Wilhelm-Wilhelm Mk2

B級SFからクラシック音楽まで何でもあり

イージーライダー

2014-02-27 | Weblog
・STAP問題はNature誌による日本の再生医療研究潰しが目的か?。次々に発覚する図の加工や文面のコピペ。猛者ぞろい(のはず)のNatureレビュアー陣は査読中に気付かなかったのか?陰謀好きの私はこう推論する。論文がインチキであることはとうにお見通しなのだが、あえて曝すことで日本の研究の信用を失墜させようとしたのではなかろうか?と。もしかすると標的は日本ではなくハーバードなのかもしれない。Prof. Vacantiはその昔、耳型に整形した牛軟骨細胞をマウスの背中にくっつけるという,、センセーショナルだがイミフの実験をして一躍有名になった(バカンティマウス)。兄弟4人全員が科学者で兄弟による共著が多い。STAP論文にも兄弟が登場してくる。Vacantiという苗字も食わせものっぽい(Vacant=空っぽ)。
・羽生:将棋の羽生は「ハブ」スケートの羽生は「ハニュウ」。日本語って面白い。
・アンネの日記:どんな意図かは知らないが、ただの器物損壊でしかない。犯人は騒いでいる連中に近いと推察する。
・お雛様:実はお内裏様は天皇または親王なのだ。左翼の家では飾ることできないなあ。
・イージーライダー:アメリカンニューシネマの代表作。1969年の作品。存在を知ってから25年目にして初めて鑑賞した(レンタル)。「マッチョライダーの爆走日記」みたいなものを想像していたのだが、文学的かつ虚無的で大変驚いた。社会に溶け込めずバイクによる目的のない旅をする主人公たち。悪事を働くわけでもないのに、場末のモーテルにも断られレストランからも汚い言葉を吐きかけられて追い出される。ヒッピーにもなれず麻薬を吸いながら野宿してはバイクで移動する生活。最後は対向車からいきなり狙撃されて死亡・・。同じアメリカンニューシネマでも、強盗と殺人による逃避行の末、警察に包囲されて射殺される「俺たちに明日はない」とは正反対の設定である。社会的束縛を離れて自由を求めて旅するがどこにも自由なんてなかったという話。寡黙で哲学者然とした細身長身のピーターフォンダが大変渋く、主人公たちが走るアメリカの広大な自然が素晴らしい。相棒のデニス・ホッパーはホームズにおけるワトソンのような役。本作の監督でもある。ジャック・ニコルソンは途中出場にして途中退場(野宿中に住民に撲殺される)なのだが、その存在感は圧倒的だ(アカデミー助演賞)。

炎武連夢

2014-02-21 | Weblog
オリンピックは国別対抗をやめたらどうだろうか?国の代表枠を廃して正真正銘のガチンコ対決とするのだ。

久しぶりにプロレス番組をみた。昨年9月の新日本プロレスの試合。3試合。1戦目。ライガーがNWAヘビーに挑戦していて驚いた。ライガーってジュニアだろう?。パンパンに太ったから体重的には今はヘビーなのかもしれない。噛ませ犬の役だったのだろう。悪徳マネージャーの妨害で負けてました。現NWAチャンピオンはB級なマッチョレスラーでベルトも安っぽかった。テーズや馬場時代のNWAの栄光はどこにもなし。2戦目は中邑真輔。野人スタイルである。青山出身のインテリレスラーはどこへいったのか。決め技はボマイェ。武藤のシャイニングウィザードのスライディング式という感じか。当て方によっては相手に怪我させる危険技に見えるが、どうまくやってるのか?ボマイェに行く前にブルブル震えるのはWWEレスラーの真似なんだろうな。試合後は花道からノアの丸藤が登場。新日は完全にアメリカンプロレスを目指しているようだ。それでいいと思う。3戦目は内藤哲也という若手。知りませんでした。雰囲気がどこか武藤に似ているなと思ったら、目標にしているとのこと。試合運びも技も喋りも達者で良いレスラーだったが、残念ながら相手が悪い。対戦相手は「弾丸戦士」田中将斗である。インディからビッグ大会まで渡り歩く歴戦の強者である。頭髪こそ薄くなっていたが引き締まった体は健在だ。内藤に勝たせる試合だったのだろうが、試合運びやインパクトは明らかに田中に分があった。そういえば田中の炎武連夢(エンブレムと読む)時代のパートナー「日本一熱いレスラー」大谷晋二郎が先日結婚した。健介夫妻も招待されていたが、田中は大雪に閉じ込められて披露宴に駆けつけられなかったらしい。戦う男らしいエピソードだ。「炎武連夢」自体は早くに喧嘩別れした・・とばかり思っていたが、再結成して最近も組んでいるらしい(まあ同じ会社だし。大谷が社長だし)。炎武連夢はコール時の決めポーズが大変好きだった(下写真)。傍目にはアホなポーズなんだが、熱い二人がやるとさまになって盛り上がるのだ。

