Wilhelm-Wilhelm Mk2

B級SFからクラシック音楽まで何でもあり

「バレンボイムとサイード」

2005-03-15 | クラシック音楽
寝違えた背筋が、猛烈に痛くなったので早退。
帰りがけに購入した「バレンボイム/サイード 音楽と社会」を読む。
イスラエル人の指揮者バレンボイムとパレスチナ人の評論家サイードの対談集だが、中東問題から、音楽と文学の相似と差異、ベートーヴェン、フルトヴェングラー論までとかなり深い問答集。バレンボイムの語る譜面のアプローチ法やオーケストラ論に非常に共感。例えば、

「特定の用語を使った連想には限界がある。たとえば救済、栄光、革命、こういう言葉が持ち込む危険は、音楽を観念の説明に使ってしまうことだ。絶対音楽の真の表現は、音の世界で、音そのものの関係に見いだされるべきだと思う。」

あとはゲーテの話も。
「ゲーテにとって芸術とは、「他者」へ向かう探検であって、自己に専心するものでなかった。現代はアイデンティの確認、ルーツの必要性、自分の文化の価値観や帰属意識に目が向けられている。自己を外に投影してより広い見識をもとうとすることはきわめてまれだ。」

書中でよく引き合いに出されているのに刺激されて、これからフルヴェンの「トリスタン」を聴いて寝るとします。

フルトヴェングラーのピアノソロ

2005-01-04 | クラシック音楽
今年初めての投稿なので、初心に戻ってWilhelm Furtwanglerの記事を。前にも書きましたが、フルトヴェングラーは若い頃からピアノが達者で、特に初見演奏の達人であったそうです。この能力は歌劇場での下積み時代に任された歌手の練習の伴奏などにもかなり役立ったそうですが、実際に多くの指揮者はピアノを巧く弾く能力を持ってます。カラヤンはもともとはピアニストを目指していたし、バーンスタインは実際ピアニストでしたし、ショルティも亡命前のハンガリー時代はピアニストでした。作曲家も作曲の際に大抵はピアノを使う訳で(というより作曲家の殆どはピアニストだ)、一気にスコアの音全てを鳴らしうるピアノという楽器は、作曲家や指揮者にとっては必要不可欠な楽器なわけです。
と、当たり前のことをくどくど書いてしまいましたが、フルトヴェングラーは幸運なことにいくつかのピアノ録音を残してくれてます。一番有名なものはシュヴァルツコップの歌うヴォルフのリートの伴奏をしたものですが、これはあくまで伴奏なので、フルトヴェングラーの音色(温かく優しい!)と伴奏能力を垣間みるには十分だが、解釈を聴くという点ではいささか弱い。今、私が聴いているのはもう一つのピアノ録音です。ザルツブルグで1950年に行われたウィーンフィルとのコンサートのライブ録音で、バッハのブランデンブルグ協奏曲の5番です。この曲の鍵盤パートは大抵はチェンバロで伴奏するのだが、ここはさすがフルトヴェングラー、ピアノを使ってまるで「コンツェルトグランディオーソ?」のような雰囲気で、曲の冒頭から重々しくやってくれてます。よく聞き慣れた曲なので、え?と最初は誰もが思うでしょうが、しかしすぐにフルヴェン特有の魔力に引き込まれて行きます。そう、何度も書きますが、フルヴェンはどんな演奏にも圧倒的な「説得力」があるのです。このスローテンポがすぐにスローと感じなくなり、まるで後期ロマン派の室内交響曲を聴いてるような雰囲気になってきます。1楽章最後のソロ部なぞ、5分近くもとてもバロック作品とは思えない陰影の深い表現を聞かせてくれます。私は瞬間、バックハウスのシューベルトを思い出してしまいました。しかし、フルトヴェングラーは決して譜面を特別にいじってグロテスクな表現をしているわけではないのです。ただ真摯にまっすぐに弾いているだけなのですが、この深遠さと空間の広さは何なのでしょうか?結部ではピアノの能力を出し切った厚い和音とそして指揮している時と全く同じ熱い表現で管弦楽を絶妙のタイミングで呼び込み、感動的なリタルダンドをかけて終了します。
ほんと、この説得力は何なのでしょうか?フルヴェンは著作の中で、指揮者の役割は作品の持つ熱量をきちんと感じて、それを正しく表現することにあると言ってます。これは、ただ作曲家の意図を振り返って読み解くだけでなく、その音楽作品そのものの「力」を感じろということなのではないでしょうか。私見ですが、音楽というものが旋律と和音という複雑な物理現象の融合体であることを考えれば、譜面上にかかれた音符群には、作曲した作曲家さえ気付かなかった相互同士の何か奥深い関係や法則があるはずなのです。フルヴェンの演奏がどれも感動的なのは、その点にあるのだと強く信じています、

