Wilhelm-Wilhelm Mk2

B級SFからクラシック音楽まで何でもあり

戒名料という詐欺

2007-10-30 | Weblog
 別に不幸があったわけではないが、前から書きたかったことを書く。

 戒名という制度が日本仏教にはある。仏門に帰依したことの証で、これがないと次の世で仏の加護を得られないらしい。まあ名前つけてくれるなら、勝手につけてくれという感じだが、なんと名前のランクで高額な「戒名料」を要求されるのだ。文字数や使う文字種によって数十万から数百万円レベルである。とんでもない額だ。それも、本人がつけたいのならともかく、「故人が次の世で苦労する」などと科学的根拠が全くない妄想で残された人を脅かし、その弱っている精神状態につけ込み、なるべく高いものをつけさせようとする。悪質な詐欺である。恐喝詐欺で逮捕して牢屋にたたき込んでもいいのではないか?大体、漢字の組み合わせを考えるだけの作業に、なぜ大金を払わねばならないのか?絵を描いてくれたり、彫像でも制作してくれるのなら話はわかる。ただ、「何とか院何とか居士」とかつけるだけだ。そんなもの、俺でもつけてやるよ!坊主によっては「お気持ちだけでいい」などと、一瞬耳障りの良いことを言う奴がいる。しかし、こういわれて「じゃあ100円」とかいう客がいるか?大抵の場合は、世間の相場を払うだろ?こういうのを「せこい」というのだ。気持ちだけでいいのなら、マックのように「スマイル=0円」と明確に言え!
 日々修行で忙しく、町の人の模範になるような清貧の暮らしをしていて、こういった儀式の収入でしか生活を成り立たせられないのなら、まあ払ってもくれよう。しかし、最近の坊主はたいていが「デブ」で「生臭」だ。高そうな袈裟着て、寿司を食べて、高級洋酒を飲み、外車になぞ乗っている。さらには不動産転がしてマンション経営とかやってるクソ坊主もいるのだから、そんなヤクザには一円もくれてやる必要はないのだ。


大体、ややこしい戒名をつけたところで、シャカはインド人なので漢字が読めないのである。

ロダン

2007-10-30 | Weblog
 静岡への所用のついでに、県立美術館のロダン館に行ってきた。36の傑作が、舟型の楕円形フロアに立体的に配置されている。等身大の裸体ブロンズは接近して観察すると圧倒的だ。躍動する筋肉、声を発しているようなリアリティのある顔の表情(カレーの市民等)。やはり人間の鍛えられた肉体というものは美しい。ギリシャ彫刻の時代からそうだが、「肥満」に美くしさはないのだ。少なくとも男性においては。(女性には「豊満」という表現があるので)。引き締まった肉体に美を感じるのは、人間本来の感性なのだろう。
 ダンテの「神曲」から構想を得た「地獄の門」(未完)もあった。扉部には現世で罪を犯した人々の嘆きと懺悔のが嵌め込まれており、阿鼻叫喚地獄のような様相となっており、それを門の上でただ一人黙然として見下ろしている「考える人」。人間世界の罪深さを嘆く創造主(のようなもの)に感じられたが、これはロダン自身だという意見もあるようだ。ロダンの生涯も芸術家らしく山あり谷ありだったようである。実は展示されていた主要作品の幾つかは、上野の国立西洋美術館で観ることが出来るのだが(鋳造して複製できるから)、それらは野外展示なのだ。そのため、表面が痛んでおり(酸性雨のせいかもしれない)、ブロンズ独特の光沢が失われている。天窓から射す自然光で黒光りするロダン館のブロンズは、同じ作品でも全く違うポテンシャルを発揮していた。