「炎武連夢」。前が大谷晋二郎、後ろが田中将斗。大谷が持っている刀は「火祭り刀」。

ウェリントンの勝利

2014-02-20 | Weblog
スケートやらSTAPやらのせいで、サムラゴーチが急速に風化している。まあ所詮そのレベルの曲だったのだ。作曲者に思い入れのない曲が名曲なものか。

・ベートーヴェンの駄作:ベートーヴェンにも駄作が存在する。「ウェリントンの勝利」という管弦楽曲で、ナポレオン戦争におけるイギリスのウェリントン将軍の勝利を描写したものだ。大砲だの、行進ドラムだの、凱旋曲だのと安っぽい描写に終始しており、芸術志向だったベートーヴェンにしては異色中の異色の珍曲である。通称「戦争交響曲」。他の交響曲群に比べると圧倒的に陳腐で駄曲であり、現代の演奏会にかかることは殆どない(一応カラヤンは録音している)。まあ聞いてみるとそれなりに面白いのだが、ベートーヴェンの他の作品に比べたらあからさまに「適当」なのである。やっつけ感丸出し。この曲はアマチュア音楽家でもあったメトロノームの発明家の委託で書かれた曲で、最初は巨大なオルゴール用の曲だったらしい。オケ版の初演時はナポレオンから解放された時期も重なり、ウィーンの聴衆には大受けしたようだ。同じ日に発表したベト7よりはるかに人気があったそうである。委託者もベートーヴェンも最初から大衆の受けを狙っていたようで、この曲でかなり儲けたようだ。委託者が曲の版権を主張したときには、ベートーヴェンは裁判までして争って版権を取り戻している。楽聖にもお金が必要なんですよ。人間臭いベートーヴェンは大好きです。音楽の都のウィーンの聴衆ですらこんな感じだったのだ。サムラゴーチに騙された日本の庶民は、あまり気にすることはないかもしれない。
・STAP黒白:「割烹着」やら「ピンクのラボ」やら「スッポン」やらを「なんか胡散臭い」と斜めから穿ってみてました。週刊誌の「負けず嫌いで思い込みが激しい」という記事とあわせて「もしかしてメンヘラ?」と疑っている自分がいます。もし今回のことが白だったら素直に反省します。
・総崩れ:女子フィギュアが総崩れ。個人の問題ではなく、チームの問題ではないだろうか?
・ヨナ:私の予想では彼女は将来政治家になって大統領になる。多分、おそらく。
・思い入れ:周囲をみていると、フィギュアスケートでは同性の選手に入れ込んでしまう傾向にあるように思う。確かに私も男子のほうが気になっていた。選手の姿にどこかしら自分を重ね合わせるためか。スポーツと芸能の違いか?まあ芸能人でも私は男優のほうに興味がわくが。ゲイではありません。
・選曲:男子スケートの選曲。もう少しどうにかならんものか。曲とスケートがマッチしてない。下手な編集ものとかサムラゴーチでなくもっといい曲選ぼうぜ。
・火の鳥:町田樹の選曲。フリーの中では圧倒的に印象に残った。舞踏用の曲だし作曲者の格も違う。ストラヴィンスキー作曲。
・哲学者:町田樹の語録が面白すぎる。「僕の裸体に火の鳥の精神を絡みつけて具現化した」「ビッグバンですよ。ボクの“火の鳥”は宇宙まで飛ぶ」「エタノールを燃やしたときに透明な炎が出るんですけど、そういう見えない炎を内に秘めて虎視眈々と狙う」「世界中のオーディエンスに、僕のプロダクトを披露したい」・・・「氷上の哲学者」なんて言われてるらしい。愛読書はヘーゲル「美学講義」なり。
・仲村トオル:哲学者といっても町田君はやっぱり仲村トオルだよな。
・雪かき:職場の近くの住宅の塀に「塀が痛むから塀の下に雪をつみあげないでください」という張り紙がしてあった。そしてその家の前の道路だけがアイスバーンになっていた。人間のクズだなあと思った。
・VAIO放棄:ソニーがPC部門を売却。ソニーは何の会社になるのかね?本業ゲームセンター、副業に保険屋って感じか?007もVAIO使わなくなるな。
・理系:「理系と文系があるんじゃなくて、理系になれなかったやつが文系」。全面的に賛成ではないが、数学と物理で挫折した人間が文系に流れるのは事実。
・チョウザメ:養殖が盛んになってきて観賞魚としてもよく売られている。飼ってみたい。でも成長すると3m以上になるんだぜ。風呂でも飼えない。大きくなったら引き取りますっていわれてもね。生きた魚をどうやって輸送すればいいのか・・。キャビアができた瞬間に〆てしまうしかないか(チョウザメも肉も結構おいしい)。
・チョウザメ:チョウザメはサメの仲間ではありません。いちおう書いておきます。
・ウナギ:今年はシラスウナギが豊漁のようだ。さらには卵からシラスウナギまで大量に生育させる方法が確立できそうとのこと。素晴らしい。この研究、後輩が主力で頑張ってるんだよな。STAP某より実用性あるぞ。
・毛皮:娘と「101匹わんちゃん」の話をしていて毛皮の説明をした(この話は金持ちの老婆がダルメシアンの毛皮でコートを作ろうとすることから始まる)。娘「ヒツジさんの毛でつくればいいのにね!」そのとおり。そろそろリアルファーは全滅にしてもいいと思う。
ツタンカーメン:すぐ呪う、すごく呪う。乾燥ファラオ。このくだらなさは嫌いではない.

