Wilhelm-Wilhelm Mk2

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興行はしご(後半)HG観戦

2006-06-25 | Weblog
 前半終了後、北上してさいたまアリーナへ。後半は「ハッスル」観戦でした。古楽器のあとにHGという、高級寿司のあとに、豚骨ギトギトラーメンを食すようなものですが、僕はクラシックでもプロレスでも「興行」としては根本的な差はなく、ただ良い興行、悪い興行があるだけと思ってます。
 さいたま新都心駅に到着。アリーナへ向かう客層が前半と全く違うことを認識。気分をきりかえつつ、飲料(アルコール)と食料を大量に調達(中で買うとぼったくられるので)。席は安価だったけども、リングがよく見える通路側の良シートでした。試合の概略と感想を以下に。

 「アゴの尖ったA」が今大会の隠し球だったのですが、A猪木でも荒川静香でもなく、予想通りクリームシチューの有田がコスプレで登場。高田総統、A猪木の物真似を披露。さすがに売れっ子芸人、喋りが上手い。オープニングにふさわしいエンターテイメントでした。有田自身がプロレスファンなので、楽しんでやってるのがありありとわかって良かった。締めは高田PRIDE本部長の真似で「出てこいや!」
 エリカことアジャ・コングが、坂田組とタッグ選手権をしたのですが、さすがに名レスラー、男性相手なのに上手く試合をまとめました(決まり手、膝十字固め)。敗れた坂田選手には、彼女の小池栄子関連のヤジに加えて、「アホの坂田」にかけた「アホコール」までが飛び出して笑ってしまいました。レスラーも大変です。
 カイヤのプロレスデビュー。プロレスらしい動きはまったく出来ず(そりゃそうだ)、大巨人に押しつぶされました。2メートル30センチの巨人のプレスを受けただけでも凄いと思います。しかし、演出家もさすがに前回の元彌のような強引な勝ちブックは出せなかった様ですね。カイヤは続けるといってましたが、今後のストーリー展開はなかなか難しいのはないかと。しかし、アジャのときもそうでしたが、男性vs女性の試合はいまいち入り込めませんね。ヒットが寸止めだし、体力差がありすぎで結局はキワモノの域をでることは難しいです。
 休憩時に和泉元彌が登場してマイク。これが最悪で、台詞を噛むは間違えるはで、喋るのが本業なのに一体どうしたことか。完全に賞味期限が切れてしまったなと感じました。
 後半、ババ・レイ、ディーボン、スパイクの3Dが登場。WWE時代はダッドリーブラザーズという名で絶大な人気あったのですが、解雇されて現在他団体で活動中。留学中にテレビでよく観ていたのですが、生で見ることができて痛く感激。WWE でトップをはっていただけあり、さすがに上手い。3人ともキャラがしっかり立ってるし、試合展開が流れるようでプロのエンターテイナーの実力をみました。WWE来日公演、観に行くか。
 ついにHG登場!この人役者が違います。怪しいオーラが出まくりでした。それにでかい!相当に練習してきたようで、難易度の高い空中技を連発してました。(写真:ドロップキックを決めるHG)相手の外人が巨大な筋肉バカだったのに、よくあれだけ動き回れるなというくらいハッスルしてました。さすが、同志社大プロレス同好会出身、京都統一王者だけのことはあります。うーむ、HGただ者ではない。HGが技を出す時の観客のかけ声は「セイ!」。決まり手は「掟破りのM字固め」。(掟破りというのはライバルの技を使う時につく。この場合はインリンのM字固めから)パートナーは三冠王者の小島聡選手で試合後のマイクもよかった。小島「HG、お前すごいよ。でも俺が助けてあげられるのは今回だけだ。これからは一人で頑張ってくれ。」HG「私のほてった体をどうしてくれるのですか!」
 メイン、インリン改めニューリン様が登場。インリン、本当に芸達者だよなあ。プロレスは勿論できないけど、他のレスラーの邪魔を一切せず試合を成立させているところが凄い。彼女がリングインすると、地鳴りのような歓声と「ニューリン様コール」が。ハッスルの人気の半分はインリンのお陰ですね。
 そして、最後の最後に高田自らが「ザ・エスペランサー」としてリングに復帰。フジテレビに絶縁されたDSE側の反抗の狼煙なのか、最後のあがきなのか。このエスペランサーという名前、会場では大爆笑でしたが、コアなプロレスファンしか何の事か判らないことでしょう。高田は新日プロレス時代の駆け出しの頃に「青春のエスペランサー」というあだ名で呼ばれていたのです。ザ・エスペランサーは無表情な格闘サイボーグというギミックのようですが、往年の速いキックは健在。エンターテイメント系のプロレスならやっていけるのではないかと?でもそうすると、お決まりの高田総統のマイクが無くなるので問題ですね。エスペランサーは最終兵器という扱いのようなので、大きな大会でしか登場させないようですが、うまく使って欲しいものです。
 最後はHGがハッスルの音頭をとって締め。高田エスペランサーのことを「何ですか、あのスペ○マンサーという人は?」と下ネタ炸裂。自分でも「これじゃあ、地上波放送は無理ですねえ」と自虐発言まで。
 ハッスルがいつまで続けられるのかはわからないけど、HGとインリンが頑張っているうちは応援しようかと思います。
 