東大の博士院生の大半、授業料ゼロに

2007-10-29 | Weblog
遅いよ(心から)。

記事にもあるが、これは欧米では当たり前の事なのだ。留学先の大学(アメリカ)の話だが、基本的に生徒の学費は先生が全て出し、研究資金に余裕がある場合は生活費も出していた。だから、資金力のある研究室には優秀な学生が競争的に集まり、さらに発展していく。逆にお金のない(取れない)教室は衰退・滅亡していく。厳しいようではあるが、少なくとも競争原理的には公平になっていた。ボスがきちんと資金を獲得できるようように、生徒も必死で成果を出す。成果を出すこと=自分の生活が潤うという明確な相関関係があるわけだ。成果を出さないと、使えない奴(お荷物)ということで、放り出されたりもする。やはり人間、ご飯がかかると物事に身が入るってものだ。アメリカの研究室は資本主義社会をきちんと体現しているのである。東大がどういう基準で授業料を給付するのかしらないが、在籍しているだけで学費がゼロになるだけでは、真の意味での頭脳の育成は得られないだろう。それに頭脳獲得競争に勝つためというけど、日本の場合、獲得競争は大学受験であって、その後の育成の仕方に問題があるのだということに大学教官は気付くべきだ。


学生時代の授業料捻出は本当に苦労したので、それを思うとこの制度は早急に導入されるべきだと思う・・・・、しかし、これで奨学金を借りてまで高い授業料を払っていた我々の世代は、またしても負け組ということになってしまったわけだ。

人生は有限である

2007-10-29 | Weblog
昔から思ってはいたが、最近とくによく意識する言葉です。人生は有限なのです。平均寿命まで生きることができない可能性も十分に考えられるのです。同世代の友人も5人くらい死んでいるし。限られた時間をどう有効に使うか?自分に得にもならないことにつきあって悩んだり、感性を刺激しないものに時間や体を使ったりすることは、損なことなのです。「苦しいことでも続ければいつの日にか・・・」とかいう台詞は、労働者を使役するための資産家の方便です。苦しいことは無理してする必要ないのです。苦しくてもやるべきときは、それが自分に得になると明確に見えているときだけ行えばばよい。世の中には、面白いこと、美しいこと、美味しいこと、素晴らしいものが幾らでもある。

築地移転

2007-10-25 | Weblog
 どうせ新しい市場は、鉄骨とポリマーと白熱灯で固められた精神病棟みたいなつくりなんだろ。そんなところで市場の粋な商売ができるかっての。

 なんとしても豊洲に移したいようだけど、どうせすでに土建屋どもとズブズブなんだろう。鮮魚料理だけは世界に誇れる唯一の日本文化と思っているが、どうやらこれもインチキ大学教員と腐官どもによって絶滅に追いやられてしまうようだ。まあどうせ、今の日本人は食事に対する意識も疎くなってきているし、いいのじゃないかね。食事を大事にしない人間は一番軽蔑に値すると思う。(何を食べているか認識してない、何を食べても差がわからない、料理ができない、しようともしない。)

都響の定期を聴く

2007-10-23 | Weblog
 東京文化会館での公演。金聖響指揮によるオールリヒャルトプログラム。曲目は、7つのヴェールの踊り、メタモルフォーゼン、ドンキホーテの3曲。5階席テラスの最安席(1800円)で聴いたのだが、申し込みが早かったお陰で最前列だった。文化会館のテラスは、椅子を一段高めにしており、さらに手すりがないので、障害なく舞台を見渡せる素晴らしい造りなのだ。文化会館は私の一番のお気に入りのホールである。設計したのは前川國夫氏だが、氏の設計したもう一つの素晴らしいホールに、神奈川県立音楽堂がある。学生以来ここで演奏をしたことがなかったのだが、ある縁で近々ステージに乗ることができそうだ。楽しみである。また氏の自宅が江戸東京たてもの園に移築されて残っているので、来月あたりに見学にいこうかと計画している。

