真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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南京事件 パール判決書

2016年03月07日 | 国際・政治

 「パール判事の判決書」と呼ばれている文書の中から、南京事件に関する部分を抜粋したものが下記です。部分的な文章ではわかりにくい面もありますが、南京事件に関するパール判事の判断には考えさせられることが多々あります。一般に流布されている情報に違和感を感じさせる内容もあり、「日中戦争 南京大残虐事件資料集 第1巻 極東軍事裁判関係資料扁」洞富雄(青木書店)から、長文を抜粋しました。私が、特に見逃すことができないと思った文章を赤字にしました。

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                              五 判決(抄) 
                     第十章 判定(昭和23年11月12日朗読)
                                松井石根
 ・・・
 本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七・第二十九・第三十一・第三十二・第三十五・第三十六および第五十四について無罪と判定する。


                            インド代表パール判事の判決書
                         第六部 厳密なる意味における戦争犯罪
 2 「厳密ナル意味ニオケル」戦争犯罪、日本占領下の諸地域の一般人に関する訴因
第五十四及び五十五(抄)
 以上のような目的がこの場合においても働いていたことは、全然無視することはできない。本官はすでに曲説とか誇張とかに関するある程度の疑惑を避けることのできない或る実例について述べた。もしわれわれが南京暴行事件に関する証拠を厳密に取り調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても避けられないのである。
 南京暴行事件に関する二名の主な証人は許伝音とジョン・ギレスピ・マギー(John Gillespie Magee)とである。
 許氏はイリノイ大学の哲学博士である。法廷外でとられた同氏の陳述は、本件において証拠として提出されようとした。これは検察側の文書1734号であった。われわれはこれを却下し、同氏は裁判所において訊問を受けなければならないと決定した。従って同氏はその通り訊問をされたのである。氏は南京に居住し、1937年12月、紅卍会(紅卍字会)に関係していた。
 マギー氏は1912年から1940年まで南京の聖公会の牧師であって、1937年12月及び1938年1月及び2月を通じて南京にいたのである。右の証人はいずれもわれわれに対して、南京において犯された残虐行為の恐ろしい陳述をしたのである。しかしその証拠を曲説とか、誇張とかを感ずることなく読むことは困難である。本官は両証人の申し立てたことを容認することは、あまり賢明ではないことを示すために、いくつかの実例を指摘するに止めよう。
 許博士は次のような話をわれわれにした。氏自身のことばによってそれを述べてみよう。氏はいわく。
 一、『私は自分の眼で、日本兵が浴室で婦人を強姦したのを見ました。着物が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見付けたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました。』
 二、『…われわれはキャンプに行き、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕まえようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下ろしており、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田に対し、「この日本兵が強姦したのです」と言いました。…』
 三、『あるときわれわれは強姦している日本人を捕まえました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました。』
 四、『私は他の事件を知っております。それは船頭で、彼は卍教会(紅卍字会)の一人であって、私にこんなことを言いました。彼はそれを自分の船の上で見、それが自分の船の上で起こったのであります。尊敬すべき家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真中に二人の日本兵がやって来ました。彼等は船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人と娘でしたが、その両親と一人の夫の眼の前で二人は強姦し始めました。
