関東大震災直後、多数の朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。しかし、中国人の集団虐殺があったことは、あまり知られていない。また、無政府主義者大杉栄と内縁の妻伊藤野枝および甥の橘宗一(6歳)が、東京憲兵隊の甘粕大尉によって殺されたことはよく知られている(事実は、軍の組織的虐殺で、彼が軍の組織防衛のために、犯人となることを引き受けた事件のようである)。しかし、中国人「王希天」が虐殺されたことは、あまり知られていない。
留日学生「王希天」は、当時中国人労働者のための僑日共済会長であり、中国人なら知らない者はなく、また、日本人にも広く知られた人望家であったという。そんな彼が、震災後の中国人労働者たちの様子を確かめに危険を承知で大島町へでかけたまま帰らなかった。王兆澄をはじめ、危険性を指摘していた友人たちが、彼の身を案じて探し回った。「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には「14日以後は、日華学会、救世軍、および丸山伝太郎、佐藤定吉、服部マスらが、外務省や警視庁を訪ねた」とある。多くの日本人も、彼の身を案じたのである。しかし、日本の関係機関は一致して隠蔽方針をとり、真実を明らかにすることはなかった。
「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」(三一書房)の著者「田原 洋」は、王希天を背後から斬ったという垣内中尉(当時)の証言を、事件後五十数年を経た1981年に、直接本人から得ている。しかしながら、当時の官憲は、その事実を隠蔽し「分隊本部に行く途中放還した云々」を繰り返したのである。そして、それは、陸軍のみならず、日本政府決定の隠蔽方針に基づくものであった。
多くの人たちが、王希天が殺されたことを漏れ聞いていたにもかかわらず、である。
「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」の著者仁木ふみ子は、中国の温州を訪ね、同郷の者6人を殺されたという温州沢雅県の88歳になる老人、陳国法(チェンクオファ)から「王希天はね、ころがっている死体をいちいち中国人かどうか調べて歩いたよ、だから自分が殺されてしまったのだと聞いているよ」との証言を得ている。
下記は、隠蔽を決定した戒厳司令部の筋書きと、中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答、および、上からの命令によって、隠蔽を主導した遠藤大尉(当時)と王希天を斬った垣内中尉(当時)の事件後59年を経ての証言である。「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」田原 洋著(三一書房)からの抜粋である。こうした事実を隠蔽したままの歴史教育について考えさせられる。
陸軍創作の王希天虐殺隠蔽の筋書き------------------
第1章 死地へ赴く
4 護送か抹殺か
どうしても「王を斬る」
・・・
まず、殺害から1ヶ月後、10月13日に戒厳司令部から外務大臣に提出された覚書(外務省文書「大島町事件其ノ他支那人殺傷事件」つづり所収──以下、単に「事件つづり」と称す)がある。殺害を隠蔽する方針を決めていた陸軍だったが、中国に帰った労働者、学生たちが「事件」を語り、それが中国紙のニュースとなり、日本の新聞も動き始めたため、ついに「事情説明」をせざるを得なくなったときの文書である。もちろん、事情説明といっても、政府部内での「口裏合わせ」用の資料の類にすぎない。
王希天ノ件左記ノ通
佐々木大尉ハ亀戸税務署ニ中隊本部ヲ置キ鮮人及ビ支那人ヲ習志野ニ汽車輸送ヲナスニ当リ、其ノ受領及ビ運輸ノ業務ニ従事、9月11日午前11時ゴロ、巡査ガ王希天以下10名ノ支那人ヲ護送シ来リタルニヨリ之ヲ受ケ取リタルニ、巡査ノ一名ガ「王希天ハ排日支那人ノ巨頭ナレバ注意セラレタシ」ト、告ゲタルヲ以テ、口頭ニテハ判明セザルガ故ニ、書面ニテ通知セラレタシト求メ置キタルニ、
午後2時過ギニ至ルモ、書面ヲ送付セザルニヨリ、鉛筆書ニテ亀戸警察署ニ「支那人王希天ニ関スル調査ノ件、至急御送付相ナリタシ云々」ナル書面ヲ差出シタルニ、亀戸警察署長ヨリ半紙全罫紙一枚ノ王希天ノ素行ニ関スル事ヲ認(シタタ)メタル書面ヲ、同日午後3時40分送付シ来リタリ。