 全体を通してまとまりのある良い演奏会だったと思う。弦楽器群が随分と磨かれたなと思った。うーん、でも随分とエキストラが多いようにも見えたのだが・・。金聖響氏の指揮は初めてみたのだが、大きな体でてきぱきと指示を出しテクニシャンさを感じさせた。前プロのサロメダンスでは、その指揮ぶりがリズミックな曲調にあって壮観だった。メタモルフォーゼンは夢の曲の一つだ。エロイカの葬送行進曲をテーマにした弦楽合奏曲なのだが、これは純粋西洋音楽への鎮魂歌だと思う。これほど弦楽器としての響きを求められる曲はないのではないか。23台の楽器がそれぞれ独立して動き、信じられないようなハーモニーを次々に構成していく魔術的作品。惜しかったのは、気合いが入りすぎて、たまに雑音や荒い音が飛んできたこと。この曲だけは完全に純粋な音程だけで作り上げて欲しかった。バスは3本なのだが、やはりバスが入ってくると音楽が暖かくなる。コンロが着火してボウ!と音を発する光景を連想してしまった。演奏終了後、指揮者が黙祷を捧げるように俯いたまま固まってしまい、待ちきれなくなった客がぱらぱらと拍手と始めてしまった。折角そこまで待ったのだから、そのまま待っていればいいものを。確かにあの黙祷はちょっとやりすぎだとは思うのだが。ドンキホーテのチェロは、フィンランドの名手アルト・ノラス氏によるものだった。長身のすらっとした初老の奏者で、雰囲気がドンキホーテぽかった。長谷川陽子の師で、チェロ業界では有名な人らしい。出だしのほうは、大きく音をはずして、荒い音で高音を弾いたりしていたので、あまり上手ではない人?と思ったが、曲が進むにつれて安定感が増し、音色も甘く輝いてきた。最後のドンキホーテの死のシーンは鳥肌が立つほど見事だった。ヴィオラのソロは首席の鈴木氏。先日のシュターツカペレのソロより上手だったように思う。そして意外に大変なのが、ソロヴァイオリン。コンマスの矢部達也が弾いていたが、ヴィオラよりこちらのほうが目立つし、技術的にも格段に難しいのではないか?これに限らず、リヒャルトの交響詩のソロヴァイオリンはどれも大変なのであるが。聴衆は8割ぐらい入っていたか?極端なブラボーはなかったが、さすがこのプロを聴きにくるお客さんだけあって、きちんと聴いていたように思う。
 在京オケでは、N響と都響ぐらいしか聴きにいかないのだが、この2つの楽団は個性が正反対で面白い。官僚的で、恐ろしくつまらない演奏をデフォルトに、たまにとんでもない名演をする前者。倒産寸前に追いつめられた状態から見事に再生し、「のだめ」ブームを武器に上げ潮気味の後者。そういえば、音楽監督のデプリーストってなぜかまだ聴いて無いんだよな(たいして通ってないじゃないか)。来年で退任(後任はインバル)らしいから、一度聴いておくか。そういえば、年末にやるインバルのマラ6は完売らしい、7番はまだ残席があるそうだが・・・どうする?

幻想美術館

2007-10-22 | Weblog
展覧会「澁澤龍彦幻想美術館」を観に、横須賀美術館へ足を伸ばした。片道2時間の小旅行、久しぶりに京急にのったような気がした。観音崎の海岸沿いに出来た新しい美術館なのだが、天気も快晴で、三浦半島から観る東京湾は真っ青で、やはり自然はいいなあとしみじみ想った。澁澤没後20周年を記念しての展覧会で、図録はすでに手に入れていたのだが、実物をみると受ける感銘が違う。澁澤自筆の手紙や愛蔵品、初版の本だけでなく、澁澤龍彦に影響を与えた、与えられた各界の奇才の作品が一挙に展示されていた。三島由紀夫、暗黒舞踏を創始した土方巽、マニエリスム、シュールレアリスムの画家達・・・。はじめは異世界に足を踏み入れたような気になるが、慣れてくると自分の中のなにかが解放されていくような、物事への執着が垢のように落ちていく感があり身が軽くなった。澁澤龍彦についてはもっと書きたいことがあるのだが・・・とにかく惹かれる作家なのだ。興味の対象も、文体も、生き様も、姿形も、なにからなにまで自分のつぼをついてくる。「快楽主義の哲学」を高校時代に読んで以来のファンだが、最近はその熱意がますます上がってきている。自分の中で何かが大きく変わろうとしている・・・というより覆い引っぺがしている、もしくは贅肉を落としている過程なのだと思う。

