次の演奏会で「プラハ」を弾くので、最近よくプラハを聴きます。うーん名曲だよなあ。朝に学校でこれ聴くと、なんか元気が’でます。モーツァルトはこの曲の前に交響曲を4年も書かなかったそうで、満を持しての一曲というところですか。モーツァルトの全ての曲の中でも一番「粋」な曲ではないかな?スピード感もあるし、展開部でのシンコペーションはジュピターにつながる後期交響曲への布石以上の集密度で曲を盛り上げてくる。この曲はさらっていても本当に楽しい(D-dur だし)。ああ、モーツァルトって本当に天才だなと思わされる一曲です。お気に入りの演奏はクーベリック=チェコフィルの高速な演奏。ちなみに私の尊敬する(祀り上げる)作曲家は、ベートーヴェンとモーツァルトとショパンの3人のみ。
最近、「グレート」を色々と聴き比べている。ガーディナー=ウィーンフィルのライブを聴いてみた。素晴らしい演奏だった。ガーディナーのきめ細やかな解釈の上に成り立った透き通った響きにライブ特有の熱気もあり名演奏だと思う。しかし、やはりフルヴェンの演奏には全くもっておよばない。何が違うのか?「精神性」といってしまえばそれまでだが、もっと現実的な面でいえば「低音の迫力」だと思う。グレートの4楽章に現れる4連発の音型は、恐らく弦楽器はオールダウンのボーイングで弾いていると思うが、フルヴェンの演奏ではここが地鳴りというか大砲というか「これでもか」とばかりにバスが響く。実際にフルヴェンがコントラバスの配置にこだわっていたという話を聞いたこともある。他のフルヴェンの録音をどれを聞いてもバスはよく聴こえる。てか聴こえ過ぎ?普通の倍は強化されているようだ。カラヤン時代に有名なベルリンフィルの重低音は、フルヴェン時代にすでに形成されていたといってもいい。
ガーディナーを初めアバド、ラトルのような最近の指揮者は、低音をスマートにすることで全ての音が透き通って響くように勤めている。恐らくこれは肥大に肥大を重ねたカラヤンオーケストレーションに対する一種の反動なのだろうが、フランスものはともかく、ドイツものはやはりバスの迫力があればあるほど説得力がある。というより、ベートーヴェンやブラームスはあからさまにバスのパートを強化しているのだから。これからフルヴェンを鑑賞する時は、是非低音を気にして聴いて頂きたい。
ガーディナーを初めアバド、ラトルのような最近の指揮者は、低音をスマートにすることで全ての音が透き通って響くように勤めている。恐らくこれは肥大に肥大を重ねたカラヤンオーケストレーションに対する一種の反動なのだろうが、フランスものはともかく、ドイツものはやはりバスの迫力があればあるほど説得力がある。というより、ベートーヴェンやブラームスはあからさまにバスのパートを強化しているのだから。これからフルヴェンを鑑賞する時は、是非低音を気にして聴いて頂きたい。
やはりスターウォーズと言えば、これが最高傑作ですな。なんといっても特撮が凄過ぎ。無数のスターデストロイヤー(写真)の中をファルコン号がきりもみして飛ぶシーンとか、隕石群のシーンとか、雲の惑星の浮遊都市とか、氷の星とかダゴバ星とか、もう宇宙の広さを感じまくりで何度観ても飽きません(まあ通算で100回は見てるはず)
しかし、私が持っているビデオは「非常に」残念なことに、狂ったとしか思えないGルーカスが、「特別編」という名のもとに不必要な場面を無数に挿入した「劣化版」でして、あちこちに近年の新しいシリーズに見られる「下手くそ」なCGシーンが使われてるのが非常に残念。公開当時の版をDVDで出してくれないかなあ。どうみたって、ミニチュアを使いまくって手作り感のある(人間の技術力が感じられる)昔の3部作のほうがリアリティがあるし、ストーリーも脚本も演出も(俳優も)よく出来ている。手書きの背景のほうがCGよりも本物っぽく見えるとは!ルーカスは気付いた方が好いですな、たくさんの情報をバカ正直に詰め込むことがリアリティの追求にはならないということにね。オペラの舞台装置なぞ、近くで見たらかなりお粗末なんだけど、客席からみればもう素晴らしいわけで。それにこの2作目は監督がルーカスでなく、アービンカーシュナーというのがいい!(ルーカスの監督としての力量は酷いものです)平行して進行する話を、全く矛盾なく飽きさせる事無く演出しています。
この夏に最終作が公開されますが、正直全然期待してない。これまでの2作があまりにも「駄作」だったからねえ。まあ一応見にはいきますが。
しかし、私が持っているビデオは「非常に」残念なことに、狂ったとしか思えないGルーカスが、「特別編」という名のもとに不必要な場面を無数に挿入した「劣化版」でして、あちこちに近年の新しいシリーズに見られる「下手くそ」なCGシーンが使われてるのが非常に残念。公開当時の版をDVDで出してくれないかなあ。どうみたって、ミニチュアを使いまくって手作り感のある(人間の技術力が感じられる)昔の3部作のほうがリアリティがあるし、ストーリーも脚本も演出も(俳優も)よく出来ている。手書きの背景のほうがCGよりも本物っぽく見えるとは!ルーカスは気付いた方が好いですな、たくさんの情報をバカ正直に詰め込むことがリアリティの追求にはならないということにね。オペラの舞台装置なぞ、近くで見たらかなりお粗末なんだけど、客席からみればもう素晴らしいわけで。それにこの2作目は監督がルーカスでなく、アービンカーシュナーというのがいい!(ルーカスの監督としての力量は酷いものです)平行して進行する話を、全く矛盾なく飽きさせる事無く演出しています。
この夏に最終作が公開されますが、正直全然期待してない。これまでの2作があまりにも「駄作」だったからねえ。まあ一応見にはいきますが。
フルトヴェングラーは実は作曲家になりたかったというのは有名な話です。マーラーのようなスタイルを求めていたのでしょうか?マーラーも最初は指揮者、そしてその後で作曲家として成功します。フルトヴェングラーは3つの交響曲を残していますが(1番は失敗作、3番は未完)、ピアノ協奏曲も作曲しています。正式には「ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲ロ短調」です。全曲の録音は写真のPILZから出ている作曲者とその盟友であるE. フィッシャーとのライブ録音だけしかないかと。バレンボイムが何度か弾き振りをして演奏会で取り上げているようですが、確か録音はなかったと思います。
曲は3楽章構成ですが、なんと1楽章だけで31分!全部通すと1時間以上の大曲です。曲の雰囲気はブルックナーのようにうねうねしながら頂点を目指す感じで、全体的に重苦しい曲です。うーん正直なところ、これはフルヴェンファンくらいしか聴かないかな。それでも1楽章はテーマがしっかりしていて、楽章の最後はなかなかアグレッシブで格好いいのですが、3楽章はちょっと支離滅裂に聴こえます。クライマックスは迫力はあるのですけどね。ピアノパートは結構難しいらしいのですが、交響的協奏曲と名売っているだけあって、あくまでオーケストラの一部の響きとして処理されており、カデンツァとかヴィルトウォーゾ的な見せ場はありません。
2番交響曲もこういう陰鬱な曲だったし、フルヴェンの音楽へのアプローチって絶対「陰」から入っていると思うのですよね。そしてそこから明るい所へ目指すと言うか向けだすと言うか。このあたりの「大カタルシス」がフルヴェンの真骨頂なのでしょうが、この作品にも、最後の最後になってそういう輝かしい「勝利」というものがぼんやりと描かれてます。でもなぜか抜けきらずまた陰鬱な世界に帰って行き消え入るように(てか何だかわからず)終わります。
曲は3楽章構成ですが、なんと1楽章だけで31分!全部通すと1時間以上の大曲です。曲の雰囲気はブルックナーのようにうねうねしながら頂点を目指す感じで、全体的に重苦しい曲です。うーん正直なところ、これはフルヴェンファンくらいしか聴かないかな。それでも1楽章はテーマがしっかりしていて、楽章の最後はなかなかアグレッシブで格好いいのですが、3楽章はちょっと支離滅裂に聴こえます。クライマックスは迫力はあるのですけどね。ピアノパートは結構難しいらしいのですが、交響的協奏曲と名売っているだけあって、あくまでオーケストラの一部の響きとして処理されており、カデンツァとかヴィルトウォーゾ的な見せ場はありません。
