真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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核施設爆発事故 アメリカ 軍用炉SL1

2013年08月19日 | 国際・政治
 下記の小型軍用炉SL1の暴走事故では、敷地面積が広大であったため、周辺地域住民への影響は軽微なものであったという。放出された放射能の汚染による被害の詳細はわからない。そして、事故原因は運転員の自殺であるという。原子炉の欠陥が指摘されていたにもかかわらず、運転員の操作ミスとされたチェルノブイリ原発事故の発表を思い出す。

 話はハンフォードの放射能汚染の問題にもどるが、環境保護の市民団体による機密文書公開の取り組みなどに屈したのか、アメリカのエネルギー省はマンハッタン計画の拠点、ハンフォードの19000ページにもなる機密文書を公開した。この文書を読んだワシントン州政府保健省放射能防御部のアレン・コンクリン(10年間にわたりハンフォードで放射線防御を担当)は「長年働いてきた私は、ハンフォー ドのことはたいていわかっているつもりでした。しかし、放出された放射能の量には肝がつぶれました。文書からがエネルギー省の苦慮も読みとれます。もし、本当のことを知らせれば、労働者は逃げだし、人々はパニックを起こしていたでしょう。混乱を防ぐために、彼らは徹底して事実を隠しつづけてきたのでした。しかし、この秘密主義が、環境を汚染し、人々を傷つけ、また、人々がハンフォードに不信を抱くという、取り返しのつかない負の遺産を生んでしまったのです」「地球核汚染 ヒロシマからの警告」NHK『原爆』プロジェクト(NHK出版)と言っている。

 公開された機密文書からわかったことは、大量の放射能がハンフォードから放出されたこと、特に放射性ヨウ素131は54万キュリーに達するというものであった。スリーマイル島原子力発電所事故で放出されたヨウ素131は、公式には15~24キュリーであったというから2万倍を超える驚くべき数字である。ところが、スリーマイル島原子力発電所周辺地域では、住民は避難し、汚染された牛乳は処分され
たというのに、ハンフォードでは、放射能放出は隠蔽され、周辺住民には何も知らされず、何の対応措置もとれらなかった。

 1990年8月21日夜、ハンフォードに近い町バスコで、被爆による健康障害を心配する住民のための初の公聴会が開かれたという。この公聴会に出席したという吉田文彦氏が、その著書「核解体──人類は恐怖から解放されるか──」(岩波新書)に、下記のように書いている。

 出席した約100人は、ほとんどが1940年代にハンフォード周辺で幼児、青年期を過ごした人たちだった。
 当時、核施設の風下にいたある女性は「私の妹は1946年1月生まれ。大きくなって甲状腺障害になった。幼児の時の被爆がいけなかったのではないでしょうか」と、くちびるをかんだ。
 自分自身、甲状腺異常を患ったという女性は「私の家族には甲状腺障害に悩んだ人が多い。遺伝的なものかと思っていたが、核施設のせいかも……」と、声をつまらせた。
 「40年前の科学者は私たちを犠牲にしても、平気だった。今日ここにいらっしゃる科学者たちは、当時の科学者とどこが違うのですか。 それを聞くまで、何を聞いても信じられません」
 白髪の婦人が、公聴会で説明にたったエネルギー省の科学者に不信感を爆発させた。沸き起こった拍手に押され、壇上の科学者は、返す言葉を失う一幕さえあった。
 

 小型軍用炉SL1暴走事故後、「原子炉建屋から約100メートル離れたところで放射線の強さが1時間あたり200レントゲンもありました」とある。その後、被害者は出ていないのか、と心配である。下記は、「地球核汚染」中島篤之助編(リベルタ出版)から「第3部 もう一つの核汚染」の一部を抜粋したものである。
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                第3部 もう一つの核汚染

 2 自殺の道連れにされた軍用炉=SL1

 特殊な小型軍用炉

 ウィンズケール1号炉の事故からおよそ4年後の1961年1月、アメリカのアイダホ原子炉試験場の軍用炉SL1が暴走事故を起こしました。SL1は、陸軍の基地内の電力と暖房用の熱を供給する原子炉として設計され、58年に同原子炉試験場に建設された原子炉です。

 1958年以来、実用化に向けてアイダホ原子炉試験場ではSL1の各種試験を行なっていました。軍用炉であるため、SL1の運転員は職業軍人でした。暴走事故によって3人の運転員が全員死亡したため、事故の原因や事故にいたる詳しい経過はいまだによくわかっていません。幸いにして同原子炉試験場の敷地面積が非常に広大であったため、周辺地域住民への影響は軽微なもので済みました。まさに不幸中の幸いといえます。

 SL1は、自然循環式の沸騰水型軽水減速冷却炉という原子炉型式で、熱出力3000キロワットで、200キロワットの電力と電力換算400キロワットの暖房用熱源が取り出せるように設計されていました。東京電力(株)や中部電力(株)などの原子力発電所の原子炉型式も沸騰水型軽水減速冷却炉ですが、同じ原子炉型式といっても現在の原子力発電所の発電炉とはまったく異なる設計でした。燃料集合体は91%のウラン235を含む高濃縮ウランとアルミニウムの合金からなる九枚の燃料板で組み立てられていました。事故当時、炉心内にう装荷されていた40本の燃料集合体のウラン235の総量は14.7キログラムでした。


