真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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パル判決書 NO3

2016年03月28日 | 国際・政治

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人でインド代表のラダ・ビノード・パルは、その意見書(通称『パル判決書』)の「第七部、勧告」の後半で、自分の考え方を要約するような文章を書いています。(「パル」は「パール」とも表現されていますが、引用元の表現にしたがっています)。それをしっかり受け止めることが、戦後に生きるわれわれの責任のような気がします。

 パルの考え方にしたがえば、先の大戦における日本軍の「戦争犯罪」を否定し、日本兵の残虐行為はなかったということで、パルの日本人被告無罪の「勧告」を利用することは、明らかに間違いであると思います。
 たしかに、パルは『判決書』「第六部 厳密なる意味における戦争犯罪」の中で、「戦争を交えている二国間においては、その戦闘員のいずれかが宣伝に訴えることによって、輿論を自己に有利に仕向けようとする危険が必ず存在している。その宣伝においては種々事件 ─ 悲しいかなこれはすべての戦争から分離することはできない ─ は偏見と感情を激昂させ、戦いの真の係争点を曖昧にしてしまう特別の目的のために拡大され、曲解されるのである」。というチャールズ・アディス卿の言葉を引き、「南京暴行事件においても、証拠を厳密に取り調べるならば、同様の疑惑はこの場合においても、避けられないのである」と書いています。そして、検察側証人である、許伝音とジョン・ギレスビー・マギー牧師の証言の問題点を指摘しています。
 しかし同時に、「本件において提出された証拠にたいしていいうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍が占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいして犯したものであるという証拠は、圧倒的である」とも書いていることを見逃すことはできません。

 だから、終戦後、連合国内で残虐行為や捕虜虐待などを指揮し、命令し、あるいは部下がこれらの行為を行っていることを知りながら防止しなかったために罪に問われたB級戦犯や、直接これらの行為を行ったとしてその罪を問われたC級戦犯が、処罰されたことについては、パルは国際法上認められたこととして、問題視していないのだと思います。
 でも、「通例の戦争犯罪」ではなく、「平和にたいする罪」や「人道にたいする罪」をかかげて、政府関係者や統帥部の軍人、軍司令官など(A級戦犯)を、処罰することには国際法上問題があるのみならず、証拠の面でも無理があることをパルは勇気をもって指摘しました。問題は、A級戦犯を裁いた「極東国際軍事裁判(東京裁判)」なのだと思います。

 パルは、その意見書(通称『パル判決書』)のしめくくりの文章の中で、「指導者の罪はたんに、おそらく、妄想にもとづいたかれらの誤解にすぎなかったかもしれない。かような妄想は、自己中心のものにすぎなかったかもしれない。しかし、そのような自己中心の妄想であるにしても、かような妄想はいたるところの人心に深く染み込んだものであるという事実を、看過することはできない。」と書いています。罪がなかったといっているのではありません。ただ、戦勝国の指導者も戦敗国の指導者と同罪の側面があることを、原子爆弾投下の事実などと関連させて指摘しているのだと思います。

 『パル判決書』は「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」という文章で終わっています。
 戦後70年が経過してもなお、「理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとって」はいないと言えるのではないでしょうか。 下記は、『「共同研究 パル判決書』東京裁判研究会(講談社学術文庫)からの抜粋です。
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                      第七部 勧告
 ・・・
 右の憲章の第七章は、「平和ニタイスル脅威、平和ノ破壊オヨビ侵略行為ニ関スル行動」を規定している。この章の規定は、個人に対する措置は少しも考えていない。第七章が規定している強制的行動は、違反者たる集団全体の運用に責任ある者にたいし、個人的に発動されることはない、と断定してもまちがいないであろう。
 法律的外貌をまとってはいるが、本質的には政治的である目的を達成するために、本裁判所は設置されたにすぎない、という感情を正当化しうるような行動は、司法裁判所として、本裁判所のなしえないところである。

 戦勝国は、戦敗国にたいして、憐憫から復讐まで、どんなものでも施しうる。しかし、戦勝国が戦敗国に与えることのできない一つのものは、正義である、ということがいわれてきている。すくなくとも、もし裁判所が法に反する政治に根差すものであるならば、その形や体裁をどうつくろっても、上に述べた懸念は実際上そのとおりになるであろう。「正義とは実は強者の利益にほかならない」というのでないかぎり、そうである。

 万一、本裁判所が、かような政治問題を決定することを求められているのだったとすれば、審理全体は、全然異なった様相をとったであろうし、また本裁判所の取調べの範囲も いままで裁判所が許したものより、はるかに広汎なものとなったであろう。かような場合、裁判を受ける者の過去の行動は、たんに、ある証拠事実を提供するにとどまったであろう。真の究極の「証明スベキ事実」は、世界「公の秩序と安全」にたいする将来の脅威であろう。かような将来の脅威を判断する資料は、本裁判所には絶対ない。検察側も弁護側も、この点に関する証拠提出は、絶対に要求されなかったのである。この問題は、おそらく、今日まで暴露されなかった諸事実の、広汎な調査をたしかに必要とするであろう。ナチスの侵略者らが葬りさられ、日本の共同謀議者らが牢屋につながれているとき、なお、権威ある筋から「世界の状態が、われわれの理想と利益を、今日ほど脅かしていることは、史上かつてない」という声を、われわれは聞いている。「憂鬱なる事態の姿はナチ体制の高圧的な、計画行動の再版である」という声を、世界は聞かされている。たしかにそうであるかもしれない。または、心中の虚偽によって、すなわち意思と叡智の初期の枯渇によって、欺かれているにすぎないのかもしれない。
 
 現在、国際世界がすごしつつあるような艱難辛苦の時代においては、あらゆる弊害の源泉として虚偽の原因を指摘し、それによって、その弊害がすべてこれらの原因に帰すると説得することによって、人心を誤らせることのきわめて容易であることは、実に、だれしも経験しているところである。このようにして人心を支配しようと欲する者にとっては、いまこそ、絶好の時期である。復讐の手段に、害悪の性質からみて、それ以外に解決はない、という外貌を与えて、この復讐の手段を大衆の耳にささやくには、現在ほど適当な時は他にはない。いずれにしても、司法裁判所たるものは、かような妄想に手をかすべきではないのである。
 たんに、執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは、許さるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は「人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか」ということである。
 「われわれはいままで慣れてきた考え方を急速にかえなければならない。かつてその必要のあった場合より、もっとはるかに急速に変えなければならない。われわれは、組織的に、いっさいの戦争の主要原因を縮小し、排除することを始めなければならない」この言葉はまったく正しい。かような原因は、一国産業の潜在的戦争力に存するのではない。問題をこのように見ることは、たんに、われわれの現在の問題を、古い問題のたんなる再現と観ずることにすぎない。われわれは、次のことの理解を忘れてはならない。すなわち「現在の問題は、原則的に、新しい種類の問題である。それはたんに、一国の問題が世界的関連をもつというのではない。それは、世界の問題であり、人道の問題であることは、議論の余地もないのである」。
 われわれは「これらの大問題は、1914年以降われわれを悩ました問題が、もっと複雑になって再現したにすぎない、という考えで、この問題と取り組む」ことをやめなければならない。「原子爆弾の意味するもの」をして、「地上の各人民が平和と正義のなかに生きうる方法を、思慮ある人々に探求させることを怠らせてはならない。がしかし、、敗戦国の指導者らの裁判とその処罰のなかに示された一連の行動は、上の原子爆弾の意味するものをよく認識しているというしるしは、見られないのである」「憎むべき敵の指導者の裁判を注視することによって起こされた、熱狂した感情は、世界連合の根本条件を考慮する余地を、ほとんど残さないものである。……」「一つの些細なこと、すなわち、裁判があまり強調されることによって、平和の真の条件にたいする民衆の理解は増進することなく、むしろかえって混乱させられるであろう」。
 このようにいわれたのも、おそらく正しいであろう。
「この恐怖をもたらした疑惑と恐れ、無知と貪欲を克服」する道を発見するために、平和を望む大衆が、費やそうとする尊い、わずかな思いを、裁判が使いはたしてしまうことは許されるべきではない。「感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、教育的というよりは、むしろ興行的なものであった」。
 おそらく敗戦国の指導者だけが責任があったのではないという可能性を、本裁判所は、全然無視してはならない。指導者の罪はたんに、おそらく、妄想にもとづいたかれらの誤解にすぎなかったかもしれない。かような妄想は、自己中心のものにすぎなかったかもしれない。しかし、そのような自己中心の妄想であるにしても、かような妄想はいたるところの人心に深く染み込んだものであるという事実を、看過することはできない。まさにつぎの言葉のとおりである。
「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう」。

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