虚言癖

2014-02-14 | Weblog
なんだかもう何を信じれば・・
 
・STAP細胞:不穏な情報が飛んでいる。大丈夫だろうか?
・武田信玄:末裔を自称していたモデルが万引きで逮捕。下の有名な信玄の肖像も、実は信玄を描いたものでないと最近言われている。


・サムラゴーチ:全聾状態からの回復は学会発表ものの珍事だそうだ。追い詰められつつある。恐らく会見は開かないだろう。
・レクイエム:サムラゴーチの事件でモーツァルトのレクイエムを思い出した。モーツァルトにレクイエムを依頼した人物は長年謎であったが、今から50年ほど前にフランツ・フォン・ヴァルゼックという伯爵であることがわかった。この伯爵には匿名での作曲を依頼して自分の名前で公表するという詐欺の手癖があった。まさにサムラゴーチであるわけだ。モーツァルトの死後、レクイエムは弟子のジェスマイヤーによって完成され依頼主の伯爵に届けられるが、案の定、伯爵は自分の作品として発表し(妻へのレクイエムとして)、なんと自分の指揮で初演してしまうのだ。これに激怒した妻のコンスタンツェは、モーツァルトの手書き手稿を公表し版権を取り戻すのであった。映画「アマデウス」はこの史実を脚色したものだが、実際の事件にサリエリはいっさい関わりがない。
・佐々木健介電撃引退:引退興行もしない方針。最愛の弟子に負けたから潔く引退する・・・らしい。でもプロレスは勝ち負け決まってるでしょ?やはり昨年9月に暴露された下のものへの暴力事件が原因なんだろうな。周辺レスラーから全くコメントがない。健介の人望のなさは酷いものだ。まあ家族一同で仲良ければいいか。

左門

2014-02-12 | Weblog
サムラゴーチ・・そろそろこのネタも終わりか。

・評論家:宇野コーホー大先生は最初から酷評だったとのこと。さすがといえよう。
・サムラゴーチ謝罪:耳は数年前に治ったとのこと。ゴースト作曲については全面降伏だが聴覚障害については頑張るようだ。妻がこれからどう出るかだな(サムラゴーチは離婚してもいいと言っているが・・)。妻側が保身のために暴露してしまうか?もう50歳なんだし、20年寄り添ったのだから最後まで一心同体であってほしい。娘の帰りを待っているお母さんには気の毒だが・・
・サムラゴーチの正体:いつもなら実家に突撃取材を敢行して、小学校時代の卒業文集から友人証言までいくらでも掘り出すマスコミなのに、今回はなぜか遅滞気味。大きな組織の圧力でもあるのだろうか?
・サムラゴーチのHIROSHIMA:youtubeにあがっていた大友直人指揮による演奏(最終部分)を聞いてみた。全体の印象は「マーラーの響きでブルックナーをやってみた」。暗鬱な部分はショスタコそのまま。最後はマラ3の劣化・俗化・廉価版のようにも聞こえた。一部はプロコフィェフの映画音楽にも似ているように思う。要はごちゃまぜな感じがしたということ。テーマといえるような明確なメロディーもなく、最後の最後に大編成による音圧で拍手をもらいにいく悪いパターンの見本である。この程度の曲だったら、シニカルなクラシック愛好家は反応しなかったんじゃないか。反応してしまったのは免疫のないライトな層が主流なのではないだろうか。実際のところ、マーラーやブルックナーやリヒャルトを聞き通したり聞き比べたりしたことのない人(99%の日本人はそうだと思う)にとっては、生演奏による管弦楽のカタルシスは衝撃だと思う。おもわずスタンディングしてしまった人は、是非これを機会に本当のオーケストラ演奏会に足を運んでほしい。


