そういえば今は表現規制というとある民放ドラマの話が盛んなんだっけか。昨日のエントリーは一般論についてであって、個別の事例は頭になかったという事は強調しておきたい。
やはり、いちばん大事なのは「知らない」「わからない」と平気で言える空気を作る事だろう。何がいちばんまずいって、情報も出揃わないうちから価値判断を持ち込まれる事だ。無関心にならず、しかし知識は蓄える、というのはかなり難しい。みんな真っ当な議論なんかしたくない。とっとと自分の立場をハッキリさせて、考えるのを止めたい。この誘惑に抗うのはとても難しい。
確かに、時に慎重さは初動の遅れを招く。しかし、あなたが時事ニュースの中で"初動"に入れるような当事者であるケースは、一体生きているうちでどれ位あるだろう。殆どのケースでは"蚊帳の外"ではなかろうか。あなたは当事者ではない。ほぼ総てのケースで、そう言える。
宇多田ヒカルとその周辺に関していえば、私は全く当事者ではない。何も力になれないし影響力もない。なので、数少ない情報の中から、こうだったらこうだろう、ああなったらそうなるかもしれない、という仮説と妄想を繰り広げるだけだ。私は常に当事者ではないので、特に"自分の立場"みたいなのを表明する気はない。その為、今日言っている事と明日言っている事が正反対になる事もある。それを"ブレている"と評する事も可能だが…されないか。
なので、立ち止まって考えるのを止めないで欲しい。悪者を作って攻撃して、早く安心したい気持ちはわかる。自分が当事者ならそれもありだろう。アニメの中のキャラクターに感情移入するように、しかし、現実の他人に対して感情移入し過ぎるのはよくない。もしそれをするのであれば、"悪役"の人たちの気持ちになってみる事も必要だろう。味方の気持ちを、あなたは本当に理解できるのか。敵の気持ちを、あなたは本当に理解できないのか。結局は程度の問題なのだが、そこらへんの中途半端さにも耐えられる…愛せるヨユウを生み出すのが、いちばん難しいだろうな。必要な事なんだけれど。
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