ハザール

2007-10-18 | Weblog
 友人から頂いたアルハンブラ宮殿でのバレンボイム指揮による演奏会の映像を観た。プログラムに、ボッテジーニ作曲のバスとチェロによるダブルコンチェルト(モーゼ幻想曲)というものがあった。バス奏者は最近ベルリンフィルのトップになったクウェート人の若者なのだが、目もくらむようなハイテクニックと、歌い方の上手さに圧倒された。さすがである。メインはブラームスの1番だった。熱い演奏ではあるが、やはりこれも先日のバレンボイムと同じで、なぜか安っぽい。まあ、今日はバレンボイムの話をするために書いているのではない。書きたいのは、伴奏のオーケストラのほうだ。妙なことに、このオケは白人とアラブ人との半々の混成なのである。一体どういうオケなのか調べてみると、「ウェスト=イースタン・ディヴァン・オケ」という名前で、バレンボイムによって作られたアラブ各国とイスラエルの優秀な若手奏者による楽団ということだ。バレンボイムは、イスラエルでワーグナーを演奏したり、サイードと親交を深めたりと、イスラエル政府に意義を唱えているのは知っていたが、これもその一環だろうか。私個人としては、音楽を政治的な意図のために用いるのは反対なのだが、それで誰かが幸せになるのならそれも良いことだと思う。しかしアラブ側で西洋楽器を演奏している家庭なんてのは、貴族とか財閥系の子息たちばかりなのではなかろうか、あまり普通ののアラブ人の人には縁遠いことなのでは・・・とかあまりよろしくない妄想で勘ぐってしまった。

ここで少々微妙な話題をする。歴史を勉強していた時から疑問だったのだが、ユダヤ人って何で白人なんだろうか?。歴史的には、ユダヤ人はイスラエルの地を追われ、2000年近く流浪していた民ということになっている。だからこそ「シオニズム運動」でイスラエルへ帰還したということになっている。しかし、あの辺りの現地の人々は肌も浅黒く、決して白人ではない。リンクに貼ってあるが、あるサイトでその裏事情を知った時、驚愕した。なんとカスピ海北部に6世紀に出来たハザール帝国なる国があり、その国は国王自らの命令で国ごとユダヤ教に改宗したのだそうだ。そして、その帝国が崩壊後、ハザール人達はロシアー東欧へと流れ定住し、「東欧系ユダヤ人」として現在に至っていると言う。研究によると、世界の90%のユダヤ人はこの「タタール系」ハザール人を起源としているらしい。つまり、彼らにとってイスラエルの地は、遠い祖先の故郷でも何でもないということにある。ただ、ユダヤ人の定義がユダヤ教を信じるものであるということになると、ユダヤ教の聖地が故郷ということになるので理屈は通る。しかし、だからといって、すでに定住しているアラブの人々を追い出して建国する大義名分に値するのか私には疑問に感じる。勿論、同じように疑問に感じているユダヤ人の人々も多く、多くの研究書物はユダヤ人自らによるものだ。シオニズム運動の中でも、イスラエルの地のこだわらず人のいない広大な土地に移り住もうという案もあったそうだ。また、この教義さえ同じならみなユダヤ人というのも建前であり、イスラエル国内では白人優位主義が蔓延しており、黒人のユダヤ人やアジア系のユダヤ人は差別を受けているという。難しい問題だ。(続く)

諸悪の根源はTBS

2007-10-17 | Weblog
 昨年末にパチンコ屋「京楽」が長男のスポンサーを降りた時、あれっと感じがした。6月に「牛若丸」あきべえが亀田道場を「卒業」し、協栄ジムサイドに戻ってロシア遠征したあたりから、亀田追放のシナリオは発動していたのだろうか。今回の試合はそれをひっくり返す最後のチャンスで、本当の意味での背水の陣だったのだと思う。だから、見境無く反則をして勝ちにこだわっていたのだ。狙いは、瞼の古傷を開いての流血TKOだったと言われている。18歳にして家運を背負うことは、想像を絶する重圧だったと思う。「切腹」などと、荒唐無稽な台詞をはき続けたのも、己を奮い立たたさんとするためだったのだろうか・・・哀れすぎる。反則を意図的に続けたということは、自分のボクシングレベルはきちんと認識していたということである。勘違いのほうが、まだ救いようがあったのにな。世界ランキング入りするために駆使した正体不明のタイ人ボクサーたちも、噂どおり「仕込み」だったのだろう。今回の件で、協会もジムもスポンサーも興行権を握るそっち系の人も、一斉に手をひくようだから、復活の道のりは遠そうだ。復活といっても、ロンダリングで手に入れたランキングだ。実際、本人も自分がどの程度の実力なのかわからないのだろう。仕切り直しのラインを探すだけでも大変そうだ。正直、次男は今回で終わりだろう。短い春でした。ボクシング版「タトゥー」という感じか。ちなみに兄弟の中で最強と言われていた3男は、メキシコのアマ試合で5割程度の勝率しか出せず、現在雲隠れ中(恐らくこのままフェイドアウト?)。