 強姦してから日本兵はその家族の老人に対して「よかったろう」と言いました。そこで彼の息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが、非常に憤慨し、日本兵を殴り始めました。老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむつかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますと彼の年とった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣き始め、夫に次いで河の中に飛び込みました。私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人に対してよかったかどうか聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河の中に飛び込みました。私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにも又聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが長いこと知っておる船頭から聞いたのであります』
 次にマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。
1 『12月18日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング(Eduard Sperling)氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本人がおり、女を求めているように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。その家の三階にはもう一人日本兵がおるということでした。私はそこに行き、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はそのドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングは直ちに私のところにやってきました。十分ほど経った後、一人の日本兵が、中に女を残して出てきました。』
2 『私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三名の日本人を追出しました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました─── それは日本兵で強姦していたところでした。私は彼を部屋から追出しました…』
3 『私は殆ど30年来知っておりました一婦人───われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいって来、彼女は彼の前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣のひらったい方で彼女の頭を殴り、少女を強姦したのであります。』

 これらの証人は言い聞かされたすべての話をそのまま受け入れ、どの事件も強姦事件と見なしていたようである。船頭の話を受け入れることは実際容易にできることであろうか。・・・
 他のいろいろの説は確かに日本兵の中国婦人に対する不当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。或る部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれは強姦した後寝たのであると、われわれに対し言えるということになるのである。また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることに疑いはないと、殆どその気持ちになっていたのである。
 われわれはここにおいて昂奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか。本官はこの点について確かでない。
 もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、出来事を見る機会は多くの場合において最もはかないものであったに違いないということをわれわれは発見するであろう。しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識を得る機会に反比<例>しているのである。おおくの場合には、彼らの信念は、彼らをして軽信させることにあるいは役立った昂奮だけによって導かれ、その信念は彼らをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそれく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである
 これに関連し本件において提出された証拠に対し言いえるすべてのことを念頭に置いて、宣伝と誇張をでき得る限り斟酌しても、なお残虐行為は日本軍のものがその占領した或る地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的でである。

 問題は被告にかかる行為に関し、どの程度まで刑事的責任を負わせるかにある以上のべたように、被告に対する訴追は次の通りである。
(一)彼らは特定の者をしてその行為を犯すことを命令し、授権し、かつ許可し、それらの者はその行為を犯したこと。(訴因第五四) 
