無意識日記
宇多田光 word:i_
 



せわしい空だな。日蝕で騒いでいたと思ったら激しい雨だ。そして明日は夏日だという。やれやれ、なかなか追いつけない。

ヒカルの歌では空はしばしば擬人化されて登場する。いや、登場はしないか。ヒカルの心づもりがまるで人を相手にしているかのようだ、というのが近いかもしれない。

何しろ、デビュー曲からして『青空へtake off』『雨だって 雲の上に飛び出せば Always Blue Sky』だし、去り際の曲(コンサートの"あとで"流された楽曲)でも『こんなに青い空は見た事がない』と来る。ヒカルの歌詞の主要なテーマのひとつといえる。

"擬人化"、というならやはりDeep River+の『空が目を閉じる』であろう。どこまでも暗示的で、未だに明快な解釈が思いつかない。或いは、ヒカル本人にすらそういった意図がないのかもしれない。兎に角、インパクトはある。どういう意味がわからないからこそ衝撃的だ。冷静に考えてみると、今目を閉じたのならそれまで空は目を見開いていたのかと訊いてみたくなる。虚空に眼球と瞼が浮かんでいるのだろうか。SFホラーである。多分、そういう事じゃない。

青空に嘲りを受ける悔しさについてヒカルは話す。空から送られる目線は侮蔑や憐憫なのだろうか。だとしたら、『目を閉じる』とはその目線が途切れる事を意味するのか。それは、大空から最早嘲りを受けぬ存在に成り果てた事を意味するのか、或いは諦められたのか。いずれにせよヒカルの悔しさが消え去る事を意味するのか。永遠と恒久の象徴である空に対して短き人の生涯の儚さを、運命として受け入れる心の準備が出来た時、空は静かに目を閉じるかもしれない。まるで、もう何も言うことはない、と最後に告げてくれる為に。なるほど、"運命を受け入れる事"の視覚的、映像的表現が『空が目を閉じる』であれば、その前段の散文詩とも整合がつく可能性があるな。

しかし、まだまだ全くわからない。またこの一節については、いつか次の機会を見つけてみたいと思う。

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「ご安心を。ヒカルは生き生きと毎日を過ごしてます。気遣いありがとう。teruzane」

いやはや、朝からお腹いっぱい。もう今朝はこれ以上何も書かなくてもいいかな(笑)。それだけ聞ければもう。本人不在時に、あんた最高のマネージャーだよ。その前に父だけど。

ことばというのは不思議なもので、別に今回も光の生き生きとした姿を目にした訳でもない癖に妙に安心してしまっている。これが嘘だったらどうすんだ、と思うものの実際の姿を見せてくれてたって嘘の態度を見せているのかもしれないし(やせ我慢て奴だな)、言い出したらキリがないのだ。何をどう信じるかは感性に任せるしかない。それを自覚していないと、人に対して攻撃的になったりするのだけど。

「ご冗談でしょう、ファインマンさん」で有名(?)なリチャード・ファインマンは、妻を亡くしたその時には泣かなかったが、ある日ふとショーウィンドーに目が止まって「あぁ、この服妻に似合うだろうな」と思った瞬間に彼女がもうこの世に居ない事に気が付き、涙が止まらなくなったという。このエピソードは、このエピソードを知っている人ならついつい何度も引用したくなる位に印象的なエピソードだ。人を喪う、とはこういう事を言うのだと端的に教えてくれる。

この話、普段は色々と縁起がよくなさすぎて披露できないのだが、照實さんが上記のツイートをしてくれたお陰で遠慮なく書けている。ありがたい事だ。

人が死んだ時、連絡が来る。大抵はその瞬間が最も衝撃的で、悲しい。そして、それが人の世のシステムというものだ。ファインマンさんのように、そういったシステムから自由な人(という表現は、彼の生涯を顧みると若干の皮肉を含むかもしれないが)は連絡を受けただけではまだ実感に到達しないだろう。自分の人生に深く入り込んでいるある日常の瞬間に、居る筈の人が居ない、それに気付いた瞬間―


人には想像力というものがある。それに沿って怒ったり悲しんだりする。行き過ぎると、会った事もない、居もしない存在に怨みと怒りと憎しみを募らせながらそれに人生の大半を費やす人も居る。それは信念と紙一重だし、それがないと新しい事も生まれないが、大抵はただの運命の犠牲者にしかならない。と同時に、そういった人生を送らせて貰えなかったらまたそれはそれで合点がいなかいだろう。人生は短い。想像で怒ったり実感で悲しんだり、どちらもあるのではないか。重要なのは、人が怒ったり哀しんだり喜んだり楽しんだりする事だ。恐らく、その大半は真実にとって嘘にしか過ぎないとしても。


何にせよ光が元気なら、よかった。ふぅ。

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