無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『真夏の通り雨』に関しては、フルコーラスで聴くまで何もわからない、というのが正直なところだ。今聴いている部分だけでは判断に乏しい。とはいえ、その乏しい中からやがて印象が覆される様を記録しておくのも悪くない。今回は話半分、3分の1、4分の1で聴いておいて欲しい。

一言でいえば『桜流し』の続編、だろう。『立ち尽くす見送りびとの影』。そのシルエットは『見ていた木立の遣る瀬無きかな』そのものだ。『木々が芽吹く』と植物が出てきているし、そもそも桜流し自体が咲いた桜を打ち流す雨をはじめとした水の流れである。桜流しがSAKURAドロップスから受け継いだものを更に押し進めた印象だ。

そこまではいい。しかし、となると『自由になる自由がある』に強烈な違和感が生まれる。『SAKURAドロップス』で『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまた戦うんだろう それが生命の不思議』と歌っているように、生きる生まれるとはどうしようもない事である。Passionの時の言葉を借りれば『止まれないんだよ』か。そんな中で歌われる『自由』とは「死」でしか有り得ない。

つまり、そういう事なのだろうか、『自由になる自由』とは。自ら命を絶つ事。そこまで直接的に母の事を歌うか。或いは、そこまで歌えるほどに距離を取れるようになったという見方もできる。やっと歌えるようになった、と。

『嵐の女神』も『桜流し』も、2013年8月、あの真夏より前の歌だ。自然、その事が歌われるとしたら初めてとなる。それが1曲目2曲目だとすると随分と向き合ったものだとな。そうしなければ前に進めなかった、ともいえる。

前に指摘した通り、今は「あしたのジョー」でいえば力石徹死後、劇場版「あしたのジョー2」にあたる。亡くなった面影を追い求め苦悩し現実から逃げ向き合い何とかして生きる道を見つける。違うのはヒカルが女だったという事だ。こどもを生み、育てる。安直だとわかりきっているが、真っ白な灰にならなくて済む。

『真夏の通り雨』は、ならば、それだけの歌なのかという事になる。現状報告、或いはセラピー、か。ここでもタイアップが気にかかる。何をわざわざ報道番組、ニュースショウのエンディングに。プライベートな歌詞を、テレビでももっともパブリックな帯にもってきた。オファーがあったのか売り込んだのかも定かではないが、ヒカルがOKを出したのは間違いない。それは覚悟なのか、それとも…。

ことタイアップの部分に関しては、放送されている部分だけで解釈しても構わない、されるべき筈だ。ならば、どうメッセージを受け取るべきか。その話題からまた次回、という事になるかなぁ。

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コメント
 
 
 
ヒカルの心、自分の気持ち。 (みー)
2016-04-12 17:14:38
母親の心の病は、どうしようもなく母親だけのもので、けして、自分のものとはなり得ない。
相手の生も、相手の死も。
もどかしいですよね。
どんなに愛していても、どんなに似ていても、母親
の心を開けてみることはできない。
「葛藤」「抑圧」「絶望」「罪悪感」「空虚感」
「母の言葉」
人知れず涙を流した日々。
「大切なものを守り隠す」
ずっとずっとあの夏の日まで、祈っていたのだと思
う。
どんなときも。
母と娘の絆は特殊であり、独特なもの。
別れがあっても、思い出したかのように顔を出して
は心揺さぶられる。
心のわだかまりは、きっと消えてなくなることはな
い。
それでも生きていく。
長い時間を要したけど、自分を信じ自分の内側の奥
深いところで導き出した答えは、混じりけのない
「言葉」と「メロディー」
確信に満ちて心優しく胸に響く。
 
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