Wilhelm-Wilhelm Mk2

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ポランスキーの「吸血鬼」

2004-12-21 | Weblog
遂に念願のDVDが発売され手に入れた。一昨年にアカデミー賞を受賞したロマン・ポランスキーが若い頃(40年前)に監督(そして出演)した「吸血鬼」だ。原題は「The Fearless Vampire Killers or Pardon me, but your teeth are in my neck.」という長いものだが、要はドラキュラ映画のパロデイ化したコメディ映画だ。といっても私の知る限り、これは吸血鬼映画の最高傑作でもある。簡単にあらすじを述べると、アブロンシウス教授と助手のアルフレッド(ポランスキー)は長い旅の果てに、トランシルヴァニア山中の村で吸血鬼の存在を遂に確信する。宿中がニンニクだらけだったこと、そしてその宿屋の美しい娘(シャロン・テイト)が自由に外出できないほど厳重に閉じ込められていたからだ。その娘に一目惚れしたアルフレッドが彼女の入浴を覗き見していたところ、天井窓から老紳士が舞い降り彼女を攫っていてしまった。彼女の奪還と吸血鬼退治に向かった2人は、ついに古城を見つける。そこでは親玉であるクロロック伯爵を中心に夜な夜な吸血鬼達が舞踏会を開いていた!
まずなにより素晴らしいのは、セットとカメラワークだ。トランシルヴァニアの寒村の風景、息を飲むほど美しいが決して人智の及ばない雪原山中の描写。そして古城。古城内の空間の魅せ方が素晴らしいの一言。複雑でいりくんだ回廊や階段、尖塔や中庭。映画全体にも惚れたが、私はこの城にまず惚れました。配役も素晴らしい。アニメから飛び出して来たかのようなコミカルな教授(ジャック・マクゴウラン)、インテリさと残虐さを併せ持った吸血鬼クロロック伯爵(顔がカラヤンに似ている!)。そしてシャロン・テイトの美しさとポランスキーのマヌケな演技!さらには、宿屋の主人は娘を救いにいくものの返り討ちにあい吸血鬼になってしまうのだが、彼はユダヤ人だったため他の吸血鬼のように十字架を全く恐れないとか、クロロック伯爵の一人息子(勿論、吸血鬼)がホモで、アルフレッドに気をもってしまい追い回すとか、普通の吸血鬼映画にはありえない面白い伏線がありまくり。どの場面を切り出しても工夫に工夫が見られすぎてこんなに充実している映画はみたことがない!私は学生時代に(まあ今も学生みたいなもんだが)レンタルビデオでこの映画をみて感銘をうけ、どうしても自分の手元におきたく、オークションで廃盤だったビデオをせりおとしたくらいだ。そして先月、遂に国内版のDVDが発売されたわけで、帰国と同時にアマゾンに注文してしまった。うーんやはり画質がいい。
知っている人は多いかもしれないが、この映画には悲しい後日談がある。撮影後、ポランスキーとシャロンは結婚するのだが、その3年後、彼女は自宅でカルト宗教の集団に殺害されてしまうのだ。(彼女は妊娠していたのだ。)そしてポランスキーが世間でいう「鬼才」ぶりを発揮しだすのはこの後からだと思う。「戦争のピアニスト」で彼はその映画の前半をひたすらナチスによるユダヤ人迫害の描写にあてた。自らが体験したナチスの非道さを改めて現代の人々にさらすことで、人種差別や戦争に対する一つの抵抗とも見て取れるが、私には、これはポランスキーがこの現世には「不可抗力な力」が存在することを観客にぶつけているのだと感じられてならなかった。何も縁のないカルト教によって彼が妻と子を失った事も、ユダヤ人の人々がナチスに意味もなく虐殺されたことも、この世の「不可抗力的な現実」であって、逃げる事も予想することさえもできない。そこには「正も悪」もなくただ冷たい現実があるだけ、これがこの世の正体なんだと。しかし、映画のクライマックスで一つの「奇跡」を魅せることで「逆の現実」もあるということを示している。
話はそれてしまったが(「ピアニスト」については次回もっと書きたい)、ポランスキーの底なしの才能が、最も健康的に開花している作品こそがこの「吸血鬼」なので、見た事の無い人は是非この機会に鑑賞してみてください。ドイツでは数年前にポランスキーの監督のもと、ミュージカル化されてロングランを続けているとか。

