Wilhelm-Wilhelm Mk2

B級SFからクラシック音楽まで何でもあり

ガチャ:人生の貧困

2021-06-30 | Weblog
よく「ガチャ」という言葉を目にする。ネットゲームで必要なアイテムを手に入れるための抽選的な課金ことらしい(多分)。語源はあのガチャガチャだろうか?それともI got youのガチャなのか?まあどうでもいいが、虚構世界のアイテム欲しさに金、それも数千円~万単位で大事な金を差し上げてしまうなんて(それも必ず手に入るわけではないのに)、どれだけ現実世界に魅力を感じていない貧しい人生なんだろうか?

徒然日記:百式

2021-06-23 | Weblog
久しぶりにだらだら徒然
・眩暈(めまい)になる:過去にも一度、なったことがあるのですが、耳石の破片が三半規管に転がり込む「良性発作性頭位めまい」というやつです。あおむけに寝ころがると、グワンと天井が回るのが典型的な症状です。変な姿勢でかたまって寝たり、老化や疲労が原因と言われています。薬で治るものではなく、耳石が自然に溶けてなくなるのを待つか、理学療法(体操)で耳石を三半規管から追い出すことが主な対症療法です。理学療法の体操にも何種類かあるのだけど、今回はレンバート法がよく効いたようです。
・ガンプラ「百式(旧キット1/144)1985年製」:なんとか月内に完成させられました。特徴的な金色のボディですが、テレビでは金色というより艶のある山吹色という感じでした。それを再現しようと試行錯誤したのだけど、なにせファレホの黄色の隠蔽力が弱いので、筆塗りで綺麗に塗装できる見込みが立たなかった。結局、成型色にヤスリをかけると明度が適度に落ちて、それっぽくなったので、金色の部分は塗装をせず成型色のまま仕上げました。しかし足首の部分だけは、成型色が紺色だったので、白サフをして黄色(山吹色+白)で塗装しましたが、成型色になかなか合わせられず、適当なところで諦めました(完成するとそれほど目立たない)。胴体は、前後を貼り合わせる「もなか構造」なので、筆塗りで細かく塗り分ける必要がありました。面相筆で塗っては、はみ出た部分をやすったり、化学薬品で拭いたりと苦労の連続で、途中で投げ出したくなるも、「ここで諦めたら、残りの人生でZガンダム見るたびに後悔するぞ」と己を鼓舞して、何とか踏みとどまりました。筆塗りは筆の性能(筆の手入れ)が勝敗を決めるということも強く教え込まれました。TAMIYAの面相筆はさすがによい製品です。胸板は暗い青の予定だったけど、修整しやすいようにと、手持ちのフラットブルーで仕上げました。肩の「百」ですが、35年前のキットのためか、デカールが台紙からぴくりとも剝がれませんでした。結局、現行キットのデカールをネットで手に入れて貼ったのだけど、少し小さいですね。これ以上どうしようもないので、これで良しとしました。古いキットのためちょっと不格好ですが、設定画像をよく再現しようとしており、自分としては大変気にっています。プラモをやっていると、できないものはどうあがいてもできないので、自分のできる範囲で納得してそれに満足する、という思考回路が太くなるのを感じます。的外れかもしれないけど、チベット密教の僧侶が修行としてマンダラの砂絵を書くような心持ちです。現在はゾック(旧キット)を作成中です。


断酒のデメリット?

2021-06-21 | Weblog
酒を完全に辞めてから5ヶ月になる。面白いもので、全く飲みたくならない。あれだけ酒好きたったのにもかかわらずだ。断酒は心にも身体にもメリットばかりなのだが、1つだけデメリット?みたいなことを発見した。アルコールによって脳が全く曇らないため、起きている時間の全てが積極的な活動時間となる。すると、より体力を使うことになるので、疲労が増す(眠気がコマ目に来る)。これがデメリットみたいなものである。しかし、その眠気を一度やり過ごすと再びヤル気モードになる。例えば寝る前であっても、何かの拍子で脳が覚醒し、もう少し本を読もうとか、新しいプラモを作ろうとかいう気になる。起床時もそうだ。つまり、暇な時間を無為にボンヤリと過ごすことが少なくなったということだ。三十年近くも絶え間なく飲んできた。酒で得られた幸せな時間も多かったが、酒のせいで失った時間や低下させた生産性も甚大なものだった。すでに後半戦にどっぶり入っている人生。いつジ・エンドがやってくるかわからない。体力をつけながら、やりたいことを躊躇なくやっていきたい。酒はもういらない。