ポリーニの熱情

2004-11-08 | クラシック音楽
ポリーニのベートーヴェンのCDが届いた。収録曲は22,23:Appasinata,24,27の4曲だった。とりあえず、通して聴く。うーむやはり「ポリーニ」だ。正直告白しますと、あまりポリーニは好きでない・・・巧いのだが、音が非常に硬質で。さらに巧すぎるせいか音符が全部聞こえてしまい、一度に聴くには刺激が強すぎる。そしていつの間にか、ボリュームを下げてしまう・・・。

熱情はなかなかの熱演で格好いい。「格好いい」という表現は、音楽にはそぐわないかもしれないが、熱情は格好いい曲なのだ。格好良くない熱情など熱情でない・・。しかし、私が好きな柔と剛の対比はあまり明確でない。(この辺はバレンボイムが絶妙なのだが)だが、これがポリーニであり、彼にファンが多いのも理解はできるが、やはりどれを聴いても耳につくということは、自分とは相性が合わないということか。3楽章などは非常に「熱情」的なのだが、意外にも重要なところでもたついたりして、ちょっと興が醒めたりもするが、最後は十分に興奮させてくれた。

もう1曲、私の好きな27番の2楽章。これは全くいただけなかった。バックハウスの抜けきった演奏に耳が慣れてしまったせいか、あまりにもエネルギーが有り余った演奏で、上で書いたが彼の独特の硬音が、ベートーヴェンの書いたsehr singbar vorzutragen (非常に歌うように演奏すること)に全く言っていいほどはまってない。

このCDはAmazonから購入した中古なのだが(正確には不良品。裏ジャケに小さな傷があるが、Discは新品。なんと5ドル!)、なんとも幸運なことに、初回発売だけにつく特典CDも入っていた。特典CDには、熱情のライブ演奏が収録されていたのだが、こちらの演奏のほうが気合がさらに入っていて、ライブ録音のせいか音が幾らかマイルドでよかった。

