暖かくなってきので久しぶりに名曲喫茶を訪問する。ちょうど定時コンサートの時間で、マラ2が流れていた。1楽章の終わり辺りから。・・ぬ・・・寸詰まりのような息苦しさ、天井が身長ぐらいしかないような部屋に押し込められた圧迫感・・・音色の変化に乏しく、ラーメンでわんこそば食べさせられてるような気分・・・ゼリーの海で泳がされているようないやな甘ったるさ(決してマーラーの音楽のせいではない)・・・これはまさか・・・サイトーキネンwith世界のOZAWAでした。耐えられなくなったので、珈琲を飲み干してすぐに撤退。運悪し。
HMVへ行くとラトル・マラ9が発売されていた。1楽章冒頭の4分間だけ試聴。(ここで全てが決まる!)。予想通りに?作為的。ラッパが長いのばしをした後の大平原が開くようなカタルシス感が好きなのだが、驚くほど何も感じさせなかった。好みの差になるのだろうが、速いとか遅いではなく、速度がどう変化させても、自然に音楽が流れるのが好きだ(自然だと感じさせること)。その微妙さをコントロール(無意識でも)できる人が大家なんだと思う。バックハウス、フルヴェン、古の名演奏家の演奏などを聴くと常に思う。どんな解釈をしてもいいが、盛り上がりに冷水を浴びせるような作為さを感じさせる演奏は耐えられない。
最近のベルリンフィル、もはや自分が大好きだったベルリンフィルではなくなったと痛感する。「気高さ」や「厳しさ」がなくなって、安っぽくなったように思う。先日BSでベルリンフィルの特集番組が放送されていた。フルヴェンからラトルまでの様々な指揮者の映像が流されたが、ラトルの展覧会(昨年末)と小澤の悲愴(今年1月のカラヤン追悼公演)だけが第一印象から「何だこりゃ」という感じだった。否定しがたいイマイチ感。同じ意見を周囲でもきくことが多い。
昨年コンサート巡りをしたのだが、今現在振り返ってみて、いくらお金払ってでもいいから是非もう一度聴きたいと思える演奏会はウィーンフィルだけだった。定期だけを聴きに、ウィーンへ弾丸ツアーするか・・なんていうキチガイじみた発想さえ起こる。ベルリンフィルは、ベルリンを訪れる機会があれば必ず聞きに行くと思うが、ベルリンフィルを聴くためにベルリン旅行を計画することは無いだろう。そのぐらいウィーンフィルとベルリンフィルでは受けた感銘がまったく別物だった。ベルリンフィルは「世界一の楽団」、ウィーンフィルは「比類無き響き」、褒め言葉でも方向性の差が一目瞭然である。
HMVへ行くとラトル・マラ9が発売されていた。1楽章冒頭の4分間だけ試聴。(ここで全てが決まる!)。予想通りに?作為的。ラッパが長いのばしをした後の大平原が開くようなカタルシス感が好きなのだが、驚くほど何も感じさせなかった。好みの差になるのだろうが、速いとか遅いではなく、速度がどう変化させても、自然に音楽が流れるのが好きだ(自然だと感じさせること)。その微妙さをコントロール(無意識でも)できる人が大家なんだと思う。バックハウス、フルヴェン、古の名演奏家の演奏などを聴くと常に思う。どんな解釈をしてもいいが、盛り上がりに冷水を浴びせるような作為さを感じさせる演奏は耐えられない。
最近のベルリンフィル、もはや自分が大好きだったベルリンフィルではなくなったと痛感する。「気高さ」や「厳しさ」がなくなって、安っぽくなったように思う。先日BSでベルリンフィルの特集番組が放送されていた。フルヴェンからラトルまでの様々な指揮者の映像が流されたが、ラトルの展覧会(昨年末)と小澤の悲愴(今年1月のカラヤン追悼公演)だけが第一印象から「何だこりゃ」という感じだった。否定しがたいイマイチ感。同じ意見を周囲でもきくことが多い。
昨年コンサート巡りをしたのだが、今現在振り返ってみて、いくらお金払ってでもいいから是非もう一度聴きたいと思える演奏会はウィーンフィルだけだった。定期だけを聴きに、ウィーンへ弾丸ツアーするか・・なんていうキチガイじみた発想さえ起こる。ベルリンフィルは、ベルリンを訪れる機会があれば必ず聞きに行くと思うが、ベルリンフィルを聴くためにベルリン旅行を計画することは無いだろう。そのぐらいウィーンフィルとベルリンフィルでは受けた感銘がまったく別物だった。ベルリンフィルは「世界一の楽団」、ウィーンフィルは「比類無き響き」、褒め言葉でも方向性の差が一目瞭然である。