バレンボイム専用ピアノ

2021-06-17 | Weblog
バレンボイムの考案で製造された彼専用のピアノ「BARENBOIM」に対する記事を見つけた。私が感じたことそのままである。私も古い時代のピアノフォルテのもつ透き通って素朴でギラギラしていない音色は好きである。その音色観をグランドピアノに・・という発想もよく理解できる。しかしながら、録音と生演奏で聞いたバレンボイムの弾く「BARENBOIM」の音色に、全く魅力を感じなかった。
とかく近年は、あらゆることが「コンセプト」や「背景」で評価される場合が多い(建築、美術、現代音楽・・)。大物が動けば、それだけで評価されてしまう・・・いやそれは違うだろうと。何事においても「ブツの出来」で評価されるべきと常に考える。自分の感覚で自分で判断を下す。巨匠がやってるから、みんなが褒めてるから(マスコミが持ち上げているから)いいものなんだろうな・・では消費社会の豚でしかない。
引用
最近ベルリンで開催された演奏会で、バレンボイムが弾くこのピアノの響きを体験した音楽家たちに取材したところ、異口同音に「音がキツすぎる」という声が聞かれた。おそらく、中低音域の響きがクリアとなったことと引き換えに、すべての音が独立して聴こえすぎてしまい、結果として音同士が混ざり合わず、衝突してしまっているのであろう。「新方式のピアノ」には、それにふさわしい奏法の習得が必要というわけだ。

引用元「バレンボイム・メーン・スタインウェイ

バレンボイムよさらば

2021-06-14 | Weblog
 35年前からピアニスト・バレンボイムを生で聞くことを熱望していた。先日、その願いがついに叶ったわけなのだが、なんと演奏会は曲を間違えることから始まった。Beethoven Sonata No.1のはずがNo.30を弾き始めたのだ(これは翌日のプロ、実は翌日のチケットも持っていた)。続けて31番。休憩後のアナウンスのあと32番。最後にバレンボイムがマイクで「すみません間違えました。でもよかったでしょ?次来るときには必ず弾きます!」これで大喝采、スタンディングオベーションという茶番でした。80歳近いということで、それなりの技術低下を予想していたが、大事な早回しでは、ことごとく指がもつれ、途中で記憶が飛んだのか?と思うくらいの危険な間があった上に、突然爆撃のようにドカーンと和音を叩きつけて、ペダルを長時間踏むので濁った音がワンワンと響きつづけたので、私は演奏会中ずっと渋面が耐えなかった(逃げたくなった)。バレンボイムに限らずだが、私はペダル過多の演奏が嫌いで、最近は古楽やVnソロをよく聞くためか、無遠慮なペダリングで鳴り続ける汚い和音がより神経に触るようになった。さらには、バレンボイムご自慢の新型のスタインウェイが、スタインウェイの悪いところ(高音キンキン、資本主義の音)を強化したような音質で、全く私の好みではなかった。演奏はふんだんに劇場型であり、特に32番の2楽章は無駄に冗長で閉口した。バレンボイム独得のあの柔らかい弱音はさすがだったが、あまりに演技過多で乗っていけなかった。最後のソナタだからといって絶筆のように弾く必要はない(Beethovenはこの後5年生きて、第九やミサソレなど沢山の曲を作った)。バレンボイムの指揮は「魂のないフルヴェン」とよく揶揄されたが、その言葉が何度も頭をかすめた。
 それにしても、あの演奏で大喜びする聴衆はいったい何を聞いているのか?相手が超大物で、それに高いチケット代金を払ったがために、無意識のうちに名演奏として納得しないと気が済まない回路でも作動してしまうのだろうか?このコロナの中、わざわざ日本に出向いてくれたことには心から敬意を表するが、やはり聴衆は演奏に対してきちんと批判精神をもって臨むべきだ。「日本の観衆のレベルは世界でも最高で・・」というバレンボイムのマイクだったが、これに何か裏の意味を感じてしまうのは私のひねくれのせいだろうか。最後は同調圧力のようにスタンディングが始まったので、一緒に立つ振りをして席を離れ、そのままホールを後にした。さらばバレンボイム(この演奏会は返金対応となった)。

