あべのハルカス美術館 2015年 3月17日(火)~ 5月10日(日
美術館前の大きな垂れ幕
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)
大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)を卒業。1901年(明治34年)、23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。
1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。
彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。
陶芸は趣味で、当初は陶工に作らせていたものの納得が行かず、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放でおおらかと評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。
半泥子の名前を知ったのは、今から10年前 2005.6
大先輩の小林さんのファミリーコンサートにご招待され、津にお邪魔し、石水(せきすい)博物館を訪れた時のことですーー川喜多家ご用達の新玉亭でうな丼を食べました
ホームページはここ
そんな思い出をメールしたら、メル友のミントさんから
石水博物館はその後、2011年に半泥子の自宅と千歳文庫のある千歳山に移転しましたと教えていただきました。
今年2/8に「日曜美術館」で 銀行頭取 陶芸を革新せり~川喜田半泥子~ という放映があり事前勉強もバッチリです
今回一番会いたかったのは、これです
伊賀水差し 銘「欲袋」
茶碗よりは少し大きめです
古田織部の作と伝わる 古伊賀の水差し「砂袋」(重要文化財ー現在は五島美術館蔵)
旧津藩主の藤堂家に伝わる。半泥子が東京の藤堂邸で拝見しなんとか再現しょうと作った作品
これが重要文化財の「砂袋」
「砂袋」に魅了された半泥子が試行錯誤の結果得たもの モノマネでない良さを感じますね。
割れ目には青海波の模様が入っている。
刷毛目茶碗 銘「これはこれは」
名前の付け方に感服します
なんか失敗作のような感じながら 趣がありますね
思わず 「これはこれは」と言ってしまいそうです(笑)・・・
粉引茶碗 銘 「たった川」
井戸手茶碗 銘 「雨後夕陽(うごせきよう)」
朝鮮全羅南道咸平の土を用い井戸釉をかけて焼成している
粉引茶碗 銘 「雪の曙」
指の跡が見所です 轆轤を一気に引き上げたため器の口の部分が切れたのを、そのままに・・あるがままにしておく
半泥子風なのです
『半泥子(はんでいし)』というユニークな雅号の由来は、南禅寺の管長にもなったことのある大徹禅師から授かったもので、『半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず。』ということに由来しています。その意味は、『何にでも没頭し、泥んこになりながら、それでも冷静に己を見つめることができないといけない。』というようなことです。
絵もあります
窓辺の花
10代の時の作品とのこと、最近修復され額縁もあたらしくなったようだ
親交のあった 画家 藤島武二の作品 「桜の美人」藤島武二は半泥子の洋画の先生だった
書もすごいです
「波和遊(ハーワーユー)」
How are you? 漢字で書くとこうなります
楽しいですね
無茶苦茶の「苦茶」
上手いですね。「無茶」も展示されていました。
何をやらしても上手いですね。
感心します。
美術館の入口は 「泥仏堂」でした
人に褒められようともしていない茶碗、これが半泥子のいきついた境地であった
それは、まさに 「これはこれは」なのだ
美術館前の大きな垂れ幕
川喜田 半泥子(かわきた はんでいし、1878年(明治11年)11月6日 - 1963年(昭和38年)10月26日)は、日本の陶芸家・実業家・政治家。「東の魯山人、西の半泥子」、「昭和の光悦」などと称される。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)
大阪府生まれ。15代続く伊勢の豪商の家に生まれる。裕福な家庭で育ったが、祖父や父は半泥子の生後まもなく他界し、1歳で川喜田家16代当主となった。三重県尋常中学(現在の三重県立津高等学校)を卒業。1901年(明治34年)、23歳で四郎兵衛の長女・為賀と結婚している。
1903年(明治36年)に百五銀行の取締役に就任。1919年(大正8年)に第6代頭取となり、1945年(昭和20年)2月まで頭取を務めた。
彼の時代に百五銀行は三重県有数の金融機関に成長した。頭取以外にも、三重県財界の重鎮として、三重合同電気社長や明治生命の監査役などいくつもの会社の要職を務めている。また、1909年(明治42年)からは津市会議員、1910年(明治43年)からは三重県会議員を務めた。
陶芸は趣味で、当初は陶工に作らせていたものの納得が行かず、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放でおおらかと評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯に一作品も売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。
半泥子の名前を知ったのは、今から10年前 2005.6
大先輩の小林さんのファミリーコンサートにご招待され、津にお邪魔し、石水(せきすい)博物館を訪れた時のことですーー川喜多家ご用達の新玉亭でうな丼を食べました
ホームページはここ
そんな思い出をメールしたら、メル友のミントさんから
石水博物館はその後、2011年に半泥子の自宅と千歳文庫のある千歳山に移転しましたと教えていただきました。
今年2/8に「日曜美術館」で 銀行頭取 陶芸を革新せり~川喜田半泥子~ という放映があり事前勉強もバッチリです
今回一番会いたかったのは、これです
伊賀水差し 銘「欲袋」
茶碗よりは少し大きめです
古田織部の作と伝わる 古伊賀の水差し「砂袋」(重要文化財ー現在は五島美術館蔵)
旧津藩主の藤堂家に伝わる。半泥子が東京の藤堂邸で拝見しなんとか再現しょうと作った作品
これが重要文化財の「砂袋」
「砂袋」に魅了された半泥子が試行錯誤の結果得たもの モノマネでない良さを感じますね。
割れ目には青海波の模様が入っている。
刷毛目茶碗 銘「これはこれは」
名前の付け方に感服します
なんか失敗作のような感じながら 趣がありますね
思わず 「これはこれは」と言ってしまいそうです(笑)・・・
粉引茶碗 銘 「たった川」
井戸手茶碗 銘 「雨後夕陽(うごせきよう)」
朝鮮全羅南道咸平の土を用い井戸釉をかけて焼成している
粉引茶碗 銘 「雪の曙」
指の跡が見所です 轆轤を一気に引き上げたため器の口の部分が切れたのを、そのままに・・あるがままにしておく
半泥子風なのです
『半泥子(はんでいし)』というユニークな雅号の由来は、南禅寺の管長にもなったことのある大徹禅師から授かったもので、『半ば泥(なず)みて、半ば泥(なず)まず。』ということに由来しています。その意味は、『何にでも没頭し、泥んこになりながら、それでも冷静に己を見つめることができないといけない。』というようなことです。
絵もあります
窓辺の花
10代の時の作品とのこと、最近修復され額縁もあたらしくなったようだ
親交のあった 画家 藤島武二の作品 「桜の美人」藤島武二は半泥子の洋画の先生だった
書もすごいです
「波和遊(ハーワーユー)」
How are you? 漢字で書くとこうなります
楽しいですね
無茶苦茶の「苦茶」
上手いですね。「無茶」も展示されていました。
何をやらしても上手いですね。
感心します。
美術館の入口は 「泥仏堂」でした
人に褒められようともしていない茶碗、これが半泥子のいきついた境地であった
それは、まさに 「これはこれは」なのだ
日曜美術館で知りました。
趣味とは思えないですね。
なかなか行く日取りが決められなくて・・・。
でも必ず行きますよ。
半泥子。すごい人ですよね。
銀行の頭取で仕事が凄かった人は、たくさん居られるでしょうが、趣味の世界がこんなに凄い人は居ませんでしょう。
半泥子の世界。ぜひ楽しんで下さい
ただただ、感謝です。
芸術家 半泥子 感服です
今までは 名前を知ってるだけの人でしたが、展覧会に出会えて 心に触れたような気がします。
三重県バンザイ、津 バンザイ ですね。