ヨッテ王希天ハ直ニ習志野ヘ送付スルハ危険ナリト思惟シ、翌朝早ク野戦重砲兵第三旅団司令部ニ同行スルヲ適当ト認(ミト)メ、其ノ事ヲ亀戸警察署ニ告ゲテ王希天ヲ預ケ置キ其ノ旨ヲ上記旅団司令部ニ報告シタリ。
シカシテ翌12日午前3時、亀戸警察署ヨリ王希天受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「習志野ニ行クコトヲ嫌ッテイル様デアリ又教育モアルノデアルカラ十分注意ヲシテ間違イヲセヌ様ニセヨ、自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北方約千米ノ電車線路付近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松川町方面ニ向カイ立去リタリ。
ウソばかりの釈明に含まれた事実
言うまでもなく、内容はウソで固められている。ところがウソとしてもお粗末なものである。第一に9、10日のことが何も書かれていない。第二に、いったん習志野へ護送と決まった人物を、巡査がそそのかしただけで保留したのはスジが通らない。警察に突き返せばいいはずだ。第三に、さんざん催促して入手した”罪状書”をもとに、旅団司令部で厳重取調べの方針を決め(連絡もした)たのに、一転、道中の会話だけで「自分の責任」で逃がすなどあり得ない。一大尉にできることではない。第四に、進行の時間が不自然。第五に、都心(西方)に向かうべき人物が、東方向の小松川に向かうわけがない。
・・・
中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答--------
(責任追及を逃れるために、上記より更に曖昧な内容となっている)
第6章 日中間の大問題に発展
「大島町・王希天」に触れない回答
・・・
以書翰致啓上候、陳者(ノブレバ)今回ノ震災ニ際シ危害ヲ被リタル貴国人ノ件ニ関シ……当該官憲ヲシテ厳密調査ヲ遂ゲシメタル結果、今日マデニ判明セル事実大要左記ノ通リニ有之(コレアリ)候。
一、中華僑日共済会長、吉林学生王希天ハ9月10日東京市外大島町ヲ徘徊中、亀戸警察署ニ於テ万一ノ危険ヲ慮(オモンバカ)リ、一時同署ニ収容保護ヲ加エ、12日早朝、習志野救護所ニ送致スルタメ、同方面警備ノ任ニ当リ居タル軍隊ニ引継タルニ、同軍隊係員ハ、王ガ一見普通労働者ト挙措(キョソ)ヲ異ニスル点アルヲ発見シ、念ノタメ取調ベタルニ、相当ノ教育アル者ニシテマタ日本語ニモ熟達シオリ、習志野ニ送致スルノ必要ナシト認メタル折リ柄、同人モマタソノ寓所タル早稲田ニ帰還シタシト申シ述ベタルヲモッテ、同係員ニ於テ直ニソノ希望ヲ容(イ)レ、コレヲ放還セリ。シカルニソノ後同人ハソノ寓所ニ帰還セザル趣ニ付、帝国官憲ニ於テ目下極力ソノ行衛捜査中ナリ。
……(続きあり)
59年後の関係者の証言-----------------------
序章 59年目の新証言
元陸軍中将の爆弾証言
・・・
1981年春、私は遠藤三郎・元陸軍中将(陸士26期、1893年1月生まれ)を訪ねる機会があった。遠藤は旧陸軍のエリート軍人(敗戦時、閣僚級の航空兵器総局長官)である。米寿に達していたが記憶は確かだった。2人の対話が、関東大震災のことに触れたとき、遠藤は、当時「第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・大尉として、東京・江東地区警備の第一線にいたと語った。
「大杉が殺されましたね」私が会話のつなぎのつもりで、何気なく応じると、遠藤は「大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言いだした。
「オーキテンという支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(インペイ)したんだ」
・・・
その結果(1)オーキテンは王希天(2)労働運動家ではなく、学生兼社会事業家(YMCA幹事)(3)中国人虐殺は、朝鮮人虐殺のカゲに隠れているが、決して少数ではない(4)すでに一部研究者の間で「中国人虐殺・王希天殺害事件」を、先の3大事件(朝鮮人大虐殺、亀戸事件、大杉栄殺害事件)と並べ「大震災下の不当(思想弾圧)虐殺四大事件の一」として位置づける試みが行われている(5)しかし、いぜんとしてナゾが多く、一般の歴史常識とはなっていない──などがわかった。