(二)彼らは故意にまた不注意に、かような犯罪行為を犯すことを防止する適当な手段をとるべき法律上の義務を無視したこと(訴因第五五)
 想起しなければならないことは、多くの場合において、これら残虐行為を実際に犯したかどで訴追されたものは、その直接上官とともに戦勝国によってすでに『厳重な裁判』を受けたということである。われわれは検察側からこの犯罪人の長い名簿をもらっている。証拠として提出されたこれらの名簿の長さは、主張されている残虐行為の邪悪性と残忍性とはなんら比較し得るものではない。これら非道な行為を犯した見做なされたすべてのものにたいし、戦勝国が誤った寛大な態度を示したと非難し得るものは一人もいないと本官は思う。この処刑によって憤怨のどのようなものも充分に鎮圧せられたものと見做し得られ、かような噴怨から起こる報復の激情と希望は、満足されたものと考えられる。「道徳的再建の行為」または「世界の良心が人類の威厳を新たに主張する方法」としても、かような裁判は、その数において不充分ではなかった。
 ここにおいてわれわれは冷静に、はたして罪がわれわれの裁いている被告に及ぶものか見ることができる。
一 中国における残虐行為に関しては、その期間は、1931年9月18日から1945年9月2日までである。
二 他の戦闘地域に関する残虐行為に関しては、その期間は、1941年12月7日から1945年9月2日までである。
 残虐行為に関する証拠は、1937年12月13日の南京陥落後の同市における残虐行為実際始まっているのであるから、本官は上述の期間の第一は、その期日から始まったものとして、次の期間に再分する。
(a)1937年12月13日から1941年12月6日までの期間
(a)1941年12月7日から1945年9月2日までの期間。
 想起すべきことは、検察側はこれらの残虐行為を訴因第五十四において一般的に主張する以外、訴因第四十五ないし第五十において、中国において犯された<か>ような残虐行為のいくつかの特定の事件について訴追していることである。
 訴因第四十五は南京で起こったことに関するものである。その期間は、『1937年12月12日及びその後引き続き』となっている。
 当時、被告広田は外務大臣、賀屋は大蔵大臣、また木戸は文部大臣であった。他の被告のだれも当時閣員ではなかった。
 関係ある軍隊は、被告松井が司令官であり、被告武藤が参謀副官(参謀副長)であった中支那方面軍であった。被告畑は1938年2月17日、松井大将に代わって軍司令官となった。本官はその軍隊の構成を後ほどさらに詳しく考察してみる。
 以上から見れば、南京事件に関する限り、他のどの被告も関係はない。われわれはこのことをはっきり念頭に置いておかなければならない。
【中略】
 検察側は、南京暴行事件に関する限り、次に挙げる人物がそれに関する知識をもっていたことを立証したと、主張しているのである。
 すなわち
一、当時中支那派遣軍を指揮していた松井被告。(法廷証第二五号及び第二五五号)
二、中国における日本外交官。
三、東京の外務省。
四、外務大臣広田被告。
五、当時朝鮮総督であった南被告。
六、中支派遣の日本無任所公使、伊藤述史。
七、貴族院
八、木戸被告
である。
 松井被告が知っていたという点に関しては、本人の陳述、すなわち1937年12月17日には南京におり、上海帰還まで一週間そこに留まったと述べたことに頼っているのである。そして南京入城と同時に、日本外交官から、当地において軍隊の多くの暴虐事件を犯したことを聞いたというのである。
 当時参謀副官であった武藤被告は、松井大将とともに、入城式のために南京に行ったものであり、当地に10日間、留まったと述べた。
 松井大将は1938年2月まで司令官の位置に留まったが、事態を改善するための有効な手段は、この期間なんらとられなかったと検察側は指摘したのである。
 日本外交官が知っていたという点に関する証拠は、南京陥落当時同地にいたドイツ・英国・アメリカ及びデンマーク人の一団をもって組織した、南京難民地区の国際委員会秘書ルイス=スマイス博士の証言である。スマイス博士は、1937年12月14日から1938年2月10日までこの委員会の秘書であった。彼の証言というのは、同委員会が南京の日本大使館に対して、毎日個人的報告をなしたというのである。スマイス博士は、大使館はなんらかの処置を講ずることをそのたびごとに約束したが、1938年2月に至るまでの事態を改善するための有効的な手段が、とられなかったと述べたのである。
 難民地区国際委員会の創設委員長だった南京大学の歴史学教授ベイツ博士は、最初の三週間ほとんど毎日、前の日のことに関するタイプした報告または書翰を持って大使館に行き、またしばしば館員とその件に関する会談をなしたと証言している。これらの館員というのは、領事であった福井氏、田中氏と称する人物および副領事福田篤泰氏である。福田氏は、現在総理大臣吉田の秘書である。
 ベイツ博士によればこれらの日本人外交官は、悪条件のもとにわずかながら彼らのでき得ることを誠意をもってなそうと努めていたのであるが、彼ら自身軍を頗る怖れ、上海を通じて東京にこれらの通信を伝達する以外には何も出来なかったとの事である。これらの大使館員は、また南京の秩序を回復させるべき強い命令が東京から数回発せられことを証人に確信しているのである。またこの証人は、外国の外交官及びこの代表団に同行した一日本人の友人から、ある高級陸軍将校が多数の下級将校及び下士官を集めて、陸軍の名誉の為に、その振舞を改善しなければいけないということを、頗る厳重に申し渡したことを聞いたのである。
