えらく遅い時間の更新だな、さぞ忙し…かと思いきやさにあらず、急に時間が出来たので品川までUNISONIC/EDGUYの来日公演を観に行ってきた。いや別にライブレポートを書くつもりもないのだけれど。
やっぱり、ライブ会場に居ると落ち着く。リラックス出来る。心置きなくエキサイトできる、って書いた方が共感が得やすいだろうか。ある意味、自分の部屋で寝ている時より心が休まっている。音に囲まれた空間が心地よいのだろう。去年からIE80というイヤフォンを愛用しているのだが、それをつけた瞬間その場所が自分の部屋、自分の空間、In My Roomになる。そういう人らしい、私は。
今まででいちばん心が安らかだったのが、ホノルルでのIn The Flesh 2010の公演だった。後からだから言えるんだけど、どんなアクシデントがあろうがこのライブは無事に観終える事が出来るしライブ自体も成功するだろうという確信が最初からあった。確信というものは、強ければ強いほどさりげない。「そこに石ころがあるだろ?」「それがどしたん?」という風に強すぎる確信はただの事実であり誰にも疑いようがない。大なり小なり、ライブ会場に居る時に私はそれを感じとるのだが、In The Fleshの公演は特にそれがさり気なかった。即ち、とても強かった。
私からすれば、目の前でHikaruが歌っているのだから、いつもみたいに「Hikaruは今日も心健やかに過ごせているだろうか」と気を揉む事もない。「何の心配もしなくていい」と言うと言い過ぎだが、ほぼそれに近い心境だった。そこは家のように心地よく、いや家よりも心地よく、そこ以外のどこかに気を取られる事のない空間だった。
確かに、2つの事が混ざっている。音のする空間と、Hikaruの居る空間と。でも私にとっては同じなのだ。Hikaruが歌っているのだから。それに、僕らの心は音で出来ているのだし。
それは、音の空間が心の空間より大きなものを持っているという意味だ。私の心を音で表現するよりも、音によって齎される心の変化の方がずっと大きい。それを指して"心が音で出来ている"と言うのである。
「喜び5gも悲しみ5gも同じ5g」とは毎度口酸く私が繰り返すヒカルの名言だが、くまちゃんが3005gなのはいいとして(いいのだ)、喜怒哀楽が対称に見えるところに居てそれでも残っているのは音なのだ。名前は光なのにね。
音には実体があるのに実体ではない。禅問答的だが、空気でも水でもスピーカーでも、伝わる揺らぎの集まりは心に届いて初めて音になる。それまではただの、何かしらの波、いや、波ですらないかもしれない。それが乱雑な空気分子の動きなのか規則的な振動なのかを、心がなくてどうして知れよう。心がなくても月はそこに在るかもしれないが、音は在るんだか無いんだかわからない。在るのは空気や水やスピーカーでしかないんじゃないかと。
それでも音は心を超えている。そこから先は私にもよくわからない。ただ耳を澄ましてみればと云うだけです。
耳が聞こえない、という事も人生にはあるかもしれない。その時には光がある。世の中それなりにうまく出来ている。目も見えないとなると、触れてもわからない、となると、匂いも味も無いとなると、心はどこに在るのだろうか。そこまで行ったら僕はもう何もわからない。でも、いつか誰かが気付いてくれるかもしれない。道端に打ち捨てられた小さな鍵を拾うように。光が歌うのは、そうやって見つけるから、見つける為、なのかもしれない。
何の波紋もない静かな水面より、打ち震えて歌う波の方が安心する、のかな。いや、でも"外"にはそうやってどこまでも静かな水面が広がっている方がいいかもしれない。ここからどこまでも響かせていく事が出来るから。闇と光も、そうなっているのかな。いつか訊いてみようっと。
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