Wilhelm-Wilhelm Mk2

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フルトヴェングラーのピアノソロ

2005-01-04 | クラシック音楽
今年初めての投稿なので、初心に戻ってWilhelm Furtwanglerの記事を。前にも書きましたが、フルトヴェングラーは若い頃からピアノが達者で、特に初見演奏の達人であったそうです。この能力は歌劇場での下積み時代に任された歌手の練習の伴奏などにもかなり役立ったそうですが、実際に多くの指揮者はピアノを巧く弾く能力を持ってます。カラヤンはもともとはピアニストを目指していたし、バーンスタインは実際ピアニストでしたし、ショルティも亡命前のハンガリー時代はピアニストでした。作曲家も作曲の際に大抵はピアノを使う訳で(というより作曲家の殆どはピアニストだ)、一気にスコアの音全てを鳴らしうるピアノという楽器は、作曲家や指揮者にとっては必要不可欠な楽器なわけです。
と、当たり前のことをくどくど書いてしまいましたが、フルトヴェングラーは幸運なことにいくつかのピアノ録音を残してくれてます。一番有名なものはシュヴァルツコップの歌うヴォルフのリートの伴奏をしたものですが、これはあくまで伴奏なので、フルトヴェングラーの音色(温かく優しい!)と伴奏能力を垣間みるには十分だが、解釈を聴くという点ではいささか弱い。今、私が聴いているのはもう一つのピアノ録音です。ザルツブルグで1950年に行われたウィーンフィルとのコンサートのライブ録音で、バッハのブランデンブルグ協奏曲の5番です。この曲の鍵盤パートは大抵はチェンバロで伴奏するのだが、ここはさすがフルトヴェングラー、ピアノを使ってまるで「コンツェルトグランディオーソ?」のような雰囲気で、曲の冒頭から重々しくやってくれてます。よく聞き慣れた曲なので、え?と最初は誰もが思うでしょうが、しかしすぐにフルヴェン特有の魔力に引き込まれて行きます。そう、何度も書きますが、フルヴェンはどんな演奏にも圧倒的な「説得力」があるのです。このスローテンポがすぐにスローと感じなくなり、まるで後期ロマン派の室内交響曲を聴いてるような雰囲気になってきます。1楽章最後のソロ部なぞ、5分近くもとてもバロック作品とは思えない陰影の深い表現を聞かせてくれます。私は瞬間、バックハウスのシューベルトを思い出してしまいました。しかし、フルトヴェングラーは決して譜面を特別にいじってグロテスクな表現をしているわけではないのです。ただ真摯にまっすぐに弾いているだけなのですが、この深遠さと空間の広さは何なのでしょうか?結部ではピアノの能力を出し切った厚い和音とそして指揮している時と全く同じ熱い表現で管弦楽を絶妙のタイミングで呼び込み、感動的なリタルダンドをかけて終了します。
ほんと、この説得力は何なのでしょうか?フルヴェンは著作の中で、指揮者の役割は作品の持つ熱量をきちんと感じて、それを正しく表現することにあると言ってます。これは、ただ作曲家の意図を振り返って読み解くだけでなく、その音楽作品そのものの「力」を感じろということなのではないでしょうか。私見ですが、音楽というものが旋律と和音という複雑な物理現象の融合体であることを考えれば、譜面上にかかれた音符群には、作曲した作曲家さえ気付かなかった相互同士の何か奥深い関係や法則があるはずなのです。フルヴェンの演奏がどれも感動的なのは、その点にあるのだと強く信じています、