無意識日記
宇多田光 word:i_
 



照實さんによる二度臨死体験の話は驚きではあるが、私には奇妙な違和感の方が大きい。と言っても複雑な話ではなく、ただ単に「どうして今まで言わなかったの?」というだけの事だ。

これは、こちらの感覚が間違っている。何も病気になる度にこちらに報告する義務も義理もない。Hikaruの活動に支障がない時期の話なら尚更だ。

しかし、我々(と言って貴方方を巻き込んでいいのかどうか知らないが)の感覚でいうと、最近はBlogやTwitterなどで知人のそういった"事件"については自然に知るケースが多い。勿論何も触れない人も居るが、例えば「祖父が倒れたという事でちょっと実家に帰ります。2、3日メールやDMの返信できないかも。」みたいなツイートをしてくれる人は多い。なんだか、我々一般人(なのか?)がそういうやりとりや在り方に慣れてしまっているので、普段他愛もない話をしている相手が突然心不全や脳血栓やら言い出すと「何で言うてくれへんかったんや」となる訳だ。嗚呼なんとまぁ感覚の麻痺している事。Twitterって、インターネットって恐ろしい。

そうだなぁ、、、確かに、私の顔も声も性別すら知らない人が、例えばここの長い読者だったら、私の2人の祖母の命日知ってたりするもんなぁ。本人ですら忘れがちなデータだよホント。いや私は祖母の今年の誕生日も忘れてなかった方だけれど。


歌詞の話に戻ろう。

歌詞の解釈に正解はない。勿論、作詞家の意図というのはあるだろう。ない場合もある。しかし、聴き手の解釈がそれに沿っているかどうかの価値判断は、まさに他人が決める事ではない。その人が「作詞者の意図を正確に理解したい」と意図して初めて解釈の正誤が論じられる。そう考えてないひとに「その歌詞の解釈は間違っている」と告げるのは間違っている。自由に、感じたままを述べればよい。

これは、現在テーマにしている「歌詞を書く動機」と密接に関係している。作詞者がその歌の作詞をした理由が「こういうメッセージを伝えたい」というものであれば、確かにその歌詞は正確に解釈されるべきだろう。言いたい事があって、それを伝えたくて歌っているのだから。

それこそ、例えばMaking Love。メッセージは明白で、伝えたい相手もひとりである。細部は兎も角として、この歌の解釈には"正解がある"、という風に考えた方が、Hikaruの意図やら何やらを尊重するファンとしては無難だ。

しかし、だからこそ"誤読"をしてみるのも面白い。例えばこれが異性の幼なじみ、"友達以上恋人未満"の存在に対して歌っていると"誤解"してみてはどうか。『新しい部屋で君はもうMaking Love』の一節の響きがまるで違ってくる。たとえ、歌の解釈に"正解らしきもの"があるとしても、それに沿う事が創造的だとは限らない。

いわんや、メッセージ性の低い歌をや。Never Let Goの歌詞を書いた理由なんて「日本語の歌が書けないと言わなきゃいけないのはシャクだから」みたいな感じなのだ。だから、この歌詞の"第一の目的"は日本語の歌として成立する事それ自体であって、Making Loveのように親友にメッセージを贈りたいとかではない。

なので、極端な話、作者の本来の意図以上に日本語の歌として深みのある解釈が誕生するなら、作詞者としては大歓迎なのだ。それは、最初の作詞者の意図と異なるという意味では誤読だし誤解でもあるのだが、「日本語の歌として成立すること」がそもそもの目的なのだからそれは最早誤解というより発見である。もしそんな"誤った"解釈が生まれるのであれば、そちらを"正統的な解釈"と事後的に認定してしまってもよいくらいだ。


斯様に、歌詞の読み方の評価というのは、歌詞を書いた動機に左右される。そちらの切り口から歌詞を読み解いていくのは、それなりに面白いものなのである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




歌詞の中の視点の転換、それ自体はヒカルの楽曲では珍しい事ではない。光とSimple And Cleanではこの2曲自体が視点の対を成していて、更にSimple And Cleanは一曲の中で2つの視点を行き来する、といった凝った多重構造さえある。Never Let Goはその中でも、一行ごとに視点が推移し、且つそこに音楽的変化を伴わないという意味で珍しいのだ。

その対比として、ヒカルの曲の中でも王道といえるThis Is Loveを取り上げよう。

この曲はヴァースとサビでの役割分担がハッキリしている。サビでは『奪われたい』『あげるよ』『咲かせてあげたい』などなど、述語を取り上げればそれは願い(とそれに伴う行動)の描写であり、一方ヴァースは登場人物2人の状況説明だ。ヴァースにも『何か言いたい』という一文があるがすぐに『けど』を伴って『もう朝』と状況説明に転じる。

この曲はつまり、外見的には静かな2人に対比して、外で激しく降る雨と、主人公の内心の熱情が呼応している、という構図を描いている訳だ。やっぱり文学的だな。


そんな中で不意に曲調が変わり、突如『もう済んだことと決めつけて損したことあなたにもありませんか?』とリスナーに語り掛けてくる場面がこの楽曲のハイライト。私はこれを古畑任三郎方式と呼んでいる。あの、彼が犯人の目星をつけた瞬間に場面が暗転しスポットライトを浴びこちらに振り返って急に視聴者に語り掛けてくる、あの方式である。ずっと画面の向こうで展開していたと思っていたドラマが急にこちらに向き直る。『あなたにもありませんか?』には同様の効果がある。向こうで2人がいちゃついてるのを眺めていたら急にこちらに向き直られる。Web用語でいえば「こっち見んな」だな。

ヒカルは、この3つの視点の展開(願望の描写、状況説明、メッセージ)を、サビ、ヴァース、ブリッジときっちり音楽的に峻別する事で鮮やかに描写する。本来、こうやって視点の転換は彩られるものなのだ。ここまで色彩豊かでグラデーションもスケール大きいのは珍しいが。


それを、Never Let Goでは変わらぬギターサンプリングをバックに淡々と歌い進行させる。何とも不思議な感触で、ある種贅沢ともいえるが、やはり日本語の歌の作り始めならではの特異性だったという気がする。これはこれで麗しい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )