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原発の金に負けなかった男・その二

               原発マネーに負けなかった男

                    その二

原発は未来に禍根を残す。原発反対町民会議は任期4年の町長や町議会に建設の議決を委ねず、全町民有権者の投票によって決する住民投票条例の制定を要求した。

先駆的な試みであった「その時の町長は当選して1年後、原発反対の公約に反して賛成に回っていたのです。

その町長は私の家内のいとこでしたが、私はリコール運動の先頭に立ちました。1981年3月の解職投票で賛成6332、反対5844で私たちが勝ちました。

しかし私たちに油断があったのでしょう。その後の出直し選挙では私達の立てた候補者は899票差で解職した町長に負けてしまったのです。

一票5万円だったと言われました。当時の窪川町の民度は高かったのですが、浮動票がかなりあり、金を貰ったらそちらへ投票する人もかなりいたのです。わたしたちは再び危機に陥り、町は一層混乱していきました」

住民投票条例は、出直し選挙の年に成立した。町長が出直し選挙の公約にしていたからである。では町議会の方がどうなっていたかと云うと、24議席の内、賛成20、反対4という状態であった。

そこで島岡さんは、1983年2月1日町議会議員になり「議会改革」に乗り出した。「議員としての収入は女房には申し訳なかったけれど、すべて原発反対運動に使いました。

日本全国の原発をたずねて、住民の意見を聞き、原発の問題点を調査研究しました。その研究成果を議会での質問に使ったのです。町長も大変だったでしょうね」と当時を振り返る。

彼は原発を阻止するために、町議会議員になったのだが、7期28年間、町議会議員を務め、終わりのころの2年間は町議会議長を務めた。

彼の奮闘が有って22議席の内、原発誘致賛成12、反対10まで追い上げたが、やはり、反対派は議会内では劣勢であった。

私は東洋町の高レベル放射性廃棄物の時(2007年4月22日)も「一票5万円が動いた」と聞いた。東洋町の町長選挙の出陣式の日、私は2メートルのブロック塀の上に登って写真を撮っていたが、下を走っている車の中がよく見えた。

鋭い目つきの男の脇には誰も座っていなかったが、5万円ぐらいに小分けされた1万円札の束の山が無造作に積まれていた。

選挙では勝てなかったが島岡さんたちの学習会をベースにした地道な反対運動は、徐々に反対派を増やしていった。

高知県原発反対漁民会議は「海洋調査が強行されるなら5000隻の漁船を動員して、海上封鎖をする」と宣言していた。

そして島岡さんたちの反対運動に応援の有利な風が吹いた。1986年4月、レベル7という当時最悪のチェルノブイリ原発事故が起ったのである・・・・。

1988年1月、反対の世論に包囲された藤戸 進
町長は「窪川原発は今日的課題ではなく、海洋調査を棚上げにする。私は“公約違反の責任を取って”辞任する」と発表した。今の野田総理に聞かせたいセリフだ。  続く

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釈尊のことば128

                釈尊のことば

          128・人の悪口に夢中になる理由

愚かにも自分を背後から操る無意識の命令に気付かず、自分が心の闇に操られているのを知らないままの人々は、自分の心の奥底がどれだけドロドロに汚れているかなんて知りもしない。

そんな嫌な事実を見たくないからこそあなたは、自分の内面から目をそらすことに専念する。

内面から目をそらすために、他人の悪口を言ったり、映画やゲームやドラマの世界に浸ったり、好きな音楽や思想に夢中になり、依存する。

心の自由を求める人は、自らを支配する依存症や嫌悪感の正体を見極め、打ち破るべく、自分の内面を見張り自分の心の奥底へと探検することにこそ専念する。



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