『花束を君に』というタイトルが発表された折、"ライバル"として様々な曲の名を出した。が、本当のライバルは、言うまでもなくこの、ダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を』である。この長編小説の生む、非常に高い所にある“文学的瞬間”に、たった5分の歌でどこまで迫れるか。これは、『花束』という日本語を使ってしまった宿命である。ヒカルがこの作品を愛しているなら尚更だ。あクマでも、“ここだけの物語”、では、あるけれど。
しかし。私はこの、原題"Flowers For Algernon"に対して邦題を「アルジャーノンに花束を」とした点について、些かの引っ掛かりを感じている。
間違っている訳ではない。ましてや誤訳でもない。私はこの、名も知らぬ翻訳者に対して、並々ならぬ敬意を抱いている。特に冒頭部分から暫くに関しては、ジェイムズ・ジョイスの翻訳を行う類いの難易色を示す。校正の方の努力に至っては想像を絶する。私は何ひとつ誤植の類いを見つけられなかった。達成された精度は、それはそれは凄まじい。くどいようだが、大きな敬意を表さずにはいられない。その翻訳に対する不服や、ましてや批難などではない事は重々念を押しておきたい。
しかし、それでも敢えて指摘する。"Flowers"を「花束」と訳しては、間違いではないが、読者に正確にニュアンスを伝える事が適わないケースが出てくる恐れがある。
私は原文を読んでいない。しかし、この作品を読んだ上で確実に言える事は、アルジャーノンに一度目に向けられた花は間違いなく単数形であり("a flower"、若しくは"a なんちゃらかんちゃら of flower")、2度目に向けられた花は間違いなく複数形だ。賭けてもいい。そうしていないならば、ダニエル・キイスはこの(自分で書いた)作品を理解していなかった、とすら言っていい。それ程にこの2つ(の違い)は重要である。
一度目はそのままで構わない。一輪の花とかそういう風に言われたら、日本語を解するものが想像するのは、(その花がどんな花であれ)たったひとつの花だろう。しかし、二度目だ。「花束」は間違いなく花が2つ以上ある、花が複数ある事を示す日本語ではあるが、これを贈る人が2人以上から構成されるとは、必ずしも限らない。読者がそう想像するとは、限らない。胸いっぱいの花束を、1人から1人に贈る様子を想像する人が居ても、おかしくはない。
そうではない。二度目は、必ず2人以上から花を贈られる事を想像させなければいけない。つまり、アルジャーノンに一輪の花(でなくてもいいが)を"いくつも"贈った結果として花束がそこに生まれなければならない。勿論、読んだ人のうちのかなり多くがそのように想像するだろう。その人たちにとっては、紛れもなく名訳だし、実際、二度目の時の翻訳文を読んだ人のほぼ全員がそう解釈してくれる。そこには何の問題もない。
しかし、読者の中には、タイトルを先に知り(これは不可避である)、ただただ花束をアルジャーノンに向ける様子を想像しながら読み進めていく人も居るかもしれない。そういう人に、果たして要点が正確に伝わるか。2人以上の人から贈られる事が肝心なのだと伝わるか。そこに僅かな隙があるように思う。些かの引っ掛かりとは、この点の事である。
また、タイトルだけを聞いた人があっさり誤解する可能性もある。これを(つまり、読者以外について思いを巡らす事を)重要視すべきかは難しい。仮に、そのミスリードすら織り込み済みというのなら、この、「アルジャーノンに花束を」という邦題は紛れも無く名訳の誉であろう。
だってねぇ、だからって「アルジャーノンに花々を」じゃかっこわるいもんねぇ。
単数形と複数形の意義については過去に論じたので割愛する。問題は、ヒカルが歌詞の中でこの今議題に挙げた日本語「花束」をどう扱っているか、である。1人の人の思いの丈を込めた挙げ句の(つまり、1人から贈られる)花束なのか、或いは、2人以上の、沢山の人たちから花を贈られてそれが「花束になる」のか。今回歌詞で最も注意すべき点はここである。あと3日。そこまで聴けるかは不明だが、震えて待とう。
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