といっても、諸悪の根源はTBSにある。「作られたヒーロー」はよくある話だが、もう少し材料を選ぶべきだった。視聴率至上主義と言われても、視聴率はスポンサーを呼び込むための数字である。企業イメージが社運を握るこの世の中で、このような杜撰なプロデュースしかできないようでは、スポンサーも逃げていくだろう。ただでさえ、TBSは不祥事の多い局なのだから。現在は昔と違い、情報を残す手段が沢山ある。人の噂も何日とかいう諺はもう通用しない。

3年

2007-10-15 | Weblog
この落書きブログを初めて、3年がたった。時の流れは速いものだ。初めの方を読み直してみたが、昨日書いたものとまるで差が無いではないか。何も成長していない自分に驚く。まあ仕方がない。もうのびしろは尽きた。

最近強く心に思うようになってきたことは、何事も「自分で確かめろ」ということ。評判を鵜呑みにすることなく、自分の感性で確かめて、気に入ればよし、気に入らなければさようなら。巷は批評に溢れかえっている。氾濫を通り越して、それが常態になってしまっている。流行も作為的に作られている。実力のないものが、マネージメントという武器でふんぞり返っている。権威という権威には疑いの目をもってかからねばならない。と、つくづく思う。

GUNDUM

2007-10-13 | Weblog
ガンダム大好きですよ。といっても、最近の贋ガンダムは全く観てません。外伝みたいなものは借りて観たけど、全然面白くなかったですね。最近の作品に関しては、宣伝を観たけど、「なにこのゴテゴテしたロボット?」っていう感想でしたね。ここでウルトラマン、ウルトラセブン(だけ)の怪獣をデザインした成田亨氏の言葉を紹介しておきます。

「新しいデザインは必ず単純な形をしている。人間は考えることができなくなると、ものを複雑にして堕落してゆく」


 DVDはまだ揃えてないけど、ガンダムとZガンダムは、テレビ版の全話をビデオで取りそろえています。映画バージョンは認めてません。子供の頃、ガンダムは再放送で観ていたけど、Zは全話を生で完璧に観ました。ゼータは人格形成に貢献しましたね・・・今でも、週に一回以上は、両方のビデオを適当にセットして流し観しています。今は、ガンダムのテキサス攻防戦を観てます。(付き添いのワインは先日のスーパータスカンです。)ゲルググは趣がありますねえ。高性能といいながら、全くそれを画面上で証明しなかった。そのあたりが、世の現実を子供に教えていただけました。子供の頃、ゲルググのプラモ作ってるとき、カッターで手をスバッと切って、大流血しました。これも思い出深い、傷がしっかり残ってるし。
 ガンダムに限らないけど、この時代のアニメって、作品に手作り感ありでいいですね。脚本、演出も恐らく舞台を意識したものでしょう。キャラもできるだけ写実的に描かれています(今のキャラは、腐女子とキモオタの妄想)。声優も優秀ですね。ガンダムでは、セイラ、ブライト、マクベの声優は故人になってしまいました。どんどん、よい職人の方々が去っていってしまいます。寒い世の中です。

ギャンはいいMSだと思います。

備忘録

2007-10-12 | Weblog
数日以内に観たもの聴いたもの読んだもの

カリガリ博士
ヴュータン:ヴァイオリン協奏曲(ハイフェッツ)
村上春樹:世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド

サーチライト。

2007-10-10 | Weblog
 オノヨーコの作った光の塔「イマジン・ピース・タワー」。名前のセンスの悪さに脱帽。電気の無駄遣いですね、環境破壊ですよ。モニュメントに凝るのは専制君主と同じです。ジョンレノンの命日に点灯するとか。故人を敬って担ぎまわるのは北の某国みたいですね。そういえば、ナチスのニュルンベルグ党大会会場は、シュペーアが設計した光の大聖堂でした。サーチライトの垂直点灯は、こちらが元ネタで本家。

