この曲の名演奏というものは、たいがい題名を直訳したような、素朴でのどかな雰囲気のものが多い。各楽章には田園風景を想像させる標題がついているが、1楽章と5楽章には人の感情も交えられている。1楽章は「田舎に到着して晴れ晴れとした気分がよみがえる」、5楽章は「牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」である。この晴れ晴れした、そして喜ばしく感謝に満ちた気分というのは、一体だれの中の感情なのか?もちろん作曲者ベートーヴェンの感情である。であるからして、演奏するに際してはベートーヴェンが感動したように演奏しなくてはいけない。その辺りの旅行者や農民の感情を想像してはいけないのだ。それはこの曲の真の姿ではない。
ベートーヴェン的感情の憑依となるとそれはフルヴェンの独壇場である。フルトヴェングラーの田園は、5番や9番ほどには崇められていない。ドラマチック性を全面に押し出し、曲の神秘性、デモーニッシュ性を徹底的に掘り返すフルトヴェングラーに、のどかな「田園」はむかないと頭から思われているのだろう(私もそう思っていた)。しかし、改めて複数の録音を聴き直すと、他の指揮者の演奏では到底味わうことのできないカタルシス感を、肌に粟がたつ経験とともに味わあせてもらった。私が推薦する録音は、1954年5月23日のベルリンフィルとのライブ録音(後半は運命)。私は協会版の録音を持っているが、市販の良盤も沢山あるようだ。嵐が過ぎ去り全てが弛緩しきった状態から始まる第5楽章。一本の絹糸のように始まる第一ヴァイオリンの妙はフルヴェンならでは。ここから寄せては返す波のように変奏がはじまるのだが、その畳みかけ方が天井無しである。一体どこまで連れて行ってくれるのだろうか。そしてクライマックスの225小節。ここで何とフルヴェンはトランペットに強烈なクレシェンドをさせる!譜面にそのような指示はないが、劇的な効果である。現在の指揮者・識者からは、やりすぎだ!との声が起きそうだが、前から言うように要は説得力の問題なのである。音楽は理屈で作るものではないのだ。ライブなのである。この高らかに響くラッパとともに、バスも最低音のコントラCからスラーで歌い上げる。この2小節がこの曲全体の頂点であり、聴き手には雲を突き抜けて黄金色の陽光を全身で浴びたかのような気持ちになる一瞬である。そして、この満足しきった心を抱えて全てを脱力させ、曲は平穏に終結する。フルヴェンによる他の田園に、1952年のウィーンフィルとのスタジオ録音がある。こちらも素晴らしい名演なのだが、演奏者が興奮し過ぎたのか、時々アンサンブルに空回りが見られる。詳細はわからないが、スタジオ録音にありがちな練習不足のせいかもしれない。(特にフルヴェンの場合はやり直しが最小限だったので)。一方上で紹介したベルリンフィル盤は、1週間前にもルガーノでを演奏しているので、奏者に手慣れた感があるのかもしれない。前に紹介した同年のブラ3同様、フルヴェン最晩年の輝ける名演として記憶に残すべきものと思う。
ベートーヴェン的感情の憑依となるとそれはフルヴェンの独壇場である。フルトヴェングラーの田園は、5番や9番ほどには崇められていない。ドラマチック性を全面に押し出し、曲の神秘性、デモーニッシュ性を徹底的に掘り返すフルトヴェングラーに、のどかな「田園」はむかないと頭から思われているのだろう(私もそう思っていた)。しかし、改めて複数の録音を聴き直すと、他の指揮者の演奏では到底味わうことのできないカタルシス感を、肌に粟がたつ経験とともに味わあせてもらった。私が推薦する録音は、1954年5月23日のベルリンフィルとのライブ録音(後半は運命)。私は協会版の録音を持っているが、市販の良盤も沢山あるようだ。嵐が過ぎ去り全てが弛緩しきった状態から始まる第5楽章。一本の絹糸のように始まる第一ヴァイオリンの妙はフルヴェンならでは。ここから寄せては返す波のように変奏がはじまるのだが、その畳みかけ方が天井無しである。一体どこまで連れて行ってくれるのだろうか。そしてクライマックスの225小節。ここで何とフルヴェンはトランペットに強烈なクレシェンドをさせる!譜面にそのような指示はないが、劇的な効果である。現在の指揮者・識者からは、やりすぎだ!との声が起きそうだが、前から言うように要は説得力の問題なのである。音楽は理屈で作るものではないのだ。ライブなのである。この高らかに響くラッパとともに、バスも最低音のコントラCからスラーで歌い上げる。この2小節がこの曲全体の頂点であり、聴き手には雲を突き抜けて黄金色の陽光を全身で浴びたかのような気持ちになる一瞬である。そして、この満足しきった心を抱えて全てを脱力させ、曲は平穏に終結する。フルヴェンによる他の田園に、1952年のウィーンフィルとのスタジオ録音がある。こちらも素晴らしい名演なのだが、演奏者が興奮し過ぎたのか、時々アンサンブルに空回りが見られる。詳細はわからないが、スタジオ録音にありがちな練習不足のせいかもしれない。(特にフルヴェンの場合はやり直しが最小限だったので)。一方上で紹介したベルリンフィル盤は、1週間前にもルガーノでを演奏しているので、奏者に手慣れた感があるのかもしれない。前に紹介した同年のブラ3同様、フルヴェン最晩年の輝ける名演として記憶に残すべきものと思う。