ちなみに私が一番好きな熱情は、ギレリスのもの、とそして、バレンボイムのビデオ収録されたものの演奏です。

アルゲリッチ

2004-11-06 | クラシック音楽
この人ほど「塩っぱい」演奏からかけ離れている人はいないでしょう。その演奏が作曲家の意図に沿ってるのかという学究的な意見は抜きにして、これほど音楽をvividに表現し続ける演奏家は今いないでしょう。音楽というのものは結局は「聴衆」がその是非を決めるものであって、演奏会や録音は一つの「興行」であって、そこにいる人、聴く人の心を掴まなければ、どのような理屈を付随させても価値がない。そして聴く人の心を掴んだ演奏だけが作曲家の意図ということを語る資格があるのだと思います。要は「塩っぱい」演奏は駄目だってことです。
アルゲリッチは古典から現代まで幅広くレパートリーで沢山の録音が聴けますが、私の一押しのレコードはこのハイドンの協奏曲です。勿論アルゲリッチのショパンやプロコや最近のベートーヴェンも素晴らしいのですが、このレコードだけは特別なのです。ハイドンのピアノ協奏曲は古典とは思えないロマンさが漂う名曲ですが、アルゲリッチの紡ぎだす熟れた果実のような瑞々しい音色と跳ね回る音符の躍動感が、この曲のロマンチックさをいかん無く表現してます。そしてやはり特筆すべきは2楽章ですね。神々しいまでに透き通った、その上厚みがある音色と、絶妙のルバートがこの世のものと思えない美しさを魅せてくれます。そして一転して再び快活な3楽章でアルゲリッチ節炸裂ですよ!ほんと、何回連続で聴いても溜息つかされますね。(今日もすでに4回目)伴奏のオケもアルゲリッチの音質にマッチしていて秀逸です。
アルゲリッチは最近は室内楽か協奏曲しかやらず、独奏演奏会を開かないのですが、一人で弾くのがつまらなくなったのではないでしょうか。他人との掛け合いとか、その中で自分を主張していくことに楽しみを見いだしているのだと思います(女王様ですからね)。下のシューマンのCDの感想でも書きましたが、他の室内楽の演奏でも、共演者の演奏が弛緩してくると、すかさず合の手でテンポを引っ張り上げて前へ前へと音楽と進めてくれます。ですからアルゲリッチが加わる室内楽というのは演奏者を選ばずにどれも刺激的なのです。

彼女のようなピアニストってもう現れないのではないでしょうか。私はヴァイオリニストではヒラリーハーンという若い演奏家に似たものを感じているのですが、どうでしょう。近いうちにハーンについても書きたいと思います。

ソロモンというピアニスト

2004-11-05 | クラシック音楽
ソロモン(solomon cutner)というピアニストをご存知でしょうか?時代的にはバックハウスよりちょっと後の世代(1902-1988)で20世紀の中頃に活躍したピアニストです。残念ながら、早くに病気の為に引退したため、残された録音はモノラルのものが多いのですが、私の感想ではバックハウスとケンプの中間に位置するようなピアニストです。今、彼の弾くベートーヴェンの4番協奏曲を聴いているのですが(私は4番が一番お気に入り)、ソロモンの弾く演奏は、非常に明確でストレートでそれでいて冷淡でもなく、なんというか良い意味で「中道」なんですよね。極端なルバードをかけたりでもなく、技巧を見せつけるのでもなく、嫌みというものを感じさせない。かといって決して没個性ではなく、聴いていて安心できる演奏です。全曲ではないですが、ベートーヴェンのソナタの録音はEMIに結構残してくれいるので、是非聴いてみてください。
私の思い出としては、高校生の頃に吉田秀和氏のラジオ放送「ベートーヴェンを聴く」(毎週日曜の朝にFMで放送。ベートーヴェンの全ての曲を解説付きで流してくれてた。私はこれを欠かさず聴いて録音してました)でソロモンの存在をしりまして、もっと聴いてみたいと思っていた時に、学校帰りのレコード屋で輸入の協奏曲全集を偶然見つけまして、友人に借金して買いました。それが今聴いているものです。悲愴ソナタも収録されてまして、最も大事なCDの一つです(古いHMVのマークがついている)。素描のソロモンの横顔を載せたジャケットも結構かっこいいのです。(残念ながらアップした写真は最近の市販のものです)