2番交響曲もこういう陰鬱な曲だったし、フルヴェンの音楽へのアプローチって絶対「陰」から入っていると思うのですよね。そしてそこから明るい所へ目指すと言うか向けだすと言うか。このあたりの「大カタルシス」がフルヴェンの真骨頂なのでしょうが、この作品にも、最後の最後になってそういう輝かしい「勝利」というものがぼんやりと描かれてます。でもなぜか抜けきらずまた陰鬱な世界に帰って行き消え入るように(てか何だかわからず)終わります。
グレートを弾くことになりそうなので、勉強も兼ねて久々に聴く。フルヴェンのグレートといえば、1951年のスタジオ録音がグレート録音史上最高のぶち抜けた演奏なのだが(音質も奇跡的にいい)、今聴いているのは1943年のストックホルムでのライブ録音(協会盤)。こちらのほうが1楽章の巻き上げや終楽章での叩きこみが激しくて、フルヴェン特有のライブ感を堪能できる。しっかし、グレートはいい曲だなあ。
寝違えた背筋が、猛烈に痛くなったので早退。
帰りがけに購入した「バレンボイム/サイード 音楽と社会」を読む。
イスラエル人の指揮者バレンボイムとパレスチナ人の評論家サイードの対談集だが、中東問題から、音楽と文学の相似と差異、ベートーヴェン、フルトヴェングラー論までとかなり深い問答集。バレンボイムの語る譜面のアプローチ法やオーケストラ論に非常に共感。例えば、
「特定の用語を使った連想には限界がある。たとえば救済、栄光、革命、こういう言葉が持ち込む危険は、音楽を観念の説明に使ってしまうことだ。絶対音楽の真の表現は、音の世界で、音そのものの関係に見いだされるべきだと思う。」
あとはゲーテの話も。
「ゲーテにとって芸術とは、「他者」へ向かう探検であって、自己に専心するものでなかった。現代はアイデンティの確認、ルーツの必要性、自分の文化の価値観や帰属意識に目が向けられている。自己を外に投影してより広い見識をもとうとすることはきわめてまれだ。」
書中でよく引き合いに出されているのに刺激されて、これからフルヴェンの「トリスタン」を聴いて寝るとします。
帰りがけに購入した「バレンボイム/サイード 音楽と社会」を読む。
イスラエル人の指揮者バレンボイムとパレスチナ人の評論家サイードの対談集だが、中東問題から、音楽と文学の相似と差異、ベートーヴェン、フルトヴェングラー論までとかなり深い問答集。バレンボイムの語る譜面のアプローチ法やオーケストラ論に非常に共感。例えば、
「特定の用語を使った連想には限界がある。たとえば救済、栄光、革命、こういう言葉が持ち込む危険は、音楽を観念の説明に使ってしまうことだ。絶対音楽の真の表現は、音の世界で、音そのものの関係に見いだされるべきだと思う。」
あとはゲーテの話も。
「ゲーテにとって芸術とは、「他者」へ向かう探検であって、自己に専心するものでなかった。現代はアイデンティの確認、ルーツの必要性、自分の文化の価値観や帰属意識に目が向けられている。自己を外に投影してより広い見識をもとうとすることはきわめてまれだ。」
書中でよく引き合いに出されているのに刺激されて、これからフルヴェンの「トリスタン」を聴いて寝るとします。
2003年のアバド指揮によるルツェルン祝祭管弦楽団の「復活」DVDを鑑賞。
ルツェルン音楽祭は70年前にアンセルメらによって始められ、
トスカニーニやフルトヴェングラー、カラヤンも参加し、
ザルツブルグ音楽祭にならぶ欧州の有名な夏の音楽祭だが、
今回の祝祭管弦楽団は、アバドが長年指導してきたマーラー室内管弦楽団を母体に
欧州の一流奏者を招きいれてつくられた、まさに「スーパーオーケストラ」
世界には、名手達による「一発記念オーケストラ」というものがよくあるが、
こういった寄せ集めオケは、なぜかまとまりに欠けており(特に音質上で)
結局は、打ち上げ花火のような演奏会で終わるのだが、
このアバド=ルツェルンオケの場合は、
母体のマーラー菅に「補強」という形で名手が参加しているので
オケの方向性がしっかりと定まっている感じが非常に強い。
呼ばれた名手も根本的にアバドの指揮に「慣れ親しんでいる」奏者が多く、