それにしても指揮者・大友直人の熱演ぶりが痛すぎる。演奏家は与えられた楽譜がどんなにつまらなくても、全力で演奏する義務があるわけだから、こういう事例に巻き込まれても仕方ない。しかし大友直人本人は、そういった葛藤もなく、本気でいい曲と思ってやったんだろうなあ・・・。これはサムラゴーチの片棒を担いだと揶揄されても仕方ないレベル。後出しではあるが、大野氏の指摘を噛みしめてもらいたい。「スコア(総譜)を読める音楽の専門家ならば、譜面を見た時に、おかしい、と気づくはずです。あのような作品に、まことしやかにお墨付きを与えた(クラシック)音楽の専門家は、あまりにお粗末を言わざるをえません」。大友直人が知名度のわりに評価がイマイチなのは、こういう安っぽいところにあるのかもしれない(人が良すぎるのか、頭が弱いのか)。若いころから国内でしか活動してないしね。
サモン:サムラゴーチの所属していた音楽プロダクション。一部ではここはS学会の息がかかっているなんて言われているが、実際どうなのかわからない。S学会の記念館が新宿の左門町にあるからサモンなんていう勘繰りもあるが・・。所属にはマイスキーやヴェンゲーロフなんて大物がいる一方で、世間の指摘通り韓国系演奏家が多い。サムラゴーチの頒布指揮者である金聖響も所属している。他にはフジコ・ヘミングやナイジェル・ケネディなんていう一発屋もいる。その昔は和泉元彌をプロデュースしていたようだ。サムラゴーチをプロモートした理由がよくわかる。実は2002年に所得隠しの脱税容疑で当時の社長・熊取谷(いすたに)春夫が告訴されている。現在は妻が親族かしらないが女性の熊取谷氏が社長。何とも怪しい会社である。それにしても珍しい苗字だ。親戚かどうか知らないが同性に大物パチンコ店オーナーがいる(この会社も30億の所得隠しで告発された)。

モリヒロ

2014-02-09 | Weblog
河内守をひとまず置いておいて徒然
・でも河内守:妻(20年以上つれそっている)の母が激白。「娘は洗脳されてるんです。離婚して帰ってきてほしい」「昔から佐村河内は変だった」「家にピアノなんてなかった!」そして驚愕の事実「佐村河内は昔「スタントマン」だった!」。すごいぞ河内守。セルカンを超えるか?続報を期待したい。
・青の時代:三島作品。読了。確かに構成不足でいきあたりばったりな展開の作品だったが、それなりに面白かった。三島由紀夫は本人が入れ込まない作品のほうが読みやすい?モデルとなった山崎氏は戦時徴用での体罰や不合理によって人生に対する病的な「合理性」を獲得する。戦時体験は主人公の性格を強制固定するべき核心の部分だが、三島の作品の中では省略されて一切描写がない。これは三島の徴兵失格(意図的とも)に起因するか?
・都知事選:まあ順当にマスゾエ。仕方ない。ほかにどうしろと?9か月で総理を放り出し、ロクロを回していたのに20年後に突然降ってわいたモリヒロや、そのあたりの右翼よりも知能レベルが低そうなタモガミ(顔がもう・・)、知能は確かだが所属が共産党(共産支持で勝てると思ってるのか?)のウツノミヤ。消去法でマスゾエしかなかった。小泉が出ていたら・・・まあそれでも恐らく勝てなかっただろう。でも小泉氏にとって今回のは布石で次を狙ってるはず。しかし小泉氏も現在72歳。十分に老害の季節。次はない。
・イデオロギー:自治体の選挙にとって霞のようなイデオロギーによる煽動はなんら意味をもたない。東京に住むものにとっては、東京をいかに変化させるか、経済・治安・交通、そしてオリンピック。これらをきちんと行政として経済として捌ける人に票が集まった。たった9か月で首相を放り出したという前科をもつ陶芸家の夢想なんぞ、現世の人の心に通じるはずがない。

