについての打ち合わせかなというぐらいに考えながら将校の部屋に行ってみた。青年将校(納冨氏は当時25、6歳)がうす笑いを浮かべていた。鈴木氏は当時22歳ぐらいである。
教官「鈴木、お前は初年兵の殴り方を知らないのか」
助手「はい、知っております」
教官「知っていてなぜ殴らん。本当は知らんだろうが。ひとつおれが見本を見せてやろう」と言うと腰を上げ、直立不動の姿勢の鈴木助手の前に立ちはだかった。六尺豊かの大男で、一段と威圧的に見えた。将校に呼び出された理由がやっと分かった。
教官「さあ、ちゃんと歯を食いしばっておれ。足も踏んばれ」と準備姿勢をとらせた。これは握りこぶしで相手にパンチを食らわせるときの、もっとも普通の合図でもある。…
 ・・・
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                           第十一章 殺人教育
 ・・・
 精神教育は「天皇の軍隊」の重要な部分である。第二中隊の須藤中隊長がまた、とくに精神教育が得意だった。ときには、「お前たちの母親から俺の所に手紙が来た」といってそれを初年兵たちに見せながら、「息子の命は中隊長殿に差し上げます。どうか天皇陛下様に恥ずかしくない子供にしてください」という文面を読み上げる。そしてシンミリと故郷を思い出させるので、これら二十歳になったばかりの青年たちは涙を浮かべて話に聞き入るのだった。またあるときは、自分の手柄話だといって武勇伝を聞かせる。「俺はその反日分子である支那人を誘って酒をくみかわした。そのあとでスキを見つけてそいつをズドンと一発で殺したのだ。これみな天皇陛下のおん為である」という調子だ。そんなとき須藤中隊長は、弾痕のついた野戦刀をなでながら、自分の話に自分で酔っているように見えた。その刀の傷も彼が野戦で中国軍に切り込んでいく途中、中国側の狙撃で受けた傷だという。その男自身私生活はずいぶんでたらめなものだということを2、3年兵は陰口していたが、当時は結構初年兵の尊敬の的であった。
 しかし、基礎訓練といい精神教育といい、その目的は中国をいかに侵略・支配するかに尽きるのだから、中国人民をいかに殺すかは極めて重要な「実地訓練」とならざるをえなかった。つまり初期の教育はいかにスムーズに殺人ができるかを習得する機関だといって言い過ぎではない。殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。「天皇の軍隊」は、成長すると自主的に中国人殺しに参加するようになる。つまり殺人とは、「天皇の軍隊」にとってあまりにも日常的な事柄となっていくので、「殺した側」の兵士たちがその殺人体験をひとつひとつ記憶してはいないことが多い。しかし人生で初めて自分が目撃したり下手人となった殺人は忘れ難いものになる。
 第二中隊の初年兵たちには、初年兵の基礎教育期間の終わりに近い1941(昭和15)年6月、初めてその「お手本」が示された。実験台に供されたのは三人の中国農民だった。いずれも30代の男だ。木綿の綿入れズボンと上着姿で布靴をはいた三人が、大隊本部のはずれにある広場に連れて来られた。三人とも両手を前にして麻縄で縛られていた。大隊本部は全体が鉄条網で囲まれているだけなので、外側からも営庭の中が見えるのだが、西側の一隅だけは高さ2メ-トルくらいの土塀で三方から囲まれているため、一般中国人はのぞきこめないようになっている。
 第二中隊の古年兵たち十人ほどに連れられた中国人と、六十人の新兵とが向かい合う形で営庭に立った。その間の地面にはすでに円形の穴が掘られている。直径2メートル、深さ2.5メートルくらいの穴だ。中国人たちも初年兵たちも、これから間もなくここで起こることを予想してただならぬ空気だった。突然、古年兵たちの陰に隠されていた軍用犬が5、6匹とびだしてくるなり、三人の中国人に飛びかかった。軍用犬はそのように訓練されていたとみえて、人間にとびかかると首筋を狙ってかみついて行った。中国人たちはそれを、いったんはたくましい腕で払いのける。