無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ミスチルのベスト盤が一週目2枚で144万枚だって。いやはや、凄い。レコード会社の予想を上回るペースで売れているのではないか。ほっときゃ300万枚行くペースである。木曜日発売だというのに。お陰で助かったけど。(?)

彼らは最早日本のBON JOVIと言いたくなる位鉄板で現役だが、その秘訣は何なのだろう。私は彼らの事を殆ど知らないから当てずっぽうで指摘してみると、恐らく"初心"たるバンド・サウンドを崩していない事にある。

21世紀に入ってJpopはストリングス/オーケストラを入れて盛り上げる事に躊躇いがなくなった。ある意味60年代回帰みたいなものだが、ミスチルも例外ではなかった筈だ。しかし、彼らの場合どれだけ弦が感動的に高まっていっても核にあるバンドサウンドが崩れない。ミスチルである以上崩しようがない、ともいうべきか。

以前も指摘したように、ミスチルのアレンジメントはLIVEを意識したサウンドになっている。狭い家やヘッドフォンでは、あの「広い空間で鳴り響かせる事で本領を発揮するコードやフレーズ」のよさがなかなか伝わらない、と一度もミスチルのLIVEを見たことのない私が言ってみる。説得力? いや別になくてもいいじゃないですか。

つまりは、彼らの生き方が音に宿ってしまっているのである。4人でステージに立って音を出す。その生き方に沿って楽曲が生まれてくるからフルオーケストラに囲まれようが揺るぎない。なんだかあれだけクラシカルに豪奢を極めたサウンドの中、それでもステージに立ってアコースティックギターを爪弾いていたRENAISSANCEのリーダー、マイケル・ダンフォードを思い出す。いやそれも別にいいんだけど。

ミスチルの今回のベスト盤はデビュー20周年を記念しての事だ。それだけ長くやってると、どうしたって生き様は音に宿る。きっと生粋のLIVEバンドなのだろう。そこが揺るがなければ、このバンドはまだ次の20年だって揺るぎない。

ヒカルの場合は、その歩みを12年で一旦ストップした。やがてデビュー20周年記念年も訪れるだろうが、その時に音に宿っている彼女の生きざまは、一体どういったものになっているだろうか。

とても素直に考えれば、家で本を読みくまちゃんと戯れ鍵盤を弾いてみて、まとまってきたらマッキントッシュと睨めっこ、みたいな曲作りだろうから、それが彼女の生き様である。LIVEが主体でない以上、楽曲に反映されるのは家やスタジオでの地道な作業だ。その地道さや孤独さや責任感がこのまま続いていけば、楽曲にはそれらがそのまま宿っていくことだろう。もう後戻りなんて出来そうもない。

例えば。ツアー中に曲作りをしてみれるなら新しい局面もあるかもしれない。が、あの全力振りからすればそれは無茶な相談かもしれない。まぁ世の中にはツアーで毎晩歌っておきながらその間の移動を自ら操縦するジャンボジェットで遂行する化け物も居りますがの…。

しかし、曲作りの幅は広い方がいい。出来るだけありとあらゆる手段を活用できる方がバリエーションは広がる。難しいのは、どこで何を頑なに拘るかだ。ミスチルはあの4人である事に拘っているように見える。そういった変わらない柱と、都度時代に対応できる柔軟さの両方を持ち合わせるのが理想なのだが、ヒカルにそういった"拘り"は、あるのだろうか。ないように見えるのに楽曲のクオリティが下がるどころか上がってしまう所がホントに今でもミステリアスなんだなぁ。

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光も来年30歳だが、英語では30年の事をGenerationと呼ぶ(10年はDecade、100年はCenturyだ)。"ジェネレーション・ギャップ"なんて言葉もあるように、この単語には"世代"という意もあるから、英語圏では"30年1世代"という感覚でもあるのだろうか。

物事の流行は大体10年位で考えられる事が多い。70年代風、とか80'sとかいう。10年1時代、30年1世代、100年1世紀といった所か。10年で移り変わるのが流行等の表面的な事ならば、30年で入れ替わるのはその世代の"常識"だろうか。光はそろそろ常識にギャップのある世代のファンを受け入れ始めなければならない。

次の世代は当然ヒカルが一世を風靡した事など知らない。そこでフラットに音から入って聴いて貰うか、大人の「宇多田は凄かった」という呪詛に導かれて入ってくるかで大分違いそうだ。前の世代に対して反発心を抱くか尊敬の念を抱くか。どちらになるだろう。いや、そういう選択肢の並べ方自体が、彼らの常識に合わないかもしれない。世代間では、そういった前提となる常識から疑ってみないといけない。

といっても、それに惑っていても仕方がない。ヒカルが次の世代にも愛されるようになる方法論を、今のこちらの常識で考えてみる事にしよう。

…大丈夫なんじゃないかな。

いや、本当に。いい歌は世代も時代も超えるというけれど、大概それはその時代や世代の人間の願望に過ぎない。というか、彼らが声を出し続けていれば何だかんだで触れる機会は与えられる。なので、次の世代の耳には入るだろう。

確かに、私なんかは親世代の聴いていた音楽はそれなりに知っている。60年代のザ・ビートルズやグループサウンズ、70年代のフォークやニュー・ミュージックなど大御所はそれなりに耳に入っている。多分、ヒカルの曲も同じようにスタンダードとして次の世代の耳に入るだろう…

…という風な、"常識的な"思考で次の世代を捉えられるかといえばわからない―というループに入ってしまうのがこの問題の厄介な所なんだが、先述のようにそれは言っても始まらない。以外無限ループ。

まぁ、一世代を越えたらスタンダード、二世代を越えたらクラシックスと呼んでいいんじゃないだろうか。50年代~60年代にかけて盛んになったロックミュージックは90年代~00年代にかけて"ロック・クラシックス"というジャンルが定番化した。大体30~50年位経過すれば、そう呼びたくなってくるのだろう。ヒカルの曲がクラシックスと呼ばれるかどうかは、実際にそうなってみるまでわからないが、ひとまず今の我々はこれが未来のクラシックスだと確信して音楽に触れ合っておけばいいんじゃないかな。

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