無意識日記
宇多田光 word:i_
 



朝ドラは悲喜交々喜怒哀楽毀誉褒貶甚だしいのが特徴だ。願わくば、主題歌も出来るだけオールマイティーであって欲しい。主要人物が亡くなって悲しい場面に素っ頓狂な音楽が流れてきては興醒めである。その点において『花束を君に』は完璧以上だ。

ドラマの質、及び期間の長さによるのだ。例えば「ラスト・フレンズ」であれば、1クール12回、更に、全体のムードがダーク&デンジャラスに統一されていたから、切実極まりない『Prisoner Of Love』が常にハマっていた。裏を返せば、PoLのような曲は大河ドラマや朝ドラのような長丁場には合わないかもしれない。出来るだけ短い時間に感情を凝縮したような内容が、合っていた。

翻って。ヒカルが、では、そのような、どんな場面に対しても適用できるような、ナチュラルでニュートラルでフラットな曲をとなった場合、今までなら『日曜の朝』とか『HEART STATION』のような、淡々とした、どちらかといえば地味な、抑揚の少ない楽曲を作っていた。『お祝いだ お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ』だなんて、まさに全方位型である。いうなれば、今までは一歩引いて距離を置く事で『喜び5gも悲しみ5gも同じ5g』を体現していた。一言で言えば醒めていた。


しかし、『花束を君に』はどうだろう。この上無くエモーショナルではないか。ダイナミックとまではいかなくとも抑揚の大きなメロディーと、際立った声のトーンの使い分け。普通、ここまで感情を込めると悲しみか喜びか、何らかの特定の色の方向に楽曲が振り切る筈なのだ。ところが、『花束を君に』は全方位に広がってまるごと包み込むような強さを見せる。その辺りが「今までの宇多田ヒカルにない」「母性を感じさせる」「優しく暖かい」といった感想を生んでいるように思う。

これを可能にしたのは、3年前より更に表現力を増した歌唱力だ。切実さを湛えなくとも十分にエモーションを乗せられる絶妙のトーン・コントロール。最初聴いた時、そのレベルの高さに思わずジェフ・バックリーを思い出した。先月彼の新譜(だいたいカバー曲だけども)がリリースされた影響もあるのだろうが。それ位に歌唱力が上がっている。

そして、ここら辺はシンガー・ソングライターにとって鶏と卵なのだが、ここにきて、そういった、かつては基本的に歌詞の工夫で表現してきた、相反する2つの見方を1つの歌で同時に表現する「横顔を2つ持つ歌」を、作編曲を通じて表現できるようになってきた、つまり、『日曜の朝』のように、お祝いやお葬式から等しい距離を置く事でニュートラルな位置を確保していたのを、自らの領域を広げて、両方を一度に飲み込んでしまうような、そういう曲が書けるようになってきた、そのせいで、ここまでのレベルの歌唱力が必要になったから身につけたのか、或いは、こういう歌唱力がついたからこのテの表現方法を思いついたのか、どちらなのかはわからない。しかし、そこがシンガーソングライターの強みであって、どちらが先であろうとも最終的には両方必要なのだから実現させてさえしまえばそれでよし、結果オーライである。守りと受けのニュートラルから、積極的なニュートラルへ。2016年は自ら相手に踏み込んで、そこから多くを受け容れていくという“孤高の横綱相
撲”の域に達したといえる。もう一度言うが、日本語の歌い手には最早比較対象が存在しない。椎名林檎ですら、もう目がハート状態で“手がつけられない”のではないか。それこそ、彼女やaikoや浜崎あゆみ、更には松任谷由実や中島みゆきがヒカルの今の歌を聴いてどう感じているか、誰かインタビュー取ってきてくれませんか。是非実現を。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『真夏の通り雨』に関しては、フルコーラスで聴くまで何もわからない、というのが正直なところだ。今聴いている部分だけでは判断に乏しい。とはいえ、その乏しい中からやがて印象が覆される様を記録しておくのも悪くない。今回は話半分、3分の1、4分の1で聴いておいて欲しい。

一言でいえば『桜流し』の続編、だろう。『立ち尽くす見送りびとの影』。そのシルエットは『見ていた木立の遣る瀬無きかな』そのものだ。『木々が芽吹く』と植物が出てきているし、そもそも桜流し自体が咲いた桜を打ち流す雨をはじめとした水の流れである。桜流しがSAKURAドロップスから受け継いだものを更に押し進めた印象だ。

そこまではいい。しかし、となると『自由になる自由がある』に強烈な違和感が生まれる。『SAKURAドロップス』で『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまた戦うんだろう それが生命の不思議』と歌っているように、生きる生まれるとはどうしようもない事である。Passionの時の言葉を借りれば『止まれないんだよ』か。そんな中で歌われる『自由』とは「死」でしか有り得ない。

つまり、そういう事なのだろうか、『自由になる自由』とは。自ら命を絶つ事。そこまで直接的に母の事を歌うか。或いは、そこまで歌えるほどに距離を取れるようになったという見方もできる。やっと歌えるようになった、と。

『嵐の女神』も『桜流し』も、2013年8月、あの真夏より前の歌だ。自然、その事が歌われるとしたら初めてとなる。それが1曲目2曲目だとすると随分と向き合ったものだとな。そうしなければ前に進めなかった、ともいえる。

前に指摘した通り、今は「あしたのジョー」でいえば力石徹死後、劇場版「あしたのジョー2」にあたる。亡くなった面影を追い求め苦悩し現実から逃げ向き合い何とかして生きる道を見つける。違うのはヒカルが女だったという事だ。こどもを生み、育てる。安直だとわかりきっているが、真っ白な灰にならなくて済む。

『真夏の通り雨』は、ならば、それだけの歌なのかという事になる。現状報告、或いはセラピー、か。ここでもタイアップが気にかかる。何をわざわざ報道番組、ニュースショウのエンディングに。プライベートな歌詞を、テレビでももっともパブリックな帯にもってきた。オファーがあったのか売り込んだのかも定かではないが、ヒカルがOKを出したのは間違いない。それは覚悟なのか、それとも…。

ことタイアップの部分に関しては、放送されている部分だけで解釈しても構わない、されるべき筈だ。ならば、どうメッセージを受け取るべきか。その話題からまた次回、という事になるかなぁ。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )