下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際婦人調査団の報告第二章の一部抜粋である。(第一章の一部抜粋はすでにアップロード済み)「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)から抜粋した。(旧字体は新字体にした)
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の
残虐行為調査報告書
第二章
調査団は、朝鮮人民共和国の臨時首都平壌をおとずれた。
戦前、平壌は40万の人口をもっていた。煉瓦造りや鉄筋コンクリートの、大きな近代建築物がたくさんあった。またたくさんの近代的なアパートがあったが、それらはかつては、近代式な暖房設備や衛生設備を完全にそなえていたことが、その残骸からわかった。
市にはまた非常に多くの工場があった。主な工業は織物、靴、種種の食料品、煙草、酒、ビール、それに肥料の製造であった。
平壌にあった主な建物は、一つのオペラ・ハウス、、九つの劇場、二十の映画館1945年以後に建造され、設備された一つの近代的な総合大学、七十三の小学校、二十の中学校、六つの専門学校、四つの工業大学であった。また二十の夜間成人学校と、戦争勃発当時ほとんど完成されていた。一つの大きな工芸講習所もあった。
市内は、いまはまったくの廃墟である。市内の旧地域の大部分では、たおれた家の壁だけが、灰とガラクタの山の中に、あちこちそそりたっている。……(一部略)いままで述べた建物のほかに、多くの教会や市立病院がみんな破壊された。団員たちは市内でいちばん大きな小学校の廃墟を調査した。外側の壁の一つには「第七十七野砲隊用」とチョークで書いてあった。調査団のえた証拠によれば、市内の80%はアメリカ軍が市内から退却する時に破壊した。(アメリカ軍が戦わないで退却し、市を故意に、計画的に破壊したことは注目すべき大切な事柄である)。破壊は、今日事実上100%にたっしている。それでも爆撃はやはりつづいている。調査団が市内でまる一日すごすうちに、5回の警報が鳴り、その同じ日に約一週間まえに落とされた時限爆弾が三つ、調査団のメンバーと地方組織の代表者が話し合っていた場所のすぐ近くで爆発した。
(一部略)
1月3日と4日に破壊された建物のなかには、市内の病院の大部分が含まれていた これらの病院は平らな屋根をもち、6千メートルないし8千メートルの高度からわかるように、どれにも大きな赤十字のしるしがついていた。これらの病院は、少なくとも1個づつの直撃弾をうけた。調査団のメンバーは、地方病院の残骸を見学し、三つの大きな爆弾穴をしらべたが、そのうちの二つは深さが約4メートル、一つは7メートルもあった。市立中央病院は30メートルの高度まで降下してきた急降下爆撃機に破壊されたといわれている。
市の建物ぜんぶが爆撃だけで破壊されたものでないことは、先に延べた通りである。事実、多くのアメリカ軍が退却するとき、爆薬で破壊したか、放火したのである。こうして破壊された建物のうちには、キム・イルセン(金日成)大学、男子中学校、オペラ・ハウス、市の諸施設、多くの食糧工場とすべての政府施設がある。アメリカ軍がこの市から退却する時、かれらは故意に市電全部に火をつけ、いくつかの橋や水道を爆破したことについても、調査団は報告を受けた。
市を外れたところで、調査団は、河を見はらす岡の上に立つ有名な仏寺イエンムエン・サ(延命寺)の残骸を見た。二千年の間朝鮮人民の崇敬の的であったこの寺も、爆撃でこわされたのである。広々とした田圃の中にある位置から判断して、爆撃機がなにか他の目標をねらっていたと信ずることはできない。目撃者の証言によると、アメリカ軍が1950年12月平壌を退却した時、寺は無事であった。しかし1951年1月3日にアメリカ機が多数の強力爆弾、焼夷弾、それに焼夷薬のつまった容器をこの寺にあびせたのである。
