無意識日記
宇多田光 word:i_
 



This Is LoveはULTRA BLUEを統括する歌、という風な書き方をした。しかし、Single Collection Vol.2のコンセプトを思い出すならば、「This Is LoveはULTRA BLUEの楽曲を抱擁する歌」という言い方がいいかもしれない。精神的に苦しい時期を乗り越えてきて到達したスケールの大きな境地。どんなにネガティヴな自分も「よく頑張ったね」と抱き寄せる感覚はあのSCv2のDisc1とDisc2の"ハグ・スリーヴ"を思わせる。これぞULTRA BLUE、と痛感させる楽曲だ。

では、とある当然の疑問が湧き上がる。準タイトル・トラックである3曲目のBLUEはどうなんだ?と。

BLUEは、言うなればこのアルバムで最もネガティヴな曲である。辛いとか苦しいとかを通り越して"何も感じなくなっている"状態に居るのだから。これぞ末期。曲調が謎めいているだけに聴き手をそこまで落ち込ませる事はないが、歌詞は「そこまで言うのか」とおののかざるを得ない領域にまで来ている。ある意味、絶望そのものを歌ったBe My Lastよりもどん底だ。

だから、アルバムのタイトルが「ULTRA BLUE」 なのだ、と書くと拙速に過ぎるだろうか。直訳すると「超青」になるんだが、これは実は正反対の2つの意味にとれる。

ひとつは、「チョー気持ちいい」のチョーの意味である。要は強調だ。普通に気持ちいいのを通り越してもっともっと気持ちいい、と。ならばULTRA BLUEは「青は藍より出でて藍より青し」ではないけれど、「めっちゃ青い」という解釈になる。

もうひとつは、「ULTRA- VIOLET」(あ、ハイフン要らないのか)と同じ使い方だ。これはUVケアとかUVカットとかでお馴染みの"紫外線"という意味だが、UltraVioletはつまり紫ではない。紫より更に向こう側の"色"、波長が短すぎて人間の視覚で捉えられない色の事だ。言うなれば「紫の向こう側」である。これに倣えば、ULTRA BLUEは「青色の向こう側」或いは「BLUEを越えたところ」という意味になる。

私はここで後者の解釈を取ろう。即ち、このアルバムは、BLUEを乗り越えたから完成したのである。言ってみれば、BLUEを優しく包み込む曲が出来たからこそこのアルバムはULTRA BLUEになった。もしその曲が生まれていなければこのアルバムのタイトルはただ「BLUE」になっていたかもしれない。そこを「ULTRA BLUE」に"押し上げた"のが、This Is Loveという歌だったのではないか。

そう強く思わせるのが、This Is Loveというタイトルである。当時はそう思わなかったが、今、後から振り返ってみてこの"This Is"という言い回しは、Hikaruの自信の顕れなのではないか。後の2009年にUtaDAの2ndアルバムに「This Is The One」と名付けたのも「これでどうだ、私には自信がある」という雰囲気ではなかったか。実際このアルバムは成功した。確かに実力的には物足りない数字だったが、やっとLOUDNESSと同等の知名度をもつ日本人アーティストが現れたのだ。LOUDNESSが、いや、ギタリストのAkira Takasakiがどれほど海外のギタリストの間で有名か…いや、そんな事しなくてもYoutubeのVevoでCome Back To Meの再生回数をみれば、This Is The Oneが"成功したアルバム"である事を疑うのは難しい。いやまぁどこまで行っても主観なんだけどね。私もどうせこれからHikaruがどれだけ売れてもずっと"それじゃあ過小評価だ"と言うのだろうし。

話が逸れた。纏めておこう。This Is LoveはBLUEの憂鬱を優しく大きく抱擁した歌であり、したがってアルバムタイトル「ULTRA BLUE」 を象徴する楽曲である。強引に言い切れば、このアルバムの真のタイトル・トラックはThis Is Loveなのである。言い切った。一曲目を選ぶのなら、やはりこの曲でしかなかった事だろう。8年前の作品ですが。

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日本は未だにCDの売上が国際的にみて高い、という記事が出ていたが、御存知の通りそれはアイドルのノベルティのひとつとして売れているだけで、ブロマイドやストラップとかわりがない。深刻なのはダウンロード販売が低調な事で、つまり若年層が音楽を購入する習慣自体を失っている事を意味する。壮年にとってはCDが高いといっても高々3000円、欲しいと思ったら躊躇い無く手を出せる価格帯なので特にダウンロードに流れる理由は無い。高齢者がデバイスを変えたがらないのは、未だに演歌の新曲がカセットテープで売り出される事をみればわかる。縮小していくだろうがあと20年はCDの需要が消える事はない。

こうなってくると、Hikaruの得意な「その時のデバイスを歌詞に織り込む」手法を採るのが難しくなってくる。Computer Screenが暖かかったり(ブラウン管時代の話―液晶以降は画面に熱をもたない)やPHS、BlackberryにMp3、Hard Drive(フラッシュメモリの台頭が著しい)といった単語を歌詞にして歌ってきた向きからすれば、特に日本の若い人たちに対して何を歌えばいいのやらよくわからない。

いずれも、おそらくHikaruの実体験に基づいた言葉のチョイスなのだろう。Blackberryを使っていたという話もあるし。しかしもう30代なのだから、10代~20代と同じ目線という訳にはいかない。

例えば、『10時のお笑い番組』なんていうのは、流石にまだまだ共有できるとは思うが、流れによってはレトロな表現として受け取られていくかもしれない。「そういえば昔は皆決まった時間になったらTVの前に集合してたねぇ」と。これも、CD同様高い年齢層に対してはもう定着してしまった習慣だからあと20年30年は実感を伴って受け止められるかもしれないが、若い子たちにその習慣が受け継がれていくかどうか。

ここらへん、音楽ソフト鑑賞とテレビ視聴の分かれ目があるかもしれない。テレビがどこまで"お茶の間で家族皆で"楽しむものであり続けられるか。音楽ソフトの方は、元々自分の部屋で個々に楽しむものだったから、その習慣が次の世代に伝播する必然性はない。結局、世代間の継承の有無が、音楽ソフト販売量の減少に繋がっている、とみる事も出来る。

では、同じように個々の部屋で楽しむゲームや漫画といった他の娯楽はどうかとなるが、こちらは多少の浮沈はあれど低調という話にはなっていない。ただ、特に漫画をはじめとする書籍の方は電子化自体が音楽に較べて10年遅れているので単純な比較は今は出来ない。結果としては「それとこれとは関係ない」となりそうだけど。

世相もある程度反映するHikaruの歌詞が、今後どこらへんを掬い取っていくか。世相自体を題材にしなくなっていく可能性も含めて、頭の片隅に置いておきたい視点ではある。すぐ廃れたり、20年経っても同じだったり、様々な位相が存在する事だろう。

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