 さらに証人は、1938年2月5日及び6日までは状態が実質的には改善されず、また南京の日本領事館が作成した報告は、領事館によって東京の外務省に送られたことを知っていたことを証言したのである。
「2月6日、7日ごろから状態は明らかによくなりまして、それ以後夏までいろいろ重大な事件がありましたが、それまでのように非常に大仕掛けの堪え難いのはありませんでした。」
 証人はまた「私は東京駐在大使グルー氏から南京米国大使館に送られた電報を幾つか見ました。そしてこの電報で、南京から送られた報告について、グルー氏及び外務省の官吏の間になされた会談について相当詳細にわたって、言及していたのであります。この外務省の官吏の中には、広田氏が含まれています」と述べている。勿論証人には、これらの報告が実際に東京に送られたかどうか、あるいは又、誰にあてられたかは、この方法以外に知るよしもなかったのである。検察側によれば、「是等残虐行為ニ関スル報告ハ全テ、外国新聞ノ非難報道ト共ニ、広田ニ送達セラレタガ、報告ガ続々入リツツアッタ時デサエモ、彼ハ同問題ヲ陸相ニ迫ラズ、又内閣ニ計リマセンデシタ」と。
 証拠によれば、広田はこれを当時の陸軍大臣杉山大将に伝えたのである。陸軍大臣は直ちに処置をとることを約し、かつまた実際に厳重な警告を送った。従って広田はグルーに対して、「最も厳重な訓令が大本営から発せられ、在支のすべての司令官に渡されるはずである。その主意は、これらの掠奪は中止せられるべきこと、及び本間少将が南京に派遣せられ、調査をなし、命令の遵奉を確かめること」を確信したのである(法廷証第三二八号)。
 1月19日にグルー氏が、同氏の抗議に対して処置を広田がとり、かつまた「東京より訓令をもって前線の部隊にこれを遵奉せしめるため峻烈な手段が考慮されつつある」と東京から報告している事が証拠になっている。
 南被告は、その当時朝鮮総督であった。彼は新聞の残虐行為の報道を読んだのである。この事実が検察側の主張をどのように助けるものであるかは、本官としては了解できない。これは単にこれらの残虐行為に関する新聞報道があったことを示すだけである。何人もこれを否定してはいない。

 1937年9月から1938年2月まで、中国派遣の日本無任所公使であった伊藤述史は、南京にあった日本陸軍が当時種々の残虐行為を犯した旨の報告を、当地の外交団及び新聞記者から受けたことを証言した。さらに、彼は、これらの報告の真実性は究明しなかったが、東京の外務省に送った報告の一般的要約は、すべて外務大臣あてであった事を証言した。残虐行為に関する外国新聞報道に関しては、事態がすでに収拾された後の1938年2月16日の貴族院予算委員会において言及されたのである。そこには木戸被告が出席していた。しかしながら、本官としては、何故にこの事実が検察側の国策であるという議論を少しでも支持するものであるか了解しがたい。このような批判及び論評は、むしろ、かような仮説に反するものとなるのである。
 さきに挙げた証拠は、南京残虐行為の報告が東京政府に達した事を明らかに示すものである。この証拠は又、政府がこの問題に関する処置をとって、遂に軍司令官松井大将が畑大将と更迭された事を明らかにしている。残虐行為もまた2月初旬までに終熄した。この証拠をもって、かような残虐行為が日本政府の政策の結果であるという結論に、われわれが追い込まなければならない理由を、本官としては解釈しがたいのである
 検察側はこの南京事件後においてさえも、同様な残虐行為がその後他の数カ所の戦域におきて犯されたこともあって、日本政府が日本陸軍の凶暴な振舞いの継続を防止するのを欲しなかったとの推断を、合法的に下すことが出来ると主張しているのである。検察側は提出証拠が次の諸事実を立証するものであると主張していた。すなわち、
 一、日本政府は南京残虐事件に関する情報を入手したのであり、その後は中国における戦闘の継続期間中、及び太平洋戦争において日本軍隊による戦争犯罪の反復に対して、警戒する理由が生じた。
 二、日本政府は、太平洋戦争勃発前における他の戦争犯罪があこなわれたことの情報を入手した。
 三、日本政府は、太平洋戦争のほとんどあらゆる戦域において、戦争犯罪が行われたことの情報を入手した。
 四、しかるに日本政府は、その継続を真に防止しようと企てなかった。
というのである。
 検察側の主張は、前記事実はかような犯罪が政府の政策の一部として行われた事実、あるいはそれが行われたか否かに関して、政府がまったく無関心であったという事実の非常に有力な証拠であるというのである。
 本官は検察官によって述べられた前記の事実を、法廷記録にある証拠がどの程度立証するかを検討してみよう。
 本官としては、まず第一に南京において行なわれたと主張されている残虐事件を取り上げて見る。検察側証拠によれば、1937年12月13日の南京陥落の際、城内における中国軍隊の抵抗はすべて終熄したのである。日本の兵隊は城内に侵入して、街上の非戦闘員を無差別に射撃した。そして日本の兵隊が同市を完全に掌握してしまうと強姦、殺害、拷問及び却掠の狂宴が始まり、六週間続いたというのである。