カラヤンの偉大さ

2004-10-29 | クラシック音楽
フルヴェンの次に好きな指揮者と問われたら、間違いなくカラヤンをあげる。これを多くの人は疑問に思うかもしれない。というのは、フルヴェンとカラヤンは水と油のようだと世間では曲解されているからだ。確かに生前フルヴェンはカラヤンを警戒していた言われている。しかし、それはカラヤンの非凡な才を認めていたいうことの裏返しであって、またカラヤンは自分が少なくともフルヴェンと同じような種類の感動を呼ぶ指揮はできないことは認めていた。しかし、カラヤンには独自の「美学」と「磨き抜かれた音」があり、これほどまでオーケストラを自在に操れる指揮者はいないのではないかと思う。実際にカラヤンの指揮する曲のアンサンブルはどれを聴いても完璧だ。複雑な構造をもつリヒャルトシュトラウスの作品なども、何なく噛み合わせてしまう。フルヴェンほどテンポを大きくゆらす事はしないが、音楽の場に合わせて独特の推進力を魅せることがある。(弛緩することは絶対にない。)私は世間で言われるほど譜面に忠実な「即物的」な指揮者ではないと思う。
私も相当のカラヤン録音を持っているが、一番好きな録音は、ベートーヴェンの「英雄」である。実はフルヴェンの英雄よりも感動する。と書くとさらに驚かれるかとも思う。というのはフルヴェンの英雄といえば、信者からすれば神棚にまつるほど神聖的なものだからだ。しかし、私は重厚壮大なフルヴェン解釈より、カラヤンの爽快かつ強靭な英雄のほうが好きだし、この曲の性格にあっていると思う。カラヤンはベルリンフィルの100周年記念でも「英雄」を振ったのだが、そのライブ映像は市販されているので是非見ていただきたい。まずオーケストラの機能とはここまで凄いものかと徹底的に知らしめてくれる。記念演奏会だけあって、ベルリンフィルの全てのトップ奏者が勢揃いし、またライブ一発取りのためカラヤンも汗だくで鬼気迫る指揮ぶりを魅せてくれる。特に3楽章から4楽章にattacaで突入する前に、さっと手で顔の汗を払いとばす所が堪らなくカッコイイ。私はオーケストラの機能は軍楽隊と同じであり、指揮者は指揮官のようなものだと思っているのだが(古の指揮者はそういう雰囲気を持っている)、カラヤンはある意味でそういうタイプの最後の指揮者っだのかもしれない。

Backhaus

2004-10-25 | クラシック音楽
帰宅して、私が必ず冥土に持って行く1枚、バックハウスのベートーヴェンの後期ソナタ集を聴く(30-32)。はー。。なんでこんなに美しい音なんだろうか。枯れきって澄みきってるんだよなあ。私がいつも想像するのは「高級備長炭」。
曲も奇跡なら、演奏も奇跡。

実は、このCDはお小遣い貯めて初めて自腹で購入したCDなんだよね。写真は全集だけど、貧乏学生だった私は、一枚一枚買いそろえていったものです。バックハウスの録音はよく再販されて、その度にジャケットも変わっていくので(それもどんどん安っぽく)、最後のほうは中古屋巡りして、同じジャケットのものを探すのが大変だった。普通のCDは外見は全然気にしなく廉価で買うのだけど、これだけは譲れなかった。でもディアベリ変奏曲だけはこのジャケットを見つけられなくて他ので持ってます。考えたら15年くらい前になるのか?一生変わらない気持ちとか感動があるとすれば、こういうことを言うんだろうな。

バックハウスが好んだ言葉「真面目な仕事は、真の幸せをつくりだす」

うーん。

2004-10-25 | クラシック音楽
今聴いてる音楽。
Steve Reichの Tehillim
ミニマル後の作品で、ヘブライ語の詩を歌っています。
美しい。(でも聴くってよりはBGMですね。)