調査団のメンバーはまた、市の有名な博物館をおとずれた。それは破壊をまぬがれたが、2千余年を経ているという有名な二つの仏像もまじえて、その宝物は盗まれていた。有名な考古学者リー・イエセン(李如星)氏は、掠奪された品物の長いリストを、団員たちに見せた。かれはまた、アメリカ軍が博物館に残したものは、北鮮の30の古墳で発見された貴重な壁画の手摺りの模造品だけだったと説明した。
これらの古墳のうち6つは、朝鮮婦人を拷問するためにつかわれ、手榴弾で古墳が爆破されたときに、壁画はこわれた。
調査団がくりかえしきかされたのは、空から市民にむけて機銃掃射をやった例であった。(調査団のメンバー自身も、防備のない田舎のまっ只中で、低空をとぶ飛行機から機銃掃射をうけて、壕に避難せねばならないことがあった。これは、農民が働いているだたっぴろい野良に機銃火をふきかけたわけであるが、前線から数百キロメートル、また市街や軍事目標物からはるかに遠くはなれたところでおこったことである。)……
(一部略)
団員たちはまた、「強力爆弾GB5143」としるされた爆弾ケースを発見した。この爆弾は、モラン・ボン(牡丹峰)にある殿堂を破壊した爆弾の一つであった。平壌の生残りの住民たちは、原始的ではあるがなんとか工夫した壕や、自分自身で工夫をこらして穴を改造した避難所や、または爆撃された建物の残った壁の内側に住んでいる。それぞれの目的にしたがって4つのグループにわかれた団員たちは4時間近くの間、市のさまざまなところを訪れたが、その間誰一人として、四方の壁と屋根のある家を一軒も見なかった。そして、団員たちは、ガラクタの堆積の中に住んでいる多数の生き残りの家族に出あった。たとえば、カン・ボクセン(姜福善)一家は3才と8ヶ月の子供をまじえた5人家族で、平壌民主婦人同盟のこわれた本部の下の壕に住んでいた。この壕はほぼ1メートルと2メートルの広さで、家族たちは唯一の住家であるこの避難所に行くために、3メートルも深い狭い穴を這ってゆかねばならなかった。土の壁が低すぎて大人は真直ぐに立てないのである。(以下略)
以上には、1951年5月21日調査団の全員が署名した。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の
残虐行為調査報告書
第二章
調査団は、朝鮮人民共和国の臨時首都平壌をおとずれた。
戦前、平壌は40万の人口をもっていた。煉瓦造りや鉄筋コンクリートの、大きな近代建築物がたくさんあった。またたくさんの近代的なアパートがあったが、それらはかつては、近代式な暖房設備や衛生設備を完全にそなえていたことが、その残骸からわかった。
市にはまた非常に多くの工場があった。主な工業は織物、靴、種種の食料品、煙草、酒、ビール、それに肥料の製造であった。
平壌にあった主な建物は、一つのオペラ・ハウス、、九つの劇場、二十の映画館1945年以後に建造され、設備された一つの近代的な総合大学、七十三の小学校、二十の中学校、六つの専門学校、四つの工業大学であった。また二十の夜間成人学校と、戦争勃発当時ほとんど完成されていた。一つの大きな工芸講習所もあった。
市内は、いまはまったくの廃墟である。市内の旧地域の大部分では、たおれた家の壁だけが、灰とガラクタの山の中に、あちこちそそりたっている。……(一部略)いままで述べた建物のほかに、多くの教会や市立病院がみんな破壊された。団員たちは市内でいちばん大きな小学校の廃墟を調査した。外側の壁の一つには「第七十七野砲隊用」とチョークで書いてあった。調査団のえた証拠によれば、市内の80%はアメリカ軍が市内から退却する時に破壊した。(アメリカ軍が戦わないで退却し、市を故意に、計画的に破壊したことは注目すべき大切な事柄である)。破壊は、今日事実上100%にたっしている。それでも爆撃はやはりつづいている。調査団が市内でまる一日すごすうちに、5回の警報が鳴り、その同じ日に約一週間まえに落とされた時限爆弾が三つ、調査団のメンバーと地方組織の代表者が話し合っていた場所のすぐ近くで爆発した。