40年ほど前のバレンボイム演奏(13歳のときNHKで放送され、視聴してファンになった。今でも熱情の最高の演奏の一つと思っている。10年ほど前にやっとBlu-ray化された)
Barenboim: Beethoven - Sonata No. 23 in F minor, Op. 57 "Appassionata"

アクロイド殺し

2021-06-04 | Weblog
「アクロイド殺し」をやっと読了した(外でまとまった時間がとれたので)。実は真犯人は早い段階でわかった(デジャブを感じるので、もしかすると若いころに読んだのかもしれないが・・・)。盟友のヘイスティング大尉をあえて登場させず、同じ役回りにヘイスティングに似た紳士を持ってきたあたりで、これは怪しいと勘づくのが普通だろう。本作の最大の面白いところは、全てが真犯人の独白(記録)という形で書かれていることである。当然、真犯人の行動に関する重要事項はぼかされているのだが、実はそのぼかしに謎を解くカギがある。書き手が真犯人だろうと勘づいて読んでいくと、あちらこちらに伏線があってそこがまた楽しい。それが本作の醍醐味だと思う。真犯人は事件後にポアロ失敗談として出版を考えていたようだが、自分の行動にしても嘘は書かず、文章表現を駆使してできうる限り事実を記録をしたと言っている。完全な事実の積み上げの中に自分の犯行をひっそりと埋没させる完全犯罪を目論んだわけである。この作風が読者に対してフェアなのかアンフェアなのかという論議があったようだが、それは読み手の「読解力」にかかっているのだと思う。

wikipedeiaの記事だが、あの小林秀雄は以下のように「アンフェア」だと腐している。
「いや、トリックとはいえないね。読者にサギをはたらいているよ。自分で殺しているんだからね。勿論嘘は書かんというだろうが、秘密は書かんわけだ。これは一番たちの悪いウソつきだ。それよりも、手記を書くと言う理由が全然わからない。でたらめも極まっているな。あそこまで行っては探偵小説の堕落だな。」「あの文章は当然第三者が書いていると思って読むからね。あれで怒らなかったらよほど常識がない人だね(笑)。」

小林秀雄・・・文章は書けるけど、数学は解けないような人だったのかな?


インタビュー

2021-06-01 | Weblog
iPod復活:完全に無反応となり、2か月ほど前に死亡宣告されたiPod classics だが、天からの声が聞こえたので、ふと充電ケーブルを指してみたら、いきなりリンゴマークが現れて復活を果たした。一体なんだったのだろうか?何か悪い電気??でも溜っていたのだろうか?

テニスで会見しないことが問題となっているが、なぜスポーツに会見が必要なのか?客はアスリートの鍛え抜かれた技を見に来ているわけで、喋りを期待しているわけではない。演奏家に対してもそうだ(最近は音楽家も演奏だけではなく、見た目や喋りも大事と言われている)。これは完全にスポンサーの意向だろう。まあ、スポンサーが出す金で大会が運営され、選手もそれで潤っている面も大きいから、インタビューくらい卒無くやっておけ(イメージ下げるなよ)ということなんだろうが。そういうことなんだから、下手な個人意見など発せず「これからも頑張ります、応援よろしくお願いします」を繰り返しておけばいいのに。なんてことは、何もつきつめてやっていない私のような凡人の考えなんだろうが。