ここまで

嫁の書いた指示書=魂を救う真実の音楽

2014-02-07 | Weblog
昨年の「新潮45」で、初めて佐村河内の存在に疑問を投げかけたのが野口剛夫氏。この人は東京フルヴェン研究会(フルヴェンのマイナー作品を演奏するアマ団体)の会長でもある。さすがである。フルトヴェングラーは音楽の商業主義を激しく嫌悪していたが、その精神はファンの間にきちんと伝えられているようだ(といっても、最近の「フルヴェン愛好家」は音質キチガイであり、低レベルな「コレクター」でしかない)。

【野口剛夫氏の指摘】 「『NHKスペシャル』で取り上げられて以来、佐村河内守の名声と人気はいや増すばかりの天井知らずである。 本稿では、テレビ出演以来くすぶる「本当に氏は全聾なのか?」は棚上げするにせよ、音楽自体にマスコミが絶賛するような価値があるのか否かを考えてみた。 心ある音楽ファンなら誰もが溜飲の下がるしごく真っ当な批判であろうと自負している。・・・・「全聾の天才作曲家」とか「現代のベートーヴェン」とか、物々しい紹介のされ方に驚きつつ、その音楽を聴いてみたら「本当なのかな」といぶかしい感じを持ってしまったことは、まず正直に述べておきたい。今のところメディアの論調は礼賛一辺倒のようであるが、私のような疑問を感じる人は実はかなりいるのではないか。ただ、感じたとしても、身体障害者や被爆二世への差別と受け取られたり、ダントツのセールス記録へのやっかみであると思われるのを恐れたりで、発言しづらいということもあるのかもしれない」

確かに本当のクラシックファンはそれほど佐村につられてないのではと思う。どちらかというと、クラシック音楽をあまり知らない層、つまりオーケストラの定期演奏会にではなく「名曲コンサート」に来るような層がもっとも被害にあってるいるのではないだろうか。

さて、佐村河内の戦略にはまった恥ずかしい音楽関係者の見苦しい言い訳が始まっている(吉松隆)。そのなかでも大友直人の関係者は「スコアが素晴らしいから演奏した。誰が作曲者でも関係ない」と名回答らしきものを提示したが、作曲した新垣氏から「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはないと思った」と断ぜられ、恥の上塗りとなった。さらに「HIROSHIMAは現代典礼という依頼で書いたオケ曲。いちど没になったが、あとになって突然HIROSHIMAとして使われた」とも告白。「魂を救う真実の音楽」ともてはやされた曲は、広島への思い入れも何もない、ただの空疎なまがい物であったことが判明。ちなみに佐村河内が新垣氏に発注した「指示書」は、嫁が書いたものと嫁の母親が暴露した。夫婦共犯のようだ。障害詐欺なんだから妻の協力は当然か。佐村河内は若いころ「スタントマン」をやっていたそうだ。家にピアノはなく、妻が結婚のときに持ち込んだものだそうである。妻の母親の「洗脳されているんです。早く離婚して実家に帰ってきてほしい」という言葉が胸にしみる。
これらの事情を知ってから、HIROSHIMAのAmazonの5つ星レビューを読むと笑いが止まらないが、マスコミの煽動に流されるまま受動的に生きている庶民は騙されても仕方がない。流行やブームなんてものは、本質とは無関係に業界の「仕掛け」で発生するものだ。今回の事件は「障害者」「被爆」「震災」「管弦楽」・・庶民の涙腺を刺激する要素がふんだんに搭載されていた。しかし音楽を生業とする指揮者や評論家が庶民と同じでどうする?まずは真贋を見極めるのが本職だろうに、まんまと騙された上に、宣伝に加担したりして。言い訳しなくていいから深く恥じてほしい。というより廃業してほしい。一般の聴衆の中にも、このような冷静な受け止め方をしている人がいるというのに。マーラー以上の大編成の交響曲を、音大に通ったことのない人間が独力で作れるわけないだろうに。演奏した人間は絶対に感づいていたはずだ。できることならプロの演奏家から告発してほしかった。
 今回の事件、音楽界における「ソーカル事件」(物理学者のソーカルが適当な数式をちりばめただけのでたらめな論文を投稿したところ、現代思想のジャーナルに受理された上に賞までとってしまったという事件)と思ったが、そこまで高尚な話ではないな。先日の「食材表示の偽装」のレベルか。伊勢海老と思って絶賛してたけど、実際は養殖のバナメイエビでしたよ・・・と(バナメイエビは決して不味くない)。
しかしながら、視点を変えると、この新垣氏はとんでもない才能の持ち主なのかもしれない。氏にとっては「息抜き」程度につくった作品でも一般的には名曲レベルなのかもしれない(ベートーヴェンやモーツァルトの習作には十分に演奏会に耐えられるのがあるように)。新垣氏が本気をだして作った作品を是非聞いてみたい。あーでも筋金入りの現代音楽なのかな・・・。大友直人さん、禊のチャンスですよ。新垣氏の作品を是非取り上げて演奏してあげてください。

