無意識日記
宇多田光 word:i_
 



もう既に『真夏の通り雨』を二回聴いてしまった為、第一印象について書いても、それは"何とか思い出して"書くしか無い為どうしても嘘が混じる。感情は最早不可逆。二度と戻らない。しかし、これから、まだまだこの歌と共に生きていく事が出来る。僥倖とか幸福とか歓喜とか、色々な言い方が出来るようで出来ないような不思議な感覚。ただ、グッと来ている。心に、何か確実に来ている。他では得られない、この歌声ならではの実感の強さが、ここには在る。

もっとリラックスした感想から入ろう。一聴して、「これ、どこからどこまでがサビやねん』と思った人も多いかと思う。自分も思った。そして二回聴いてもまだよくわからない。つまり、今は、それを気にするかしないかだ。私は全く気にならない。そんな定型的な音楽ばかりを普段聴いている訳じゃなし。そもそも、何故歌に始まりと終わりが在るのかという問いを持っているのだ。構成がどうとか、気にしている暇はない。音の始まりと終わりの狭間でだな…あぁそうそう、それで思い出したが、朝の連続テレビ小説は字幕放送ありだから、歌詞を知りたい人は字幕表示をONにしましょうね。それはさておき。

サビがどこだかよくわからない。それに加え、特にピアノが印象に残らない。どうしたって喋りがかぶさってくる為よく聞き取れていないが、イントロと思しきピアノはみるからに"ただの伴奏"で、工夫が無い。サウンド的には、シンフォニック&ダイナミックな『花束を君に』のアレンジとは対照的に、ひたすら地味だ。お陰で、やっぱり掴み所が、無い。

しかし、恐らくこのピアノ、ヒカルが弾いているのではないか。フル配信の際に演奏クレジットが発表されるかどうかは定かではないが、『花束を君に』は一流のミュージシャンたち(特にドラマーの名前を一刻も早く教えて欲しい。誰だあれは。)による演奏が多層的に構築されている一方、『真夏の通り雨』はヒカルの弾き語りなのではないだろうか。

そうだとすると明確な対比だが、あの文庫本みたいな配信ジャケットからもわかる通り、この2曲は対或いは組である。十分にその意図を酌む為には、特に『真夏の通り雨』に関しては歌詞によくよく耳を傾ける必要があるだろう。

繰り返しになるが、まとめると、『誰』という歌い出し、ヒカルによるピアノ演奏、更に「詞が先に出来た曲ではないか」という推測からは、どうしても『誰かの願いが叶うころ』を思い出させる。あの歌の、売れ線云々から最も遠い所にある誠実な世界観を、この曲も共有しているとみるべきか。ならば、やはり本気でひとつひとつの言葉と向き合わなければならない。

しかしそれには、現時点では余りにも物足りない。何しろ、まだ歌詞の中に『真夏の通り雨』という語が出てきていないからだ。ザ・靴裏掻痒感。もどかしい。キーワードとは、それによって世界総てをひっくり返すからキーワードなのだ。世界を見る目を一瞬で変える魔法の言葉。本来歌のタイトルとはそれ位の威力を持っている。それがまだないのだ。ややや。

もっとも、フルコーラスを聴いても『真夏の通り雨』というフレーズが出てこない可能性もまだある。しかし、こんな印象的なフレーズを一切言わないというのも、不自然だ。ヒカルの日本語曲には、基本的にタイトルのフレーズが歌詞として出てくるものである(海路とかテイク5とかあるけどな)。なんだろう、兎に角、それなしで歌詞を解釈しようとしても、オセロで最後に四隅をとられるように、たった一言で価値の転換が起こりそうで、どこかに躊躇いがある。総ての価値観を包み込む『花束を君に』とは、ここでも対称的だ。タイトルがもう歌われている、というのもやはり大きいのだが。

今はまだ、あの印象的な『送りびと』も『自由』も、確定的なイメージを成していない。一瞬の叙述トリックで、総てがひっくり返す気配が消えない。それを承知の上で、4月14日まで、この歌の解釈を繰り広げていく事にしよう。果たしてどこまで迫れるか。今から自分で楽しみである。どうなるかな~?

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『薄化粧』というのは、みるからにポイントである。ただの『化粧』にしなかった所に、一方踏み込んだ姿勢を感じる。

ここも、人によっては様々な解釈が可能だ。「色気づきやがって~」と囃し立てるもよし、山に雪が積もったでも構わない(その場合は季節の移り変わりの描写になるかな。しかし、薄化粧と言い切るとどうしても死化粧としての解釈を打ち棄てる訳にはいかなくなる。

一方で、"普段"という物言いからは、あまり死化粧としての色合いは感じられない。もう普段じゃない日しか来ないのなら尚更だ。そうやってバランスをとっている、とみる事も出来るがいずれにせよフルコーラスで聴くまでは歌詞の構成がわからない。またしても、妄想するなら今のうちである。

ひとまず、今あるものをみよう。「歌声が変わった」「優しくなった」「お母さんとしての…」…Twitterで見かけた感想だ。全くその通りであって、とても優しく柔らかい。しかし、真価を発揮するのはこれからだ。今のヒカルは、歌詞に2つの横顔を託すだけでなく、歌声にも両面性を託せる技術を手に入れた。異次元の歌唱力とはそういう事だ。

既述の通り、朝の連続テレビ小説は悲しい事も楽しい事も嬉しい事も腹立たしい事も、何もかも総てが起こる。特に、とと姉ちゃんでもアバン(オープニングテーマが流れる前のドラマパート)が採用されているので、劇中の雰囲気と歌の雰囲気にある程度整合性がないとすっきりしない。

しかし、今のヒカルの歌い方だと、ある日は悲しげに、ある日は楽しげに、ある日は抑えて、ある日は開かれて聴こえるだろう。プリズムのような、万華鏡のような歌声。「七色の声をもつ」とはよく聞かれるうたい文句だが、たったひとつの歌声が七色に変化して聴こえる様を、これからのドラマ視聴者は体感する事になる。勿論連続ドラマを楽しむには感情移入が必須なので、ヒカルの歌の、ヒカルの歌声の底力を体感したい人は「とと姉ちゃん」の視聴継続をお薦めする。私が最初に感じた「恐怖」の正体を、半年かけてじっくり味わってうただきたい。その為にも、NHKドラマ班の皆様、ようよう頑張っとくれやす。


真夏の通り雨の第一印象を語り始めるまで長いな…そうこうしてるうちに日々テレビから歌声が流れ、人々の歌に対する印象がアップデートされていく。思っていた以上に、「毎日タイアップ」の威力はデカい。感想は簡潔に書いていかねばね。

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