興行はしご(前半)

2006-06-25 | Weblog
罰当たり?な興行はしごをしてみました。前半は鈴木秀美が率いるリベラクラシカという古楽器演奏団体。浜離宮ホールでの演奏会。曲は
ハイドン;63番
モーツァルト;協奏交響曲
モーツァルト;交響曲リンツ

 ガット弦を張った弦楽器の上手い演奏というものを生では体験したことがなかったので、聴きに行ってみました。とにかく面子が強者揃いで、古楽器云々より楽団の機動性、能力に圧倒されました。演奏は心地よい疾走感が持続した快演で、ガットの音は集団で弾いている時は滑らかで非常に心地よい。しかし、協奏曲のソロとなると、やはり音程の不安定さが目立ってモダン楽器にはおよばない。同じ事はムローヴァがガットに目覚めて録音したベートーヴェンの演奏からも感じられました。あれがいいと言う人も沢山いるでしょうが、やはり古楽器演奏はバロックで留めておくべきでしょう。鈴木氏は将来的にベートーヴェンを目標としていると書いてましたが、ベートーヴェンはピアノにしてもそうですが、モダン楽器で弾く作曲家だと思います。
 脱線しましたが、鈴木氏の溌剌とした指揮ぶりも素晴らしかったですし、90点を差し上げてもよいくらい満足しました。面白いプログラムがあったらまた聴きに行きたいですね。

フルトヴェングラー編曲:ベートーヴェン弦楽四重奏曲13番第5楽章

2006-06-15 | Weblog
 有名な「テレフンケン録音集」より。テレフンケンは1929年に発足したドイツのレコード会社で、ドイツの「世界一」の技術が投入されたため、音質はずばぬけたものを持っていました。その貴重な録音群はテルデックへと受け継がれ「テレフンケン・レガシー」として市販されています。(ただしこのフルヴェン盤は原盤が失われてしまっているので、SPからの復刻。)
 フルトヴェングラーはこのテレフンケンに3曲だけスタジオ録音を残しているのですが、選曲が恐ろしく渋く、俗に「フルトヴェングラー・アダージョ」と呼ばれています(嘘です。でも間違っていないと思う)。

ブルックナー:交響曲第7番より第2楽章Adagio 1942 4/1
グルック:歌劇「アルチェステ」序曲 1942 10/29
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番より第5楽章「カヴァティーナ」(フルヴェン編曲)1940 10/15

 録音嫌いのフルトヴェングラーがなぜ敢えてこれらの曲を選んだのか?どれも同時期の定期演奏会のプログラムからの抜粋だったようですが、戦意高揚を狙うナチス文化部の判断とはとても思えません。おそらく、日々崩壊していくドイツ文化に対するフルトヴェングラーの嘆きが込められた一種の「鎮魂歌集」となっているのではないでしょうか。演奏はまさしくフルトヴェングラーの独壇場ともいえる胸が締め付けられるような歌い回しと、降り注ぐ残光にような美しさが絡み合って、この40分のCDを聴くと感動しすぎて非常に消耗します。(朝一番に聴いてはいけません・・)