フルトヴェングラーとギーゼキング

2004-12-16 | Weblog
また例によってごそごそと箱をあけてCDを物色。そして今聴いているのは、フルトヴェングラーとギーゼキングによるシューマンの協奏曲だ。これはいわゆるDGから発売されたベルリンライブ1942-1944といわれる戦時中の録音で、ドイツ敗戦時にソ連が応酬してしまったテープからのコピーである。(この音源からは様々な版が発売されており、結局どの市販品が一番ましなのかは私は知らない)演奏はフルヴェンらしく実にロマンティックなものだ。私の宝物であるバックハウスのものとは正反対の演奏であるが、何度も繰り返すがフルヴェンのロマン的というのは、ただのテンポの揺らしだけでなく、音楽作品のもつ自然な流れを際立たせるものであり、この演奏においてもそれが見事に結実している。ほんと、フルヴェンの演奏で「はずれ」にあたったことがない。この説得力なんだよな、うん。
さて、ギーゼキングだがこの演奏では異様にミスタッチが多い。ギーゼキングといえば天才肌のテクニシャンなのだがこの時は調子が悪かったのだろうか?フルヴェンと彼の間には友情関係があったのかどうかはしらないが、演奏を聴く限りはなかなかシンクロしている。音質が悪いので細部はわからないが、ギーゼキング独特の温かい音と粒の揃った音色はしっかり聴こえる。私は彼のドビュッシーの録音がお気に入りなのだが、同時代のバックハウスともケンプとも全く違う系統なドイツ奏者だと思う。うまく言えないが、「万能型」ではあるが、決して「何でもタイプ」ではない。作曲家ごとにきちんと表現を切り替えれる希有な奏者と思っている。批評本では、彼を「新即物主義」とし、「神業のテクニックをもつが無機的で冷たい」と評している。しかし、私は全くそうは思わない。彼のモーツァルトなぞは非常に温度があって愛らしいし、この演奏もフルヴェンの表現にきちんと噛み合わせてかなり大時代的ロマンチシズムを漂わせて演奏している。
ギーゼキング自身はかなり変わった人だったようで、蝶の収集が趣味で演奏旅行にさえ虫取り網を携えていたようだ。また、彼は初見の天才で、新曲なども譜面を眺めるだけで最初の段階ですらすらと弾けてしまったようだ。バックハウスやケンプが「求道者」「哲学者」のようなおもむきが会ったのに対し、ギーゼキングはその巨漢と恐るべき才能からか、「怪物」扱いされているような気がしないでもない。

アシュケナージのラフマニノフ

2004-12-12 | Weblog
日本に帰ってきて、一応生活の基盤作りが一段落したので、押し入れをごそごそ漁って米国で聴きたかったCDを聴いてみる事にした。まずはラフマニノフのピアノ協奏曲の3番。実は帰国直前に、ロスフィルの演奏会でこの曲を聴いたのだが、もう酷い演奏で、ドナドナの子牛のようなテンポで小太りのオジさんが弾いていた。名前は忘れたがアメリカのどっかの大学の先生で、見た目にも年寄りで腹も出ており、この超難曲を鮮やかに弾いて魅せるような柄でない。実際、難所になるといきなりスローダウン。音色の変化も全く無し(強弱さえも!)。なのに弾き初めはもったいつけて指の運動をしたり、弾き終わりはバーンと手をあげたりし、最後には立ち上がって万歳したりと、もう私は失笑を通り越して怒りさえ沸き上がって来たものだ。しかし、当日の客は大喜びで全員がブラボーの合唱にスタンディングオベーション。アメリカ人の浅はかさを最後まで十分に見せてもらったってところだった。まあ盛り上がれば何でもいいのだろう。
そして今、アシュケナージの演奏を聴いている。うーん、さすがだ。前の書き込みで結構辛口に書いたが、いやさすが。このテンポ感ですよ!流麗さと熱気。実際アシュケナージの硬質な音質がこの曲にはマッチしているように思う。テクニックも問題なく聴こえる(といっても細部は私はわからないが)。またハイティンクの絶妙のあわせとコンセルトヘボウの絹のような響きが、更にピアノのヴィルトオーゾ性を顕著にしている。なんでアシュケナージは指揮なんかに走ってしまたのだろう?
そういえば、この曲を初めて全曲通して聴いたのは、チャイコフスキーコンクールでベレゾフスキーが弾いた時だった。確か本選の最後だったように記憶しているが、あの時の衝撃は結構今でも覚えてる。初めての曲を聴く時は、大体どんな演奏でも感動するものだが、コンクールという特別な状況での演奏ということで、ベレゾフスキーが汗だくで全身全霊で弾いていたのが今でも脳に焼き付いている。そして、感極まった客が最後のコーダのところで眼鏡を外して涙を拭うシーンも覚えている。今でも自分のなかではあれがこの曲のいベストの演奏だ。確かビデオに残してあったはずだ。いつか探してみてみよう。