まずファミコンすら殆ど触ったことない私からすると虚構の世界のゲームに没頭する感性が全く理解できない。私にとってゲームとは人間もしくは偶然に対して挑む「勝負」であるべきで(トランプ、将棋、囲碁、ボードゲームとか)、どこぞの何某が設定したシナリオを踏破することではない。これは今までも散々言ってきたことだが、さらに驚いたのはそのゲームを実況しながらやる人が世間では受けているようで、若者は「他人がゲームをして解説しているのを何時間も延々と視聴する。ときにはそれに金も払う」らしい。上手い人をみてテクや攻略法を盗んでいるのか?と思っていたらそれは違うようで、純粋に見ているだけのようだ。理由は「自分ではできない」「自分では疲れる」「ゲームする時間がない」「実況がおもしろい」「ストーリーだけみたい」ということらしい。将棋や囲碁でも実況はつくが、それは他人が「解説」しているわけで、野球や相撲などのスポーツも同じである。芸術鑑賞も「自分で出来ないものを鑑賞する」活動と言えるかもしれないが、少なくとも芸術的なもの(音楽でも買絵画でもドラマでも映画でもいい)は、その存在が「人にみせるためもの」であって、作り手側とそれを見る側には精神的にも物質的(金銭的)にも、持ちつ持たれつの緊張的関係性がある。しかし個人の(暇つぶし)の楽しみでしかない虚構の「テレビゲーム」に実況をつけて、それを第三者が「ダラダラ鑑賞して時間を過ごすという世界観」にはどうしてもついていけない。さらにはそれに「投げ銭」といって金を差し出す人間のプライドも理解できない。
こういうことがまかり通る根本は「視聴者の数=広告数アップ=儲けとして還元される」の構造にあるのは間違いない。とにかく視聴者さえ増えれば「何をやろうと」それだけで儲かるという「野次馬数が利益に転換される世界」の論理。「ダラダラ生きているやつ」が時間つぶしに生産性のない他人のゲームを「だらだら」見る。何かを生み出すどころかある意味「人を怠惰にさせる麻薬」を供給している社会悪でしかないのに儲かる。汗水たらして生活に必要なものを生み出し社会に供給している人や命の危険に対峙している人の働きよりも儲かる。ここが根本的に間違っているところだ。
こういうことがまかり通る根本は「視聴者の数=広告数アップ=儲けとして還元される」の構造にあるのは間違いない。とにかく視聴者さえ増えれば「何をやろうと」それだけで儲かるという「野次馬数が利益に転換される世界」の論理。「ダラダラ生きているやつ」が時間つぶしに生産性のない他人のゲームを「だらだら」見る。何かを生み出すどころかある意味「人を怠惰にさせる麻薬」を供給している社会悪でしかないのに儲かる。汗水たらして生活に必要なものを生み出し社会に供給している人や命の危険に対峙している人の働きよりも儲かる。ここが根本的に間違っているところだ。