続く

アー・ノンクール

2006-06-14 | Weblog
 この人に対する評価は信者とアンチにくっきり別れると思います。私は後者です。これまでに購入したCDがことごとくハズレで、放送で聴いた録音もまったく最悪なものでした(ニューイヤーでさえ)。何が気に喰わないかというと、まず音が汚い。音に色気も色彩も何もなし。ウィーンフィルやベルリンフィルを使っているのに、縦線もあわないし、どの楽器もガサガサしていて聞き苦しい。小さなフレーズ処理は何だか細工しているけど、大きくみると弛緩と失速の連続で萎えまくりです。「切れ味鋭い」なんていう批評をみますが、そうか?逆にとろいっての印象なのですが。ガンバが上手いのは認めます(バッハのガンバソナタは名演)。しかし、指揮者として本当のところどうなんだろう。いい奏者、いい学者がいい指揮者とは限らないですからね。自分のしたい音楽を具現化できているのか甚だ疑問です。といっても大量の録音をすでに販売してるのですから、恐らくそれらが彼がしたい音楽なんでしょう。うーん。
 最近、著書の「古楽とは何か」を読んだのだけど、これが結構面白かったのです。理屈としてはなかなか筋が通っていて、自分の信念を熱く語っていて読んでいると引き込まれます。というわけで、もしかしたら今まで聴いたのがたまたま自分にはハズレだったのではなかろうか?と思い、アーノンクールが得意そうなハイドンを聴いてみようと思った訳です。
 CDを中古で二枚買ってきました。一つはコンセルトヘボウとの93、100、68。もう一つは手兵のコンツェルトムジクスとの朝昼晩。まず93番を聴いたのですが、なんだこりゃ。。。ハイドン特有のはじけるような快活さも輝く音色も全くなし、テンポもベターって感じでいきなり出鼻をくじかれました。93ってこんなのだったけ?と愛聴しているヨッフム=ロンドンフィルを聞き直しましたよ。ふー、生き返りました。なんとVividな演奏なんだ。ヨッフムって渋いけどいい指揮者だよなあ。昔、アーノンクールがグルダとやったモーツァルトの協奏曲もこんな感じのたるーい演奏だったんだよ。あれは手持ちのCDのワースト1と言ってもいい。もう一枚のほう、こちらのほうがテンポ感はいいか?でも伴奏オケの音量が妙に大きく、小編成でやっていると思えない大音響(残響が’すごい)でソロを担当する楽器を邪魔して不自然極まりない。強拍が脅迫的で吃驚します。音量の出ない古楽器ソロを相手にこれはどうなのだろう?聞き苦しくなって途中で終了。いつか聴いたブルックナーも金管の異常に突出していて聴きずらかった。バランス感覚が普通と違うのだろうか。今回も克己ならずでした。
 結局のところ、私にはいまだにこの人が有能な「指揮者」とは思えないわけで、「世界の名指揮者」とかいう本がでるときには、上にあげたヨッフムとかと同列にして欲しくないわけです・・・・・・。

未完成交響曲

2006-06-06 | Weblog
 この歳になってやっと未完成のすばらしさが身にしみてわかってきました。未完成という名前から、まるで絶筆して未完となった曲と思われがちだけど、25歳のときの作品なんだよね(シューベルトは31歳で亡くなった)。シューベルトの作曲は殆どテイク1だったらしいから(だから未完の曲が多々ある)、煮詰めつくした大曲というよりは、即興的な詩情に溢れるな曲として捉えるべきだと感じるようになりました。シューベルトを聴くとき、あるいは奏するときには、この捉え方が大事なのではないかと気づきました。未完成が聞けるようになったというよりはシューベルトが聞けるようになったということなのかもな・・・。
 バスにとって、この曲の冒頭ほど緊張する瞬間は無いわけで、ウィーンフィルでさえも始まる前にコソコソ音程を確認したりしているわけです。先日のバンベルクもトップは弦をはじいて音を確認していた。この冒頭のテーマでしくじると、その後の曲を奏する意味すら無くなりかねないからプレッシャーですよ。別に特殊技巧が必要なわけでもなく、基本的なポジションだけを使って弾くのですが、だからこそ実力が丸出しで、さらには5弦にしか出せない下のD-Cisまで下がって行くわけで、5弦奏者としてはまさに腕の見せ所(晒し所)・・・。でも考えたら管楽器はいつもこのぐらいのプレッシャーの中で吹いているんだよな。頭がさがります。練習ではさんざん問題視されていたのだけど、アンケートや周囲の評判はそれなりに上々だったので、とりあえず及第としておきます。でも自分的には40点くらいの出来でした。本当はもっと巧く出来たはずなのになあ。いや出来なければ行けない。やはり毎日さらう練習環境を確保せねばならぬか・・・

 しかし、昔はそれほど受け付けなかった曲が聴けるようになるというのは、自分の中で何か成長があったのか、それとも何かを放棄してしまったのか・・・いずれにせよ自分の中で何らかの変化があったわけで、そういう己に対して感慨にふける瞬間を味わえるというのは、一つの趣味ごとを続けているものだけが味わえるささやかな醍醐味というべきなのでしょう。