どうやら聞こえるらしい

2014-02-05 | Weblog
河内守:予想通り、週刊誌(文春)のスクープが震源だった。作曲したのは桐朋出身で桐朋の講師の新垣隆氏とのこと。昨年亡くなった三善晃の弟子で、それなりに地位のある作曲家だとか。文春の中刷りでは「私は18年間、彼と普通に会話していました」とあるから、河内守の聴覚障害はウソのようだ。となると経歴の全てが虚構となる可能性が高い。もしかしたら、被爆二世という出自も、そして名前すらもウソかもしれない。そもそも、こいつは日本人だろうか?こんな怪しい人間を5年も密着取材して「現代のベートーヴェン」だなんて放送し、さらには伝記まで出版したNHKはどう責任とるのだろうか?
 太鼓持ちだった玉川大学の先生が、これまた香ばしい褒め言葉を残しているので掲載。読みかたによっては新垣氏の才能を真っ当に評価しているとも解釈できるが、「命を削って生み出した」や「苦悩を極めた人」はNGだなあ。

野本由紀夫 玉川大学教授(音楽学者) HIROSHIMAについて
「言ってみれば1音符たりとも無駄な音は無い」
「これは相当に命を削って生み出された音楽」
「初めてこの曲を聴いたときに私は素直に感動した。そして非常に重い曲だと思った」
「言葉で言い表す事自体が非常に薄っぺらになってしまう」
「1000年ぐらい前の音楽から現代に至るまでの音楽史上の様々な作品を知り尽くしていないと書けない作品」
「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」

エア作曲家 佐村河内守 セルカン 許光俊 

2014-02-05 | Weblog
佐村河内守:「さむらごうち・まもる」。ネットで名前は見たことはあったが作曲家であることすらも知らなかった。当然はじめて読み方を知った。独学で学んだ全聾の作曲者として話題だったらしいが、10数年以上の間、他人に作曲してもらっていたことが発覚。この佐村某、一体どんな輩かとWikiの経歴を読む。おうおう、これは・・かなり胡散臭い(すべて「要出典」となっている)。まず音楽が独学であること(厳格な母親に習ったとのこと)、小学4年生でバッハ・ベートーヴェンを弾きこなす・・なにをもって「弾きこなした」といえるのだろうか?プロのピアニストでも決してこのようなことは言わない。10歳で母親から「あなたに教えることはない」と言われる・・このお母さん一般人のようだが。普通高校を卒業後に上京。音大に行くわけでもなく、定職につかず、プロとしての音楽活動もない。「プロのロック歌手としてデビュー間近に、精神的な葛藤から契約解除」という経歴がかなり香ばしい。そして聴覚障害が始まったという30代半ばから注目され売れ始める・・・・。恐らく、これらの経歴の殆ど、または全てが嘘なんだろう。作曲どころか本当はピアノすら弾けないんじゃなかろうか?。聴覚障害といいながら実は聞こえているでは?とも疑ってしまう。障害によるアドバンテージを受けたくないという理由で障害者手帳の給付を拒んでいるあたりもかなりキナ臭い。この佐村某氏はメディアへの露出が嫌いらしい。聴覚以外にも色々な障害をお持ちらしく、杖をついたり、日光に敏感なのでサングラスかけたり、暗い部屋で生活したり・・・。これも虚飾がばれないための演技なのではないだろうか?読唇が大事な全聾の人がサングラス着用ってどうなのよ・・。ピアノも手を故障してもう弾けないそうだが、もともと弾けないか、たいして弾けないのを隠すために故障したふりをしているのではなかろうか。ちなみに現在、代表作の全国ツアーも地方オケを駆使して開催中。指揮はキムセイキョウ・・・これまた胡散臭い。その宣伝文句は以下のとおり。高利貸し屋の看板のようだな。