さらに日頃から室内楽で顔をあわせているメンバーばかりなので
アンサンブルが非常にきめ細かく流麗だ。(アバド時代のベルリンフィルよりもだ)
アバドは、ベルリンフィルの監督時代はカラヤン色を塗り替えることに必死で、
実力の半分もだせなかったような感じがあるが、
(就任前の録音のほうが名演が多いと思う)
本当はこういう音楽をしたかったんだなと再認識。
それにしてもこの曲の最後の合唱部、
「永遠に生きるためには一度死なねば成らない」
というくだりはいつも目頭が熱くなる。
ルツェルン音楽祭は70年前にアンセルメらによって始められ、
トスカニーニやフルトヴェングラー、カラヤンも参加し、
ザルツブルグ音楽祭にならぶ欧州の有名な夏の音楽祭だが、
今回の祝祭管弦楽団は、アバドが長年指導してきたマーラー室内管弦楽団を母体に
欧州の一流奏者を招きいれてつくられた、まさに「スーパーオーケストラ」
世界には、名手達による「一発記念オーケストラ」というものがよくあるが、
こういった寄せ集めオケは、なぜかまとまりに欠けており(特に音質上で)
結局は、打ち上げ花火のような演奏会で終わるのだが、
このアバド=ルツェルンオケの場合は、
母体のマーラー菅に「補強」という形で名手が参加しているので
オケの方向性がしっかりと定まっている感じが非常に強い。
呼ばれた名手も根本的にアバドの指揮に「慣れ親しんでいる」奏者が多く、
さらに日頃から室内楽で顔をあわせているメンバーばかりなので
アンサンブルが非常にきめ細かく流麗だ。(アバド時代のベルリンフィルよりもだ)
アバドは、ベルリンフィルの監督時代はカラヤン色を塗り替えることに必死で、
実力の半分もだせなかったような感じがあるが、
(就任前の録音のほうが名演が多いと思う)
本当はこういう音楽をしたかったんだなと再認識。
それにしてもこの曲の最後の合唱部、
「永遠に生きるためには一度死なねば成らない」
というくだりはいつも目頭が熱くなる。
さきほど、堀江社長がテレビ局に連続出演していましたが、
結局、堀江が何をやりたいのか、全然わかりませんでした。
「新しい可能性のあるメディア」「双方向性」ばかりいって、
結局、普通のインターネットとどう違うの?っての。
あそこまで具体案ないとは。あれは隠しているのでなく「ない」んだな。
筑紫の「結局、今の民放テレビと何が違うの?」って質問につきるよ。
それに自分から「奇襲」して、人の会社の経営権を握ろうとしているのに、
今になって「こちらは仲良くしたい」とか「相手が話し合いをもってくれない」とは!
泥棒と話し合いするわけないだろ!
「自分のしたいことがどうしてもあるので、絶対にニッポン放送が欲しい!」
ぐらい言えよ。この土壇場になんなんだよ、その変わり身は!
おまえけにテメエが昔に言ったことも、
「言ってない」とか「アノ時ちょっと口にだしただけ」
とか言って、最期は「もう勘弁してくださいよ!」かよ!もう何なんだか。
ネットなら不利な意見も簡単に「削除」てきるから好いってのか?
追いつめられてるのでしょうけど、まあ今日で本当にメッキがはがれましたね。
非常に不愉快な夜でした。
結局、堀江が何をやりたいのか、全然わかりませんでした。
「新しい可能性のあるメディア」「双方向性」ばかりいって、
結局、普通のインターネットとどう違うの?っての。
あそこまで具体案ないとは。あれは隠しているのでなく「ない」んだな。
筑紫の「結局、今の民放テレビと何が違うの?」って質問につきるよ。
それに自分から「奇襲」して、人の会社の経営権を握ろうとしているのに、
今になって「こちらは仲良くしたい」とか「相手が話し合いをもってくれない」とは!
泥棒と話し合いするわけないだろ!
「自分のしたいことがどうしてもあるので、絶対にニッポン放送が欲しい!」
ぐらい言えよ。この土壇場になんなんだよ、その変わり身は!
おまえけにテメエが昔に言ったことも、
「言ってない」とか「アノ時ちょっと口にだしただけ」
とか言って、最期は「もう勘弁してくださいよ!」かよ!もう何なんだか。
ネットなら不利な意見も簡単に「削除」てきるから好いってのか?
