無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ヒカルは、中途半端なものだったら出さない方がいい、という哲学で今まで来ている。世に出すものには責任を持ちたい、という理念があるからだろう、その態度は、ちょうどインターネット時代に最適だった。少しのキズから瞬く間に傷口が広がっていくリスクを考えると、出力は極力吟味し、絞り、選りすぐるのがよい。

これは学習の結果であるので、もう後戻りをする必要もないが、今初期のメッセージを読み返すとやっぱり懐かしい。今は感じられない、「共に悩んでいる」感覚が、そこにはある。ヒカルとファンの間には同時性があった。今それをやってもやたらと炎上するだけなのでやらなくてもいいけれど、あの頃は単純に「ヒカルの言葉がたくさんあった」のだ。その点については「昔はよかった」と言っていいかもしれない。

もっとも、それは「過去のある時期が羨ましい」というだけで、例えば2006年度前半はもうず~っとヒカルだらけだったし、離婚してから後も新曲攻勢もあって随分ヒカル尽くしだった。単に今が人間活動で言葉が少ないだけで、戻ってきたらまたそういう時期が来るだろう。楽しみである。

ただ、ポジションは「姐さん」なんだろうな、とは思う。共に悩むというよりは、有り難い教えを請う相手、みたいな感じになっていきそうだ。何ていうの、彼女は今まで余りにも悩み過ぎた。苦悩を知り尽くした。よって、人々の悩みは総て彼女の通ってきた道、或いは解き解いた道となっている。彼女に人生相談を持ち掛ければ、たちどころにとは言わないまでも、よい糸口が必ず見つかるだろう。

それでも、彼女の悩みは尽きない。そしていつものように、1人で悩むのだろう、かな。話し相手はくまちゃん位。彼女が"悩みの途中"を我々に吐露する事は、もうないだろう。何か出来上がってからでないと口を開かないのだから。それはそれでいい。多分そういう面は、実際に身近に居る人にしか出さないのだろう。我々は、もう知れない。

確かに、それは寂しい事なのかもしれない。しかし彼女はもう31歳、何をやってもプロフェッショナルだ。どうしてもそうなっちゃうよ。"一緒に成長していく"、というのも烏滸がましい。でも、なんだろうね、そこまで人間強くない時もあるんじゃないかな。誰かを信じられるのなら、信じてみてもいいのかもしれないよ。俺の言える科白じゃあ、ないのだけれども。

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そういえば今は表現規制というとある民放ドラマの話が盛んなんだっけか。昨日のエントリーは一般論についてであって、個別の事例は頭になかったという事は強調しておきたい。

やはり、いちばん大事なのは「知らない」「わからない」と平気で言える空気を作る事だろう。何がいちばんまずいって、情報も出揃わないうちから価値判断を持ち込まれる事だ。無関心にならず、しかし知識は蓄える、というのはかなり難しい。みんな真っ当な議論なんかしたくない。とっとと自分の立場をハッキリさせて、考えるのを止めたい。この誘惑に抗うのはとても難しい。

確かに、時に慎重さは初動の遅れを招く。しかし、あなたが時事ニュースの中で"初動"に入れるような当事者であるケースは、一体生きているうちでどれ位あるだろう。殆どのケースでは"蚊帳の外"ではなかろうか。あなたは当事者ではない。ほぼ総てのケースで、そう言える。


宇多田ヒカルとその周辺に関していえば、私は全く当事者ではない。何も力になれないし影響力もない。なので、数少ない情報の中から、こうだったらこうだろう、ああなったらそうなるかもしれない、という仮説と妄想を繰り広げるだけだ。私は常に当事者ではないので、特に"自分の立場"みたいなのを表明する気はない。その為、今日言っている事と明日言っている事が正反対になる事もある。それを"ブレている"と評する事も可能だが…されないか。

なので、立ち止まって考えるのを止めないで欲しい。悪者を作って攻撃して、早く安心したい気持ちはわかる。自分が当事者ならそれもありだろう。アニメの中のキャラクターに感情移入するように、しかし、現実の他人に対して感情移入し過ぎるのはよくない。もしそれをするのであれば、"悪役"の人たちの気持ちになってみる事も必要だろう。味方の気持ちを、あなたは本当に理解できるのか。敵の気持ちを、あなたは本当に理解できないのか。結局は程度の問題なのだが、そこらへんの中途半端さにも耐えられる…愛せるヨユウを生み出すのが、いちばん難しいだろうな。必要な事なんだけれど。

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