右の中間報告をたずさえて、遠藤を再訪した。私は(1)王希天に関する遠藤証言は、歴史的にきわめて重要である。(2)角田房子は追加取材せず、遠藤のミスリードのまま文章化している──の2点を、とくに指摘した。頭脳明晰で知られる遠藤の表情が、引きしまっていくのが見てとれた。
「へえ、王希天は社会主義者じゃなかったのか。主義者だから殺していいというわけじゃないが、正直なところ、隠蔽工作にたずさわったことを、今日まで深刻に反省したことはない。(しばらく沈黙して)いや、実は斬殺した犯人も知っておる……おそらく、まだ生きておるだろう……うーん、田原さん、オレはいま心の整理がついた。これは、事実をきちんと書き残すべき(事件)だな。知っていることはすべて話すから、あなたも、もっと調べてほしい」
真犯人をさがし当てた
遠藤は、斬殺犯人の姓しかおぼえていなかったが、陸軍士官学校卒業生である。その男の名は、容易に知れた。垣内八洲夫、陸士31期、1897年5月生まれ。A県A市……に健在。
初夏の太陽が照りつける昼下がり、私はA市郊外の垣内家をさがしあてた。……
・・・
以下、そのやりとりをできるだけ忠実に再現してみる。
──関東大震災のとき江東区の警備部隊に属しておられましたね。
垣内 はい(一瞬、緊張の色が横切(ヨギ)る)。
── 王希天という名の中国人留学生が殺されたことをおぼえておられますか。
垣内 (ドキッとした表情、次いで質問の意図をはかりかねる呆然たる表情、さら
に開き直ったようなうす笑いと、めまぐるしく表情を変えたあと、横をむいて)
……そんなこともありましたね。
── 王希天の名をよくおぼえておられましたね。
垣内 (あわてて)いや、それは、後で新聞を見たから……
── 初対面の方に言いにくいのですが、王希天を殺したのはあなただという証
言があるのですが、当時のことを話していただけませんか。
垣内(鋭い表情でにらむ)……誰ですか、証言なんて、いまごろ。
──少なくとも2人います(遠藤証言の内容と、歴史上の事実を明らかにしてお
きたいとする遠藤の義務感を説明。また、久保野日記=後述=についても説
明)。余計なことですが、私はあなたの刑事責任をいまさら追及しようというつ
もりはありません。事実、できもしません。しかし、王希天の短い一生(ほとん
ど、あなたと同年輩です)を知るにつけ、その無念を晴らしてあげたいという気 持強くなっています。戦前の不幸な日中関係に、この事件は濃いカゲを落と
しているようにも思います。当時の日本人あるいは陸軍は、なぜあんなに朝
鮮人や中国人を虐殺したのか、若い将校だったあなたは、上官の命令でやっ
たのか、自発的にやったのか、そのへんの事実関係を教えてください。
垣内 (横を向いて沈黙しているが、最初のショック状態は去ったらしい。むしろ
私には、彼が長年の心のつかえをおろす機会を得て、安堵感にひたり始めて
いるようにさえ見えた)……あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そ
のまま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです。
──どうして斬りつけたんです? 相手が誰か処刑する理由は何か知っていた
んですか。
垣内 知りません! 佐々木中隊(後述)が、あの日、1人殺(ヤ)ると言っておっ たので、私は見に行っただけです。……いや、そのつもりだった……佐々木 (兵吉)中隊長は、上から命令を受けておったと思います。……後で、王希天
が人望家であったと聞いて……驚きました。可哀そうなことをしたと……。中
川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ。
こうして、私は、”忘れられた”王希天虐殺犯人の自供と反省の弁を聞くことができた。ふりかえってみると、1923年は、大正デモクラシーの息の根が止められた年である。3月1日普通選挙法案否決、6月5日=第1次共産党員(根こそぎ)検挙、9月大震災と引き続く不当弾圧・虐殺諸事件、12月難波大助による摂政宮暗殺未遂事件……こう並べたうえで、9月の虐殺諸事件の中に、大島町事件・王希天事件の2つを加えると、大正12年の全体図が、より明確に浮かびあがってくるようだ。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