(一部略)
1月3日と4日に破壊された建物のなかには、市内の病院の大部分が含まれていた これらの病院は平らな屋根をもち、6千メートルないし8千メートルの高度からわかるように、どれにも大きな赤十字のしるしがついていた。これらの病院は、少なくとも1個づつの直撃弾をうけた。調査団のメンバーは、地方病院の残骸を見学し、三つの大きな爆弾穴をしらべたが、そのうちの二つは深さが約4メートル、一つは7メートルもあった。市立中央病院は30メートルの高度まで降下してきた急降下爆撃機に破壊されたといわれている。
市の建物ぜんぶが爆撃だけで破壊されたものでないことは、先に延べた通りである。事実、多くのアメリカ軍が退却するとき、爆薬で破壊したか、放火したのである。こうして破壊された建物のうちには、キム・イルセン(金日成)大学、男子中学校、オペラ・ハウス、市の諸施設、多くの食糧工場とすべての政府施設がある。アメリカ軍がこの市から退却する時、かれらは故意に市電全部に火をつけ、いくつかの橋や水道を爆破したことについても、調査団は報告を受けた。
市を外れたところで、調査団は、河を見はらす岡の上に立つ有名な仏寺イエンムエン・サ(延命寺)の残骸を見た。二千年の間朝鮮人民の崇敬の的であったこの寺も、爆撃でこわされたのである。広々とした田圃の中にある位置から判断して、爆撃機がなにか他の目標をねらっていたと信ずることはできない。目撃者の証言によると、アメリカ軍が1950年12月平壌を退却した時、寺は無事であった。しかし1951年1月3日にアメリカ機が多数の強力爆弾、焼夷弾、それに焼夷薬のつまった容器をこの寺にあびせたのである。
調査団のメンバーはまた、市の有名な博物館をおとずれた。それは破壊をまぬがれたが、2千余年を経ているという有名な二つの仏像もまじえて、その宝物は盗まれていた。有名な考古学者リー・イエセン(李如星)氏は、掠奪された品物の長いリストを、団員たちに見せた。かれはまた、アメリカ軍が博物館に残したものは、北鮮の30の古墳で発見された貴重な壁画の手摺りの模造品だけだったと説明した。
これらの古墳のうち6つは、朝鮮婦人を拷問するためにつかわれ、手榴弾で古墳が爆破されたときに、壁画はこわれた。
調査団がくりかえしきかされたのは、空から市民にむけて機銃掃射をやった例であった。(調査団のメンバー自身も、防備のない田舎のまっ只中で、低空をとぶ飛行機から機銃掃射をうけて、壕に避難せねばならないことがあった。これは、農民が働いているだたっぴろい野良に機銃火をふきかけたわけであるが、前線から数百キロメートル、また市街や軍事目標物からはるかに遠くはなれたところでおこったことである。)……
(一部略)
団員たちはまた、「強力爆弾GB5143」としるされた爆弾ケースを発見した。この爆弾は、モラン・ボン(牡丹峰)にある殿堂を破壊した爆弾の一つであった。平壌の生残りの住民たちは、原始的ではあるがなんとか工夫した壕や、自分自身で工夫をこらして穴を改造した避難所や、または爆撃された建物の残った壁の内側に住んでいる。それぞれの目的にしたがって4つのグループにわかれた団員たちは4時間近くの間、市のさまざまなところを訪れたが、その間誰一人として、四方の壁と屋根のある家を一軒も見なかった。そして、団員たちは、ガラクタの堆積の中に住んでいる多数の生き残りの家族に出あった。たとえば、カン・ボクセン(姜福善)一家は3才と8ヶ月の子供をまじえた5人家族で、平壌民主婦人同盟のこわれた本部の下の壕に住んでいた。この壕はほぼ1メートルと2メートルの広さで、家族たちは唯一の住家であるこの避難所に行くために、3メートルも深い狭い穴を這ってゆかねばならなかった。土の壁が低すぎて大人は真直ぐに立てないのである。(以下略)
以上には、1951年5月21日調査団の全員が署名した。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。