無意識日記
宇多田光 word:i_
 



 その6からの続きです。

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  今の2つの段落の理由は、緩やかに繋がっていると見ることが出来るかもしれない。プロデューサとしてデビューアルバムに携わっていく中で、自分は裏方の人間であり、前面に出て行く気はないんだ、ということを強く自覚していったのかもしれない。嘗てからその志向は強かったが、それが更により強化されたのではないか。当時のインタビューでは「ブリトニー・スピアーズのプロデュースもしてみたい」とも語っていたし、正直、あんまり「EXODUS」に関して『これを売ってやろう!』という気概は、翻訳をしていて感じたことはなかった。どちらかといえば「こんな作品をみんなが買ってくれるなんて意外だな~嬉しい歓びだ」という感触が強かった。実際、以後宇多田ヒカル名義で“誰かの願いが叶うころ”“Be My Last”“Passion”と、まるで大衆性を慮らない作風が続いたことをみても、その流れは明確であったように思える。

 しかし。もしそうだとすると、ファンのみんなが当時からいっていた「レコード会社何やってんだ。プロモーション全然やってないじゃないか」という(本来なら理にかなった、まっとうな)意見も、どうにも矛先が鈍ってくる。ここまで全米での戦略ばかりいっていたが、日本でもそんなに宣伝戦略が巧みだった印象は少ない。いくら洋楽アーティストであるとはいえ、天下の宇多田ヒカルと同一人物の作品である。シングルカットもせず、広告も然程多く打たず、しかし本人はいつも以上に駆り出される展開(これはまぁ当然というか、仕方ない面があるかな)には、少々違和感を感じなくもなかった、というのが偽らざる心境だった。東芝EMIのそれまでの宣伝戦略が一貫して呆然とするほど熱心だった、という対照も手伝って、どうにも日本での担当レコード会社の印象は、日本のファンの間ではよくなかったのである。(その8へ)


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