留日学生「王希天」は、当時中国人労働者のための僑日共済会長であり、中国人なら知らない者はなく、また、日本人にも広く知られた人望家であったという。そんな彼が、震災後の中国人労働者たちの様子を確かめに危険を承知で大島町へでかけたまま帰らなかった。王兆澄をはじめ、危険性を指摘していた友人たちが、彼の身を案じて探し回った。「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」仁木ふみ子(青木書店)には「14日以後は、日華学会、救世軍、および丸山伝太郎、佐藤定吉、服部マスらが、外務省や警視庁を訪ねた」とある。多くの日本人も、彼の身を案じたのである。しかし、日本の関係機関は一致して隠蔽方針をとり、真実を明らかにすることはなかった。
「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」(三一書房)の著者「田原 洋」は、王希天を背後から斬ったという垣内中尉(当時)の証言を、事件後五十数年を経た1981年に、直接本人から得ている。しかしながら、当時の官憲は、その事実を隠蔽し「分隊本部に行く途中放還した云々」を繰り返したのである。そして、それは、陸軍のみならず、日本政府決定の隠蔽方針に基づくものであった。
多くの人たちが、王希天が殺されたことを漏れ聞いていたにもかかわらず、である。
「震災下の中国人虐殺 中国人労働者と王希天はなぜ殺されたか」の著者仁木ふみ子は、中国の温州を訪ね、同郷の者6人を殺されたという温州沢雅県の88歳になる老人、陳国法(チェンクオファ)から「王希天はね、ころがっている死体をいちいち中国人かどうか調べて歩いたよ、だから自分が殺されてしまったのだと聞いているよ」との証言を得ている。
下記は、隠蔽を決定した戒厳司令部の筋書きと、中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答、および、上からの命令によって、隠蔽を主導した遠藤大尉(当時)と王希天を斬った垣内中尉(当時)の事件後59年を経ての証言である。「関東大震災と王希天事件 もうひとつの虐殺秘史」田原 洋著(三一書房)からの抜粋である。こうした事実を隠蔽したままの歴史教育について考えさせられる。
陸軍創作の王希天虐殺隠蔽の筋書き------------------
第1章 死地へ赴く
4 護送か抹殺か
どうしても「王を斬る」
・・・
まず、殺害から1ヶ月後、10月13日に戒厳司令部から外務大臣に提出された覚書(外務省文書「大島町事件其ノ他支那人殺傷事件」つづり所収──以下、単に「事件つづり」と称す)がある。殺害を隠蔽する方針を決めていた陸軍だったが、中国に帰った労働者、学生たちが「事件」を語り、それが中国紙のニュースとなり、日本の新聞も動き始めたため、ついに「事情説明」をせざるを得なくなったときの文書である。もちろん、事情説明といっても、政府部内での「口裏合わせ」用の資料の類にすぎない。
王希天ノ件左記ノ通
佐々木大尉ハ亀戸税務署ニ中隊本部ヲ置キ鮮人及ビ支那人ヲ習志野ニ汽車輸送ヲナスニ当リ、其ノ受領及ビ運輸ノ業務ニ従事、9月11日午前11時ゴロ、巡査ガ王希天以下10名ノ支那人ヲ護送シ来リタルニヨリ之ヲ受ケ取リタルニ、巡査ノ一名ガ「王希天ハ排日支那人ノ巨頭ナレバ注意セラレタシ」ト、告ゲタルヲ以テ、口頭ニテハ判明セザルガ故ニ、書面ニテ通知セラレタシト求メ置キタルニ、
午後2時過ギニ至ルモ、書面ヲ送付セザルニヨリ、鉛筆書ニテ亀戸警察署ニ「支那人王希天ニ関スル調査ノ件、至急御送付相ナリタシ云々」ナル書面ヲ差出シタルニ、亀戸警察署長ヨリ半紙全罫紙一枚ノ王希天ノ素行ニ関スル事ヲ認(シタタ)メタル書面ヲ、同日午後3時40分送付シ来リタリ。
ヨッテ王希天ハ直ニ習志野ヘ送付スルハ危険ナリト思惟シ、翌朝早ク野戦重砲兵第三旅団司令部ニ同行スルヲ適当ト認(ミト)メ、其ノ事ヲ亀戸警察署ニ告ゲテ王希天ヲ預ケ置キ其ノ旨ヲ上記旅団司令部ニ報告シタリ。