ワイエス

2007-10-09 | Weblog
 だらだら過ごした連休だったが、練習だけは毎日3時間ほどした。差し迫ってさらう曲がないので(いや、あるのだけど)、基礎練習帳を中心にソロ曲なんかもやってみた。2日目頃にワインが突然飲みたくなったのだが、ストックがなかったので、近くの激安ワイン店で、店長絶賛のチリピノを買ってきて飲んでみる。1200円。デイリーワインとしては良いほうだとは思うのだが、なんだかラムネのような薫りがしてグラスが進まず半分以上残した。
 翌日、友人の2次会の前に、青山ユニマット美術館へ行ってみた。シャガールのコレクションを主体に、ピカソ、ユトリロ、藤田等の作品を常設展示してある。全体を通して、一番印象に残ったのは藤田嗣治の「バラ」。乳白色のバックに、同じ乳白色の花瓶に挿されたバラという構図なのだが、この乳白色が実に質感があって暖かく、展示会場に入った瞬間に目が惹きつけられた。解説を読むと、やはりこの乳白色が発表当時から話題だったらしく、藤田氏独特の秘技であったようだ。Wikipediaによると、炭酸カルシウムを油中で使うのが秘訣らしい。藤田氏に関しては、数年前のテレビ放送で初めて知ったのだが、若い頃にフランスに渡り成功をおさめたものの、第二次世界大戦中に帰国して描いた戦争画が戦後に批判を受け、フランスへ再び渡航。フランスに帰化し、それから日本へは一度も帰らなかったそうだ。詳しいことはわからないが、フルトヴェングラーが戦後にナチスへの荷担疑惑として裁判を受けた時の話を思い出した。企画展として、アメリカ画家のアンドリュー・ワイエス(現役)の作品を展示していた。アメリカ東部の荒野と人家をとらえた作品は、絵から風が吹いてきそうなくらいにリアリティーがあった。ワイエス氏の得意な描法にテンペラがある。油絵の具に卵を混ぜる方法なのだが、卵中のレシチンによる乳化作用で油と水が分離せず、長時間の保存に耐えるという。忘れ去られていた方法だが、ワイエス氏が復活させたということ。単純な天然物を用いた古の技法に惹かれた、ちょっと調べてみよう。残念ながら、画集は売り切れていた。
 宴開始まで少々時間があったので、ワイン専門店のカウンターでスーパータスカンを味わう。前日との違いにあまりに感動したので、ボトルで買って帰ろうかと思ったが(3000円程度)、新入荷のジゴンダスが目に付いたのでそちらを購入してしまった。パーティーは意外にもいつものメンツばかりだった。久しぶりに再会した同期は2人くらい。さすがに地方で働いたり家族を持ったりでなかなか集まれないのか。なかなかまとまりがある宴でよかった。普通に飲んで、珈琲飲んで解散。

ワルターのマーラー9番

2007-10-07 | Weblog
歴史的録音を探すなら、ナクソス・ヒストリカルに限る。1200円という廉価で、素晴らしいクオリティの演奏が丁寧な解説書とともに聴ける。

最近購入したもの
マーラー9番:ワルター・ウィーンフィル1938年ライブ。1912年に初演したコンビによる世界初のマラ9録音。戦前のワルターの浪漫的な解釈が見事に結実した演奏。この後すぐにナチスがオーストリアに進駐し、ワルターを含めユダヤ系の音楽家は国外追放となる。壮大な1楽章、デフォルメのきいた幾分グロテスクな2楽章、疾風怒濤の3楽章、死でなく生を感じさせる4楽章。バーンスタイン・ベルリンの演奏が定番的名演として有名だが(私も大好き)、それと同じくらい乾坤一擲な凝縮されたマーラーが聴ける。音質もかなり良い。フルヴェンの演奏もそうなのだが、この時代の演奏というものは、なにか音に対する接し方、没入の度合いが現在の演奏とは全く違う異質なものを感じる。一期一会の感覚というべきか。
今ではアマチュアでも簡単に録音再生できる世の中。チューナーがあれば音程も簡単にとれる。しかし、昔はそんな器用な道具はなかった。耳だけを頼りに演奏していた。機械の発展に伴って、人間は音楽の土台である耳の能力と感性を確実に失ってきていると思う。