「全ての聴力を失う絶望と、絶え間ない耳鳴りという苦しみの中、佐村河内 守が完成させた《交響曲第1番》。アカデミズムに背を向け、独学で作曲を学んだ彼が作り上げたこの作品は、中世以来の西洋音楽の歴史を包含し、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチ等、ロマン派シンフォニストの系譜を受け継ぐ長大なシンフォニーです。被爆二世である佐村河内の出自が反映された自伝的作品でありながら、「闇が深ければ深いほど、祈りの灯火は美しく輝く」という作曲者の言葉に象徴されるように、あらゆる苦しみを越えて、希望を見出そうとする人間の普遍的な心情に深く通じる真実の音楽が、聴く者の心を、深く揺さぶらずにはおきません。」

 それにしても、本当の作曲者は一体何者だろうか?管弦楽の作曲ができるからそれなりに素養があると思う。音大出の売れてない作曲家あたりか?おそらくこの佐村某とは最初から共謀してやってきたのだろう。全聾の障害者、それも「被爆二世」が作曲したことにしたらさぞ世間は食いつくだろう。これで一稼ぎしてやろうじゃないか・・・手始めに1曲目はストレートに「HIROSHIMA」なんてのどうだ?・・・なんて感じじゃなかろうか。「人前にでずらい事情がある」そうだが、カミングアウトして正面から勝負したらいいのではないだろうか?これから賠償金とか色々ありそうだから応援してくれる人はそうはいないだろうが。
 ここで思い出すのが「セルカン事件」である。トルコ人のアニリール・セルカンが、学歴・経歴をすべて偽って東大建築学科の博士課程に入学。博士号を取得し、その後助手まで務めた。宇宙物理学者・建築家・パイロット候補生・文筆家を名乗り、多くの著明人と派手に交流し、自分の名前を冠した市民講座で荒稼ぎする。その後、全ての業績および経歴が虚飾であることが判明し、博士論文も全てコピペであったことから、東大史上初の「博士号取り消し」となる。その後トルコで軍役につくといい失踪。現在のところ行方不明。担当の松村教授は懲戒されたが、まだ健在で研究室を主宰している。
 まあ今回の場合は、例えゴーストが書いたにせよ、とりあえず「作品はある」ことが救いか。セルカンは作品すらなかった。作品はゲーム音楽から交響曲まで幅広いジャンルに渡っているらしい。それらの曲が本当に名曲なら曲は世に残るだろう。実際にプロオケでも演奏されているし、絶賛する指揮者や評論家もいる。とはいえ、この佐村某の人生談を絡めて持ち上げていただけとしたら、見事に佐村某の戦略にはまっているわけだ。オーケストラの響きを知らない人が、このべらぼうな経歴と原爆やら震災を想像して聞けば、何かしら感動してしまうのは仕方がないのかもしれないが、本職である評論家が術中にはまったとしたら、「違いのわからない男」を露呈してしまったわけで、赤面どころの話ではない。廃業だ。その実例を下にコピペした。有名なクラシック評論家の許光俊氏の賛辞である。爆笑ものである。少しだけ気の毒でもある。そういえばセルカンのときも、色々な文化人(坂本龍一とか)が彼のことを、天才だ未来人だとこぞって持ち上げていたな(それらのネット記事はあっという間に削除されたが)。いかに人が本質でなく「看板」でしか判断できないかということを物語るよい事例である。NHKもこの佐村某について「奇跡の作曲家」として特集も組んだことがあるらしく、早速釈明と謝罪を発表した。以前の「奇跡の詩人」といいNHKも脇が甘すぎる。
 
音楽評論家の許光俊氏(慶応大学教授)の絶賛評論(HMV)。長文であるが早晩リンク切れになるだろうから敢えてコピペした。

許光俊「世界で一番苦しみに満ちた交響曲」(2007年11月記)
 
もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か? 耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか。それとも、妻のことで悩んだマーラーか。死の不安に怯えていたショスタコーヴィチか。あるいは・・・。もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが、知っている範囲でよいというなら、私の答は決まっている。佐村河内守(さむらごうち まもる)の交響曲第1番である。ブルックナーやマーラーにも負けない楽器編成と長さの大曲だが、その大部分は、終わりのない、出口の見えない苦しみのトンネルに投げ込まれたかのような気持にさせる音楽だ。
 聴く者を押しつぶすかのようなあまりにも暴力的な音楽が延々と続く。これに比べれば、ショスタコーヴィチですら軽く感じられるかもしれないというほどだ。ようやく最後のほうになって、苦しみからの解放という感じで、明るく転じる。が、その明るさは、勝利とか克服といったものではない。思いがけないことに、子供の微笑のような音楽なのだ。
 いったい、こんなにも深刻な曲を書いた佐村河内とはどういう作曲家か。彼は1963年広島に生まれている。早くから作曲家を志したが、楽壇のややこしい人間関係などに巻き込まれることをよしとせず、独学の道を選んだ。それゆえ、なかなか仕事に恵まれなかったが、ある時期から映画、テレビ、ゲームなどの音楽を書いて徐々に知られるようになってきた。なんと、一時はロックバンドで売り出されそうになったというから、一風変わった経歴と言えるだろう。妙な人間関係を嫌うことからもわかるように、佐村河内はまれに見る潔癖な人間のようだ。自分が本当に書きたい曲だけを書きたいと、あえて実入りのよい仕事を断り、厳しい日雇いの仕事をして生計を立てていたこともあるし、住む場所もなくホームレス状態になっていたときすらあるという。実は、彼は非常に大きな肉体的なハンディキャップを抱えている。なんと、あるときから完全に耳が聞こえないのだ。それどころか、ひどい耳鳴りで死ぬような思いをしているのだ。しかし、彼はそれを人に言わないようにしてきた。知られるのも嫌がった。障害者手帳の給付も拒んできた。自分の音楽を同情抜きで聴いてもらいたいと考えていたからだ。
 彼のところにはテレビ番組を作らないかという話が何度も舞い込んだという。確かに、耳が聞こえない障害者が音楽に打ち込むなんて、いかにもテレビが好みそうな話だ。だが、佐村河内は障害を利用して有名になることを拒んだ。テレビ局からは「せっかく有名になるチャンスなのに、バカじゃないか」と言われたという。有名になる、ならないは問題ではない。それより、自分は作曲に打ち込みたいだけだというのが彼が言い分だ。金があり余っているバブル時代じゃあるまいし、今どき誰が1時間以上かかる、しかもとてつもなく暗い大交響曲を演奏してくれるだろう。そんなことはわかっている。だが、彼は、演奏されやすい短い曲を書くつもりもないようだ。マーラーは「いつか自分の時代がやって来る」と言ったが、佐村河内も生きている間に成功しようなどとは考えていない。こんなにも潔癖で頑固な人間は、世の中にほとんどいないだろう。
 その佐村河内が、自分の半生を綴った本を講談社から出した。その内容は、恐るべきものだ。私は一気に読み終えたが、途中何度も暗然としてページを閉じたくなった。生きているだけでも不思議なくらいの悲惨な状況に彼はいる。なのに、ものすごい執念で作曲を続けているのだ。本に記されたその様子を読んで鳥肌が立たない者はいないだろう。そして、無理のあまり、彼の指は動かなくなり、ピアノは弾けなくなり・・・というぐあいに肉体はますます蝕まれていくのだ。ここで詳述はしないが、安易な同情など寄せ付けないほど厳しい人生である。確かに彼には、有名になってチャラチャラしている暇などない。生きているうちに、書けるうちに、書くべきものを書くしかないのだ。実は佐村河内の両親は広島で被爆している。それが彼の健康にも影響しているのか。
明言はされていないが、可能性は高いだろう。彼は言う、音楽以外はどうでもいい、すべていらない、と。これはきれいごとでも、格好をつけて言う台詞でもない。本当にそうなのだ。旅行したり、おいしい食べ物を食べたり等々といったことをする肉体的な余裕は彼にはない。毎日が、それどころか一瞬一瞬が、死や発狂との戦いなのだ。これは人生というより地獄と呼ぶべきではないのか。
 現代が、ベートーヴェンやブルックナーのような交響曲を書けない時代であることは間違いない。人々はあまりにも物質的に豊かになり、刹那的な快楽で満足している。 日本の若者を見てみればわかる。夢も希望もないのだ。いや、必要ないのだ。救いを探し求める気持などないのだ。日々を適当におもしろおかしく生きて行ければいいだけだ。だが、佐村河内は違う。彼は地獄の中にいる。だから、交響曲が必要なのだ。クラシックが必要なのだ。演奏が困難な交響曲第1番。それが書名になっていることからも、この曲が作曲者にとってどれほど大事かがよくわかる。まさに命がけで書かれたのである。この大曲は、まだどこでも演奏されていない。演奏される見込みもない。だが、私はいつか実際にホールで聴いてみたい。まことに痛ましいことに、たとえ作曲者の生前にそれが実現したとしても、彼は自分の耳で聴くことができないのだが・・・。
 
注:許光俊(きょ みつとし、1965年 - )は、東京都生まれのクラシック音楽評論家、文芸評論家。ドイツ文学、音楽史専攻、慶應義塾大学法学部教授。