 突如暴走した原子炉

 SL1の運転は。交替制勤務で各直3人の軍人が作業にあたっていました。1960年12月23日に運転を停止し、正月明けの61年1月3日、翌4日の運転再開のための作業をしているとき事故が起きました。

 3日早朝から点検補修作業の最終工程にあたる炉心中性子束分布測定用のフラックス・ワイヤーの取り付け作業が開始されました。この作業は、原子炉頂部の遮蔽ブロックを取りはずし、原子炉容器の上部まで水位を上げ、制御棒は1本を除き、すべて駆動機構を取りはずして手動で引き抜けるようにし、燃料集合体の指定された場所に44本のフラックス・ワイヤーを挿入するものでした。

 ここまでの作業が終わり、午後4時に3人の運転員は次の3人の勤務員に交替しました。それからの作業予定は、原子炉の状態を元のように運転が再開できるように復旧することでした。しかし、午後4時以降の運転日誌には復旧作業が途中までしか記載されておらず、事故原因の手がかりになるような記載はありませんでした。


 異常に気づいたのは1月3日午後9時1分で、原子炉試験場内の消防署など3ヶ所の火災報知器がけたたましく鳴りひびき、SL1原子炉室の火災発生を知らせたからでした。6人の消防士がただちに現場にかけつけましたが、原子炉建屋から約100メートル離れたところで放射線の強さが1時間あたり200レントゲンもありました。このため消防車を後退させました。

 午後9時15分、放射線測定器を持った緊急チームが危険をおかして建屋内に入り、制御室をのぞいたあと、ただちに引き返しました。制御室内には運転員の姿が見えず、原子炉建屋内の床上の放射線の強さは1時間あたり500レントゲンもありました。この場所に1時間いただけで、70~80%の人が1ヶ月以内に死んでしまうほどの強烈な強さでした。


 午後10時50分、5人の救出チームが原子炉室に突入し、運転員の一人の死体を発見しました。また、まだいきていた2人目を救出しましたが、この運転員はまもなく急性放射線障害で死亡しました。強い放射線のため、のちに見つけられた3人目を含め、死体の回収作業の準備に数時間かかり、数百人の人々が作業にあたりました。ここでは、短時間交替のリレー作業が行われたのですが、22人が30~270ミリシーベルトの被爆をしました。

 運び出された死体は汚染水をあび、燃料粒子が付着していたため、2メートル離れたところでさえ1時間あたり100~500レントゲンの強さの放射線を出していました。死んだ運転員の身につけていた宝石や金属などが中性子線をあびて強く放射化されていたため、原子炉が突如臨界超過状態になった暴走事故であると推定されました。

 被爆を小さくした敷地の広さ ・・・略

 事故の原因は恋愛問題?

 SL1の事故は、運転員全員が死亡してしまったため、事故原因がよくわかっていません。残された運転日誌をたどると、通常の手順を行った途中までの記載しかありません。おそらくひとりの運転員が運転日誌に作業記録を記載したあと、この運転員も原子炉室に入り、他の2人の運転員とともに制御棒駆動機構の起動準備にかかったものと想像されます。そしてこの作業中に事故が起きたのです。

 事故ののち、SL1の放射能汚染が低下するのを待って、原子炉の解体作業が行われました。解体作業が進むにつれて、この事故は中性子爆発をともなったきわめて劇烈な爆発であったことが明らかになりました。全重量13トンにもおよぶ原子炉構造材は、原子炉容器ごと、1メートル近くも飛び上がった形跡が認められました。このため原子炉容器に接続されていた蒸気配管、給水配管などすべての配管が引きちぎられており、2個の遮蔽ブロックは原子炉室の天井を突き破って吹き上げられていました。この天井の梁に3人目の運転員の死体が引っかかっていたのでした。


 SL1は、中央の制御棒を1本引き抜くだけで容易に臨界に達することのできる構造で、しかも事故当時の作業は駆動機構をはずして、運転員の手で制御棒を引き抜く作業が予定されていました。軍用炉とはいえ乱暴きわまりない作業だといえます。この作業中に運転員が中央の制御棒をどう取り扱っていたかが問題なのですが、3人目の運転員が死亡したため、残念ながら確定的なことはわかりません。なんらかの理由で、制御棒が人力で急速に引き抜かれ、中性子が急増したため出力が急上昇し、このため炉心の冷却水のなかに蒸気泡が発生し、これが制御棒をさらに押し上げるなかで爆発にいたったという筋書きが考えられます。

 SL1事故から18年後の1979年3月6日、アメリカ政府によって公開された事故当時の原子力委員会の調査報告書には、運転員のひとりが恋愛問題を苦にして自殺をはかり、制御棒を故意に引き抜いた、と記されていました。(79年3月8日付朝日新聞)。調査報告書のとおりであるとしても、いかに軍用炉とはいえ、一本の制御棒を引き抜くことによって簡単に暴走してしまうような原子炉の設計そのものに最大の問題があります。安全性を最優先させる設計思想のない原子力の軍事利用に、事故の根本原因があったことは明らかです。


 
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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