追いつめられてるのでしょうけど、まあ今日で本当にメッキがはがれましたね。
非常に不愉快な夜でした。
サントリーホールで聴いてきました。率直な感想は「いい演奏会だった!」です。ベルリン交響楽団はもともと東ドイツ時代にベルリンで作られたオケですが、最近は団員を若返らせて、数年前に就任したインバルの「ベルリンフィルに近づく」という号令のもと、随分と実力を増して来ているようです。
実際、今日の演奏会、マーラーの9番というオーケストラの技量がもろに問われる難曲をミスも殆どなく、随分と分厚く、その上輝きのある音で演奏してくれました。ホルンとコンマスのソロはブラボーものでしたね。あと前プロがなかったせいか、1楽章はオケ自身がちょっと乗り切れなかった感があったのですが、2楽章の冒頭を、セカンドバイオリンが気合いの入った音で弾き始めてかた、がらっと雰囲気が変わりました。2ndVnは若い奏者が目立ちましたが、その若さが好い方向に働いたようですね。チェロの前のほうも随分と燃えてましたね。木管は特にフルートとエスクラが良かったです。
指揮者のインバルといえば、フランクフルト放送響を率いて、マーラーブームの先駆けを作った人ですが、もう70歳近くでどこか体調が悪いのか、楽章間は椅子に座って水を補給したりと、
見ているほうは随分と心配しましたが、指揮を振っている最中はかなり力強く集中力が途切れませんでした。3楽章は冒頭からいいテンポで、コーダの加速は絶品。鳥肌がたちました。終楽章は、一般的な「死」を感じさせるような枯れた演奏には終始せず、オーケストラの能力を十分に発揮させて「生命力のある」演奏でした。パンフにもあったのですが、マーラーは9番で絶筆したわけでもないので(10番を書いてる)「死」の解釈にこだわる必要なないのではという意見にはちょっと賛成です。この観念に固執しすぎて、指揮者も奏者も変に空回りし、実の薄い演奏をよく聴くのですが、今日の演奏のように、「合奏」という観点でまず音楽を素直に構築しても、この楽章は十分に表現できるのではないかなと。
残念だったのは1階席がガラガラだったこと。スポンサーや主催者はもう少し考えたほうがいいですね。宣伝とか。あれだけの名演奏を聴かせてくれたのに、ちょっと奏者には気の毒でした。それほど高いチケットでもないし、インバルでマラ9なら絶対入ると思うのだけど、平日ってのが不味かったのですかね?みんな先月のバレンボイム=シュターツカペレに投資しすぎたか?(ああ、これかも)しかし、今日のお客さんは「本当に聴きたい」人たちばかりだったような感じで、団員の入場の際の拍手とか、最期の音の余韻の楽しみ方とか、スタンディングオベーションとか非常に温かく会場の雰囲気を演出していました。ほんと、私も久しぶりに最期までのこって心から拍手しました。次はベルリンの本拠地(シャウシュピールハウス)で聴きたいものです。
実際、今日の演奏会、マーラーの9番というオーケストラの技量がもろに問われる難曲をミスも殆どなく、随分と分厚く、その上輝きのある音で演奏してくれました。ホルンとコンマスのソロはブラボーものでしたね。あと前プロがなかったせいか、1楽章はオケ自身がちょっと乗り切れなかった感があったのですが、2楽章の冒頭を、セカンドバイオリンが気合いの入った音で弾き始めてかた、がらっと雰囲気が変わりました。2ndVnは若い奏者が目立ちましたが、その若さが好い方向に働いたようですね。チェロの前のほうも随分と燃えてましたね。木管は特にフルートとエスクラが良かったです。
指揮者のインバルといえば、フランクフルト放送響を率いて、マーラーブームの先駆けを作った人ですが、もう70歳近くでどこか体調が悪いのか、楽章間は椅子に座って水を補給したりと、
見ているほうは随分と心配しましたが、指揮を振っている最中はかなり力強く集中力が途切れませんでした。3楽章は冒頭からいいテンポで、コーダの加速は絶品。鳥肌がたちました。終楽章は、一般的な「死」を感じさせるような枯れた演奏には終始せず、オーケストラの能力を十分に発揮させて「生命力のある」演奏でした。パンフにもあったのですが、マーラーは9番で絶筆したわけでもないので(10番を書いてる)「死」の解釈にこだわる必要なないのではという意見にはちょっと賛成です。この観念に固執しすぎて、指揮者も奏者も変に空回りし、実の薄い演奏をよく聴くのですが、今日の演奏のように、「合奏」という観点でまず音楽を素直に構築しても、この楽章は十分に表現できるのではないかなと。
残念だったのは1階席がガラガラだったこと。スポンサーや主催者はもう少し考えたほうがいいですね。宣伝とか。あれだけの名演奏を聴かせてくれたのに、ちょっと奏者には気の毒でした。それほど高いチケットでもないし、インバルでマラ9なら絶対入ると思うのだけど、平日ってのが不味かったのですかね?みんな先月のバレンボイム=シュターツカペレに投資しすぎたか?(ああ、これかも)しかし、今日のお客さんは「本当に聴きたい」人たちばかりだったような感じで、団員の入場の際の拍手とか、最期の音の余韻の楽しみ方とか、スタンディングオベーションとか非常に温かく会場の雰囲気を演出していました。ほんと、私も久しぶりに最期までのこって心から拍手しました。次はベルリンの本拠地(シャウシュピールハウス)で聴きたいものです。