シカシテ翌12日午前3時、亀戸警察署ヨリ王希天受領シ、亀戸町東洋モスリン株式会社ニ在リタル右旅団司令部ニ同行ノ途中、種々取調ベヲナシタルトコロ、王希天ハ相当ノ教育モアリ、元支那ノ名望家ニテ在京ノ支那人中ニ知ラレオリ、何等危険ナキ者ト認メタルニヨリ、旅団司令部ニ連レ行キ厳重ナル手続キヲナスヨリハ、此ノママ放置スルヲ可ナリト考エ、本人ニ対シ「習志野ニ行クコトヲ嫌ッテイル様デアリ又教育モアルノデアルカラ十分注意ヲシテ間違イヲセヌ様ニセヨ、自分ガ責任ヲ負イ逃ガシテヤル」ト告ゲタレバ本人モ非常ニ悦ビタリ。ヨッテ同日午前4時30分ゴロ前記会社西北方約千米ノ電車線路付近ニ於テ同人ヲ放置シタルニ、東方小松川町方面ニ向カイ立去リタリ。
ウソばかりの釈明に含まれた事実
言うまでもなく、内容はウソで固められている。ところがウソとしてもお粗末なものである。第一に9、10日のことが何も書かれていない。第二に、いったん習志野へ護送と決まった人物を、巡査がそそのかしただけで保留したのはスジが通らない。警察に突き返せばいいはずだ。第三に、さんざん催促して入手した”罪状書”をもとに、旅団司令部で厳重取調べの方針を決め(連絡もした)たのに、一転、道中の会話だけで「自分の責任」で逃がすなどあり得ない。一大尉にできることではない。第四に、進行の時間が不自然。第五に、都心(西方)に向かうべき人物が、東方向の小松川に向かうわけがない。
・・・
中国代理公使の照会・抗議文に対する日本政府の正式回答--------
(責任追及を逃れるために、上記より更に曖昧な内容となっている)
第6章 日中間の大問題に発展
「大島町・王希天」に触れない回答
・・・
以書翰致啓上候、陳者(ノブレバ)今回ノ震災ニ際シ危害ヲ被リタル貴国人ノ件ニ関シ……当該官憲ヲシテ厳密調査ヲ遂ゲシメタル結果、今日マデニ判明セル事実大要左記ノ通リニ有之(コレアリ)候。
一、中華僑日共済会長、吉林学生王希天ハ9月10日東京市外大島町ヲ徘徊中、亀戸警察署ニ於テ万一ノ危険ヲ慮(オモンバカ)リ、一時同署ニ収容保護ヲ加エ、12日早朝、習志野救護所ニ送致スルタメ、同方面警備ノ任ニ当リ居タル軍隊ニ引継タルニ、同軍隊係員ハ、王ガ一見普通労働者ト挙措(キョソ)ヲ異ニスル点アルヲ発見シ、念ノタメ取調ベタルニ、相当ノ教育アル者ニシテマタ日本語ニモ熟達シオリ、習志野ニ送致スルノ必要ナシト認メタル折リ柄、同人モマタソノ寓所タル早稲田ニ帰還シタシト申シ述ベタルヲモッテ、同係員ニ於テ直ニソノ希望ヲ容(イ)レ、コレヲ放還セリ。シカルニソノ後同人ハソノ寓所ニ帰還セザル趣ニ付、帝国官憲ニ於テ目下極力ソノ行衛捜査中ナリ。
……(続きあり)
59年後の関係者の証言-----------------------
序章 59年目の新証言
元陸軍中将の爆弾証言
・・・
1981年春、私は遠藤三郎・元陸軍中将(陸士26期、1893年1月生まれ)を訪ねる機会があった。遠藤は旧陸軍のエリート軍人(敗戦時、閣僚級の航空兵器総局長官)である。米寿に達していたが記憶は確かだった。2人の対話が、関東大震災のことに触れたとき、遠藤は、当時「第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・大尉として、東京・江東地区警備の第一線にいたと語った。
「大杉が殺されましたね」私が会話のつなぎのつもりで、何気なく応じると、遠藤は「大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言いだした。
「オーキテンという支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺(ヤ)ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽(インペイ)したんだ」
・・・
その結果(1)オーキテンは王希天(2)労働運動家ではなく、学生兼社会事業家(YMCA幹事)(3)中国人虐殺は、朝鮮人虐殺のカゲに隠れているが、決して少数ではない(4)すでに一部研究者の間で「中国人虐殺・王希天殺害事件」を、先の3大事件(朝鮮人大虐殺、亀戸事件、大杉栄殺害事件)と並べ「大震災下の不当(思想弾圧)虐殺四大事件の一」として位置づける試みが行われている(5)しかし、いぜんとしてナゾが多く、一般の歴史常識とはなっていない──などがわかった。
