真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松代大本営 移転直訴 井田少佐の証言

2008年08月27日 | 国際・政治
 大本営の移転を陸軍次官冨永恭次中将に直訴したのは、陸軍軍務局軍事課の井田正孝少佐である。彼は陸軍省の組織を通すことをしなかった。そして、冨永次官の特命で、極秘裏に大本営の移転地を探し回り、陸軍省建築課の鎌田中佐や憲兵関係の黒崎少佐とともに移転地を松代に決定したのも彼である。(彼は当初候補地として八王子・浅川方面を考えていたが)。その井田正孝少佐の、いかにも血気盛んで無謀ともいえる陸軍将校らしい言動の証言を「松代地下大本営-証言が明かす朝鮮人強制労働の記録」林えいだい(明石書店)よりいくつか抜粋する。
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2・26事件

 2・26事件の時は高等科に在学していた。
あの決起した将校たちとは非常に仲が良く、政治改革の議論をしたことはあるが、その考え方が適当でないということで離反した。
 離反する者のほうが多かった。決起したことを知って、ついにやったかとショックは大きかった。それに反対したぼくたちだけが分かれたんですから、もしぼくも賛同していたら彼らと決起している。
 ぼくたちは東大教授で国史の平泉先生
(平泉澄<ひらいずみ きよし>[1895年ー1984年}、歴史学者、東京帝国大学教授、白山神社宮司)の教えを受けるため、青々塾というものをつくって、東大の学生とか一般の人とか軍人など、志を同じくするものが集まって教育を受けていた。
 平泉先生の門下として、日本精神を学んでいた。それで社会の仕組みなどがわかった、ぼくたちは2・26事件の将校たちと意見が合わなくなって分かれた。
 2・26事件が起こったとき、これはただごとではない、あの連中のやったことは決起ではなく反逆だと思った。天皇に対するはんぎゃくであるから討伐しなければならないという主旨で、ぼくたちは平泉先生を先頭に立て、彼らを説得に行こうと話がまとまって、いよいよ今夜決行、という時に政府の腹が決まったんだ。
 それまでは、反乱軍なのか決起なのかよくわからなかった。陸軍省としても迷っていたので、ぼくたちは反乱に決まっているではないか、政府も迷ってまごまごしているので、説得に行こうとね。その場合、彼らがぼくたちの説得に応じなければ、多数に無勢でやられるに決まっている。それでもやろうと27日夜に決めて、28日に彼らのところに乗り込むつもりだった。
 ぼく自身、信念というか血の気が多かったですからね。もし政府の決定が遅れていたら、平泉先生を先頭に行って切り死にしたかもしれなかった。政府が彼らを反乱軍であると判断を下した。もし説得に行けば、彼らも覚悟はしているのだし、友人といえどもトラブルは起こっていたでしょう。気は立っているし、彼らは武装した軍隊ですからね。
……
(以下略)
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陸軍次官へ直訴(組織改革案)

 ビルマ戦線から陸軍省に帰って見ていると、陸軍と海軍の仲がとても悪くてね。それじゃ戦争の遂行はできないと思った。鋼材とか石油などの物資の取り合いなど、軍需物資の配分について、朝から晩まで喧嘩ばかりしているんだ。最後は両者で折半、それぞれ真剣に考えると、喧嘩になるのは当たり前でね。
 組織が悪いんじゃなくて、陸軍と海軍が喧嘩をするようにできているんだから。天皇陛下が全部見るといっても、参謀本部と軍全部を統轄する人は誰もいない。この組織を変えないと、戦争はできないと思った。 
 陸軍の近くに次官の官舎があり、日曜日の昼頃、ぼくは軍服で冨永さんに会いにいった。
 初対面だったが、いきなり玄関で面会を求めた。名前をいえば、ビルマから新しく転任した井田少佐だとわかる。
 冨永次官は和服で応対した。
 先ず口頭でぼくの意見を述べて改革案を書いた文書を差し出した。
 陸軍と海軍が一緒になって協力しなければ、連合軍相手に戦争は不可能だと進言した。
 これをやれるのは東条首相しかいない。もし東条さんでもできない場合は、首相の職を辞してもらいたいと意見具申した。ぼく自身は見るに見かねての意見具申だから、飛ばされるのは覚悟の上だった。次官に意見具申というのは、当時としては切腹ものだった。
 陸軍内部で今までいろいろ改革意見を出した者はほとんど飛ばされている。
 冨永次官は、しばらくぼくの文書を読んでいた。
 「お前のいうことはその通りだ。実はわしも心配なんだ。今度陸軍省内部の会議があるから、そこで持論を述べてくれないか」
 ぼく自身が考えている改革案を、全員の前で提案しろといった。その会議のメンバーというは、陸軍省、参謀本部、陸軍総監部の課長以上で、月一回の定例会を持っていた。ぼくはもう飛ばされるのを覚悟で冨永次官を訪たのに、逆に励まされて恐縮してしまった。
 将軍や偉い人の前で改革案をやれというから、すっかり喜んじゃってね。
 みんなが集まっているところで、軍事課の一少佐が改革案を示すことは前代未聞のこと、みんなは驚くというよりあっけにとられとった。
 陸軍と海軍が手を合わせて一緒にやれないなら、この戦争はただちに止めてもらいたい。東条首相の責任においてもそれができないなら、職を辞して責任を取ってもらいたいと、冨永次官に話したと同じことを主張した。あの当時、東条首相といえば、総理、陸軍大臣、参謀総長のすべての権限を一手に握って、飛ぶ鳥も落とす勢いだからな。30分間演説をぶった。
 みんな腹の中で思っているが、決して口に出さない。それをぼくがいったから、みんな喜んでしまった。少佐の分際で、考えてみると若気のいたりだった
。……
(以下略)
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クーデター計画

 そこで陸軍としては、御前会議のようすを知って、これでは国体は護持できないと確信を深めた。
何とか兵力を使って、クーデターを決行して、善処しなければならないというので、陸軍大臣にまず意見具申をすることになった。
 13日の夜のこと、荒尾軍事課長と軍事課の竹下中佐、予算班長の稲葉中佐とぼく、内政班の畑中中佐、椎崎中佐が、陸軍大臣にクーデターの実行について、大臣室で詰め寄った。
 その時大臣は即答しなかった。
 「もうしばらく考えさせろ。明日の朝返事をする」
 14日の朝になって、陸軍大臣が参謀総長に相談した。梅津参謀総長だった。彼はそれはいかん、クーデターは絶対によくないと反対した。結局、陸軍大臣は参謀総長の反対にあった、クーデターの決行を取り止めることにした。参謀総長がノーといえば、陸軍の考え方が統一できていないことで、強行するわけにいかないんだ。
 その話はぼくには直接にはないけど、荒尾軍事課長を通じて知らされた。結局、クーデターは一応中止することになった。
……
(以下略)

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一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。


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