うーん。いまいちですなあ。すでにネタ切れか?
じゃあ「座右の銘」を一つ。

「三日坊主にならないためには、三日で終わらせろ!」

3人目のWilhelm

2004-10-23 | クラシック音楽
さて3人目のWilhelmとしてフルヴェン、バックハウスと同時期の偉大なピアニストWilhelm Kempffの登場です。巷の評論本ではドイツ正統派の継承者としてバックハウスと「双璧」と言われてます。(まあ評論家は色々と冠詞をつけたりカテゴライズするのが仕事ですからね。)私の感動したケンプの演奏はベートーヴェンなら「田園」と「テレーゼ」ですね。ケンプの人情を感じさせる優しいタッチがよく曲奏にマッチしていたと思います。ケンプは非常に長生きしたのですが(1895-1991)、彼が亡くなった時「追悼限定版」と銘打って彼のベートーヴェン全集をグラモフォンが発売したのですが、当時貧乏高校生だった私はその特別版が欲しいというよりは、ここで手に入れないと一生ケンプのベートーヴェンは手に入らないと勘違いしまして(アホ)、親に頭を下げてその「限定版」を手に入れたのですが、その後すぐに少しだけデザインを買えた普及版(写真)が廉価で出てきまして、アコギな大人の世界の洗礼をうけたわけです。よくケンプはテクが無いとか揶揄されますが、それほど気になったことはないですねえ。でもバックハウスに比べるとやはりその点は確実に劣るか。私がケンプの録音で一番感動したものは、ロンドンにいれたバッハの「半音階幻想曲とフーガ」でした。この曲なんかかなりヴィルトオーゾさを感じさせてくれたんだけどなあ。あのアルバムに入っていた他のバッハやベートーヴェンの小品も絶品でしたね。私にはケンプは温かいという印象が強いです。なんか書いているとケンプの演奏を聴きたくなってきますね。帰国したら室内楽とかを新たに聴いてみよう。このケンプ、フルヴェンとも共演を何度もして録音もあるらしいです。確かにバックハウスよりケンプのほうがフルヴェン向けですよね。でもバックハウスも温かいんだけどなあ。ちょっと質が違うんだけど。ベートーヴェンの27番の2楽章とかもう涙ものなのだけど。

Barenboim "Rhenish"

2004-10-23 | クラシック音楽
今晩も軽く晩酌。BGMはバレンボイムのシューマン全集から3番ライン。ピアニストとしてのバレンボイムは好きなのだが、指揮者としての彼はそれほどでない。未だ鳥肌ものの演奏に出会ってないから。指揮者としての実力は有ると思う、オケさばきも明確でいつも快演だ。だがなあぁぁ。いつもただの「快演」「善戦マン」なんだよなあ。誰でも知ってると思うが、バレンボイムはフルヴェンを痛く尊敬しており(幼少の頃、ピアノを褒められたそうだ)、自称「後継者」らしい。しかし、出てくる音楽は正反対なんだよなあ。テンポ取りとかは似てるんだけど、フルヴェンの凄さってそうじゃないんだよ。「人間力」なんだよ。フルヴェンの有名な逸話に、他の指揮者のもとで練習しているベルリンフィルが、たまたま覗きにたフルヴェンの姿を見ただけで音ががらっと変わったというのがある。尊敬度とか畏怖とかは、弾き手の筋肉=音まで影響を与えるんだよ。バレンボイムにはそれを感じないんだよなあ。カラヤンもクーベリックもショルティもアバドも方向性はそれぞれ違うけどそれぞれの「音」があったんだよなあ。この最新のシューマンCD。昨日書いたアバドショックがあったものだから、バレンボイムもそろそろそういう円熟味を出してくれるかと思ったけど、やっぱ「快演」だけだった(涙)。といっても全敗ってわけでなく、自分としては3番だけはちょっとグッときたかな(最終楽章)。実際、巧いんだよね。オケはシュターツカペレだし(ベルリン)。アンサンブルもばっちりだし、加速も推進力ありまくりだし、バレンボイムも気合い入りまくりで鼻息聞こえるし。生で聴いたら絶対会場は総立ちでブラボーの嵐だと思う。でもなあ、なにか大事なものが足りないんだよなあ。ビールで言えば「バドワイザー」なんだよ。損した気にはならないけど、やはりバレンボイムのピアノを評価している自分としては、物足りない。
ちなみに、私はシューマンの交響曲はどれも好きで、特に2番がお気に入りだ。この曲は縁があって3回も演奏した。また、好きな録音はクーベリックがベルリンフィルと入れた全集。特に2番が’いい。4番は勿論フルヴェンのスタジオ録音が絶品。あれが一発取りだったなんて。