 最初の数日間、2万名以上の者が日本人によって処刑された。最初の六週間以内に、南京城及びその周辺において殺害された者の数の見積もりは26万ないし30万人の間を上下し、これらの者はすべて実際には裁判に付されることなく、殺戮されたのである。第三紅卍字会及び崇善堂の記録によって、この二団体の埋葬した死体が15万5千以上であった事実が、これらの見積もりの正確性を示している。この同じ六週間の間に2万人を下らない婦女子が日本の兵隊によって強姦された。
 以上が検察側の南京残虐事件の顛末である。すでに本官が指摘したように、この物語の全部を受け容れることはいささか困難である。そこにはある程度の誇張と多分ある程度の歪曲があったのである。本官はすでにかような若干の例を挙げた。その証言には慎重な検討を要する所のあまりに熱心すぎた証人が、明らかに若干いたのである。
 
 ここに陳福宝と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証拠第二〇八号である。この陳述において、彼は、12月14日、39人の民間人が避難民区域から連行され、小さな池の岸に連れて行かれて機関銃で射殺されるのを目撃したとあえて言っている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝白日の下に行われたのである。16日に彼は、日本軍に捕らわれた幾多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのを再び目撃した。その同じ日の午後、彼は太平路に連れて行かれ、3人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。彼はこの日本兵の名前も挙げることができたのである。
 この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人は彼を各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、彼を傷つけずに赦すほど彼を特別に好んでいたようである。この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から39名の者を連れだしたと言っている。証人は、これが起こった日付は確かに12月14日であるとしている。この一団の人のうち、その日に37名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが12月14日起こったとは言えなかったのである。彼は難民収容所に関する12月14日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとは言っていない。
 いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠に対して悪く言うことのできる事柄をすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつベイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いがない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく二月六日あるいは七日過ぎてからである。
 弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らは単に誇張されていることを愬えているのであり、かつ退却中の中国兵が、相当数残虐を犯したことを暗示したのである。
【中略】
 被告松井大将は、南京陥落をもたらした中支那方面軍の司令官であった。彼は1938年2月東京に帰還し、畑大将が1938年2月17日、同人と交代した。
 1937年8月15日、松井大将は上海派遣軍司令官に任命された。同年11月5日、大本営は当時の上海派遣軍と第十軍とを合併し、中支方面軍を組織し松井大将をその司令官に任命した。
 派遣軍と第十軍の司令部の上にあって、両軍の指揮を統一することが中支方面軍に課された任務であった。その任務は、両司令部の共同作戦の統一であった。軍隊の実際の操作及び指揮は各軍の司令官によって行われた。各司令部には、参謀及び副官のほかに兵器部、軍医部および法務部があった。しかるに、中支方面軍のうちには、かような係官はなかった。(法廷証第二、五七七号・法廷記録第三八、九〇〇頁)
 大本営は12月1日中支方面軍に対し、海軍と協力して南京を攻略せよと命令を出した。12月5日、中支方面軍司令部は南京から140哩離れた蘇州に移った。松井大将は当時病気であったが、彼は、重要問題については参謀と協議の上病床で決裁した。(法廷証第三四一号)
 12月7日、上海派遣軍に対し別の司令官が任命された。従って、その日以後松井大将は中支方面軍司令官であって、それは一司令官の指揮下にある第十軍と、いま一人の司令官の指揮下にある上海派遣軍から組織されていた。
 南京を攻撃せよという大本営の命令を実施する以前に、松井大将は日本軍に対して、以下の命令を示した。すなわち
「南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるが故に、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼の度を増すようにせよ。上海周辺の戦闘は支那軍を屈服せしめるをその目的とするものなり。できる限り一般官民はこれを宣撫愛護せよ。かつ軍は外国一般居留民並びに軍隊を紛争に巻き込ましめざるよう常に留意し、誤解を避くるため外国出先当局と密接な連絡を保持すべし。」