しかし一匹のイヌが相手の背中にかみつき、それをふり払おうとした農民が両手を背中に回そうとした瞬間に、もう一匹のイヌが男の首筋にくらいつくという”分業”をやってのけるのだ。5、6分もそんな虐待が続いただろうか。三人の農民の衣服はほとんどひき裂かれ、身体は至る所に裂傷ができて、肉がムキ出しになった箇所でいっぱいとなった。抵抗をあきらめることなく頑張っていた農民は、皇軍兵がいったん軍用犬を引き離すと、力尽きたようにばったりと倒れた。次に古年兵たちはその倒れた男たちを引き起こして、今度は穴の前へ引っ張って行き、坐らせようとした。一人の男が懸命に力をふりしぼって、古年兵の足にタックルするようにしがみついて大声で何か中国語で叫んだ。
 「自分は炊事係でも何でもして働くからどうか殺さないで使ってほしい、といっています」と、通訳係の兵士が無表情で伝える。足を抱えられた下士官は、その農民をふり払うように、持っていた銃剣を農民の背中に突き立てた。そうされながら、這うようにして穴の近くまで追いたてられていったとき、衛生兵・広金軍曹の日本刀が農民の首の後部から全部にかけて思い切りふりおろされた。切り口から血しぶきが50センチ以上もドッと噴き上げた。
 「イヌをけしかけられて心臓が躍っているからあんなに血が噴き上がるんだ。いきなり切りつけたらあんなに出んのだが」──ひとりの古参兵が恐ろしく冷然と、初年兵たちに聞こえよがしに分析してみせた。広金軍曹がふた太刀目を振り下ろすと、男はドーッと穴の中に落ちこんだ。初年兵たちが息をのんで穴の中をのぞきこんでみると、農民はまっさかさまに穴に落ちたのに、彼の頭部は皮一枚残した形で反転して、穴の上部をすごい様相でにらみつけていた。
「やっぱり官製品の刀はもうひとつ切れ味が悪いわい」と、広金軍曹が、”寄り目”の表情を引きつらせながら笑ってみせた。二人目の男も必死で抵抗を試みたが、穴の中で天をにらんでいる友人をのぞき込んだ瞬間、たちまち首を切られてしまった。初年兵たちは、人間は日本刀で切られると、その部分の筋肉が切断されるため、その部分で皮が反転して裏返しになるものだ、ということを教わった。
 三人目の中国人は、すでに皇軍の”首切り人”たちから逃れられないということを悟っていた。彼は、前の二人のような抵抗をあきらめ、自分で穴を前にして坐り込んだ。そして大声で叫んだ。
「中国共産党万歳!」
 その一瞬ののち男の首は宙に飛んでいた。「やっぱりパーロ(八路軍)だったんだ」と誰かがつぶやいた。
 若者たちは故郷・房総を出発して半年にして「殺人教育」をいま終えた。誰の顔もまっ青だった。しかし彼らは、さもショックは受けなかったように平静さを保つよう努力していた。これまでに彼らが受けた皇軍「教育」からすると、兵士はこのような惨劇を見ても決して動じてはならないはずだ。向かい合って立っている古参兵たちが、自分たちの表情を見守っていることがよくわかった。「なんでえ、思ったほど大したことじゃあねえじゃねえか。そうだっぺ」と誰かがお国なまりでわざとらしくつぶやいているのが聞こえた。しかしそれから二、三日は食事をしていても何か喉につまるような気がしてうまくなかった。
 最後の殺人劇のあと、「やっぱりパーロだったんだな」と言う言葉に誰でも納得した。しかし後になってふり返ってみれば、あの農民たちが八路軍の一員であった証拠なぞどこを捜してもなかったであろう。事実は次のようであることを、若い皇軍兵士たちは徐々に学ぶようになる。つまり殺人の”実験台”にしようと思えば、その中国人を”パーロ”と呼ぶことにすればそれでこと足りるのだ、ということを。したがって三人目の農民は、自分の「立派な最期」の証(アカシ)しとして「中国共産党万歳!」と叫んだこともありえた。あるいは死の寸前に「やはり八路軍のいう通りだった」「八路軍こそ正義だ」と悟った場合もあろう。
 しかし、国民党軍の兵士たちを殺人の”モルモット”に使う際には、まさか”パーロ”呼ばわりするわけにはいかなかった。たとえば逆井氏が単なる目撃者としてではなく、その年の末に下手人となることを命令されたとき、相手は国民党軍の中佐であった。
 

 

 


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