右の中間報告をたずさえて、遠藤を再訪した。私は(1)王希天に関する遠藤証言は、歴史的にきわめて重要である。(2)角田房子は追加取材せず、遠藤のミスリードのまま文章化している──の2点を、とくに指摘した。頭脳明晰で知られる遠藤の表情が、引きしまっていくのが見てとれた。
「へえ、王希天は社会主義者じゃなかったのか。主義者だから殺していいというわけじゃないが、正直なところ、隠蔽工作にたずさわったことを、今日まで深刻に反省したことはない。(しばらく沈黙して)いや、実は斬殺した犯人も知っておる……おそらく、まだ生きておるだろう……うーん、田原さん、オレはいま心の整理がついた。これは、事実をきちんと書き残すべき(事件)だな。知っていることはすべて話すから、あなたも、もっと調べてほしい」
真犯人をさがし当てた
遠藤は、斬殺犯人の姓しかおぼえていなかったが、陸軍士官学校卒業生である。その男の名は、容易に知れた。垣内八洲夫、陸士31期、1897年5月生まれ。A県A市……に健在。
初夏の太陽が照りつける昼下がり、私はA市郊外の垣内家をさがしあてた。……
・・・
以下、そのやりとりをできるだけ忠実に再現してみる。
──関東大震災のとき江東区の警備部隊に属しておられましたね。
垣内 はい(一瞬、緊張の色が横切(ヨギ)る)。
── 王希天という名の中国人留学生が殺されたことをおぼえておられますか。
垣内 (ドキッとした表情、次いで質問の意図をはかりかねる呆然たる表情、さら
に開き直ったようなうす笑いと、めまぐるしく表情を変えたあと、横をむいて)
……そんなこともありましたね。
── 王希天の名をよくおぼえておられましたね。
垣内 (あわてて)いや、それは、後で新聞を見たから……
── 初対面の方に言いにくいのですが、王希天を殺したのはあなただという証
言があるのですが、当時のことを話していただけませんか。
垣内(鋭い表情でにらむ)……誰ですか、証言なんて、いまごろ。
──少なくとも2人います(遠藤証言の内容と、歴史上の事実を明らかにしてお
きたいとする遠藤の義務感を説明。また、久保野日記=後述=についても説
明)。余計なことですが、私はあなたの刑事責任をいまさら追及しようというつ
もりはありません。事実、できもしません。しかし、王希天の短い一生(ほとん
ど、あなたと同年輩です)を知るにつけ、その無念を晴らしてあげたいという気 持強くなっています。戦前の不幸な日中関係に、この事件は濃いカゲを落と
しているようにも思います。当時の日本人あるいは陸軍は、なぜあんなに朝
鮮人や中国人を虐殺したのか、若い将校だったあなたは、上官の命令でやっ
たのか、自発的にやったのか、そのへんの事実関係を教えてください。
垣内 (横を向いて沈黙しているが、最初のショック状態は去ったらしい。むしろ
私には、彼が長年の心のつかえをおろす機会を得て、安堵感にひたり始めて
いるようにさえ見えた)……あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そ
のまま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです。
──どうして斬りつけたんです? 相手が誰か処刑する理由は何か知っていた
んですか。
垣内 知りません! 佐々木中隊(後述)が、あの日、1人殺(ヤ)ると言っておっ たので、私は見に行っただけです。……いや、そのつもりだった……佐々木 (兵吉)中隊長は、上から命令を受けておったと思います。……後で、王希天
が人望家であったと聞いて……驚きました。可哀そうなことをしたと……。中
川の鉄橋を渡るとき、いつも思い出しましたよ。
こうして、私は、”忘れられた”王希天虐殺犯人の自供と反省の弁を聞くことができた。ふりかえってみると、1923年は、大正デモクラシーの息の根が止められた年である。3月1日普通選挙法案否決、6月5日=第1次共産党員(根こそぎ)検挙、9月大震災と引き続く不当弾圧・虐殺諸事件、12月難波大助による摂政宮暗殺未遂事件……こう並べたうえで、9月の虐殺諸事件の中に、大島町事件・王希天事件の2つを加えると、大正12年の全体図が、より明確に浮かびあがってくるようだ。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。