 ここにおいて飯沼派遣軍参謀長等は、松井大将麾下の将兵にたいして、直ちに、前述の命令を伝えた。塚田中支方面軍参謀長は、部下6名の参謀とともに左記要領の命令を準備した。すなわち、
 一、中支方面軍は南京城を攻略せんとす。
 二、上海派遣軍並びに第十軍は南京攻略要領に準拠し南京を攻略すべし。
 右に言及した南京攻略に関する命令の要点は左の通りである。
 一、両軍(上海派遣軍及び第十軍)は、南京城外3、4キロの線に進出したときは停止し、南京城攻略を準備する。
 二、12月9日、飛行機で南京城内の中国軍に降伏勧告文を散布する。
 三、中国軍が降伏した場合には、各師団から選抜された2、3個大隊と憲兵だけを城内に入れ、地図に示した担当区域の警備をする。特に図示された外国権益または文化施設の保護を完うすること。
 四、中国軍が降伏勧告に応じない場合には、12月10日午後から攻撃を開始する。この場合にも城内に入る部隊の行動は前記と同様処置し、特に軍規、風紀を厳粛にし、すみやかに城内の治安を回復する。
 上記の命令を作ると同時に、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」と題する訓令が作成された。その要旨は次の通りである。すなわち、
 一、皇軍ガ外国ノ首都ニ入城スルハ有史以来ノ盛事ニシテ、永ク竹帛ニ垂ルベキ事績タルト世界ノ斉シク注目シタル大事件タルニ鑑ミ、正々堂々将来ノ規範タルベキ心組ヲ以テ各部隊ノ乱入、友軍ノ相撃、不法行為等絶対ニナカラシムベシ。
 二、部隊ノ軍規風紀ヲ特ニ厳重ニシ、中国軍民ヲシテ皇軍ノ威風ニ敬仰セシメ、苟モ名誉ヲ毀損スルガ如キ行為ノ絶無ヲ期ス。
 三、別ニ示ス要図ニ基キ、外国権益、殊ニ外交機関ニハ絶対ニ接近セザルハ勿論、特ニ外交団ノ設定シタル中立地帯ニハ、必要ノ外立入リヲ禁ジ、所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置スベシ。又城外ニ於ケル中山陵其ノ他革命志士ノ墓及ビ明孝陵ニハ立入ルコトヲ禁ズ。
 四、入城部隊ハ師団長ガ特ニ選抜シタルモノニシテ、予メ注意事項、特ニ城内ノ外国権益ノ位置ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ、要スレバ歩哨ヲ配置スベシ。
 五、掠奪行為ヲ為シ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳重ニ処罰スベシ。軍隊ト同時ニ多数ノ憲兵及ビ補助憲兵ヲ入城セシメ、不法行為ヲ防止セシムベシ。
 12月17日、松井大将は南京に入城して、初めてあれほど厳戒したのにかかわらず、軍規風紀違反のあった旨報告によって知った。彼はさきに発した命令の厳重な実施を命じ、城内にある軍隊を城外に出すことを命じた。塚田参謀長及び部下参謀は南京城外の宿営地を調査したところ、関係場所は軍隊の宿営に不適当なことを知った。(法廷証第二、五七七号)
 よって12月19日、第十軍は上海派遣軍のいた蕪湖方面に引返した。第十六師団だけが南京警備のために残され、他の部隊は逐時、揚子江の北岸及び上海方面に撤退するように命令された。(法廷証三、四五四号)
 松井大将が部下の参謀とともに上海に帰還した後、大将は南京において日本軍の不法行為がある旨の噂を再び聞いた。これを聞いて同大将は、部下の一参謀に12月26日または27日、次のような訓令を上海派遣軍参謀長に伝達させた。すなわち、
 「南京デ日本軍ノ不法行為ガアルトノ噂ダガ、入城式ノトキモ注意シタ如ク、日本軍ノ面目ノ為ニ断ジテ左様ナコトガアッテハナラヌ。殊ニ朝香宮ガ司令官デアラレルカラ一層軍規風紀ヲ厳重ニシ、若シ不心得者ガアッタナラ厳重ニ処断シ、又被害者ニ対シテハ賠償又ハ現物返還ノ措置ヲ講ゼラレヨ。」(法廷証第二、五七七号)
 かように措置された松井大将の手段は効力がなかった。しかしいずれにしてもこれらの手段は不誠意であったという示唆はない。この証拠によれば、本官は松井大将としては本件に関連し、法的責任を故意かつ不法に無視したと看做すことはできない。
 検察側は本件に関し、処罰の数が不充分であったとの事実に重点を置いている。本官はすでに述べたように、司令官は軍の軍規風紀の実施のために与えられている機関の有効な活動に当然依存し得るのである。軍には違反者を処罰することを任務とした係官が配置されていたことは事実である。本官はかような違反者を処罰する手続きをとることは、司令官の任務または義務であるとは思わない。司令官の耳には残虐行為の噂もはいり報告もきた。彼は充分にそれは不承認であることを表現した。従ってその後は彼としては当然、両軍の司令官ならびに軍規風紀を維持し処罰を加える任務を帯びている他の高級将校に依存し得るのであった。また松井大将は当時病気であり、これらの出来事があってのち数週間内にその任務を交代させられたことを記憶せねばならない。
 どんな軍の司令官の立場というものも、かような短期間さえもその機関が適当に活動しているか否かをみる余裕を与えられないとするならば、実に耐え難いものであろう。本官の判断では、市民に関して南京で発生したことに対し、同人を刑事上責任あるものとするような不作為が同人にあったことも証拠は示していない。


 

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