アルバム 炎の旅立ち ハッシュ
シングルジャケット 見本盤です
ロバート・ベリーが在籍していた「ハッシュ」に関して、
詳しい方もいるかも知れませんが、
ネットを検索していても、
「ハッシュ」のサウンドに関して記してある文章には、
今のところ辿り着く事ができません。
そもそも、
「ハッシュ」には、
関心を持った事が無かったのですが、
「3.2」(スリー・ポイント・トゥー)の国内盤において、
ロバート・ベリー自身が、
ハッシュを成功したバンドとして捉えているようでしたので、
「どの程度、成功していたのだろうか?」
と思ったことや、
「もし、成功していたとした場合、どのような音楽を奏でていたのだろうか?」
と少し興味が湧いたわけです。
今のところ、
「ハッシュ」の発生過程から終焉を迎えるまでの、
全ての歴史は解っていないのですが、
「ハッシュ」のアルバムや、
アルバムからカットされたシングルレコードが、
日本でも発売されていた事だけは解りました。
ファーストアルバムは、
邦題「炎の旅立ち」というタイトルで、
1979年にリリースされたようです。
EL&Pの「イン・コンサート」が発売された年ですね。
解説が入っているのですが、
おそらく、この解説が、
ハッシュの成立過程をこと細かに記してある、
最初のものであると思われます。
「HUSHがメジャーになったきっかけをつかんだのは同年(77年)夏に行われたKSANラジオ主催のコンテスト「ザ・ビッグ・プレイ・オフ」であった。ビル・グレアム、ポール・カントナー(ジェファーソン・スターシップ)、デビッド・ルビンソン(プロデューサー)といった連中が審査員になったこのコンテストでHUSHは500組のバンドを破り堂々優勝したのである。」解説より
500バンドの中から勝ち上がってきたという点においては、
アルバムデビュー前であるにせよ、
これも一つの成功と見る事もできますね。
これがきっかけとなって、
カナダのバンド「ラッシュ」や「UFO」と同じステージに立つ事になったようです。
これが、前座としてラッシュのツアーに同行していたのか、
単発的なものなのかまでは、よく解りませんでした。
この解説に於いては、
ハッシュが80年代のロックシーンを席巻する実力を持った音作りをしていると、
ベタ誉めされています。
自宅で作業をしながら、
針を落として、2度ほど聴く事ができました。
私はこのアルバムの曲が、
当時、ラジオで流れていたとしても、
おそらく、購入する事はなかったと思います。
一度耳にして惹かれる曲というのは、
今でもありまして、
車でラジオを聴いている時でも、
停車してアーティスト名や曲名をメモしたりしています。
ハッシュに関しては、
そこまで「良い」と思うような曲が無かったのです。
サウンドは、
アメリカンテイストに技巧的な要素が入った、
ちょっとポップなロックという位置づけだと思います。
解説には、
ハッシュがプロデビュー前に演奏していたのは、
プログレバンドの曲だったように記されており、
その経歴を踏まえてか、
プログレッシヴな要素も、
かいま見えるような事が記されていましたが、
正直、そのような感じは受けませんでした。
それでも、
エイジアとかがメガヒットを飛ばす前でしたので、
人によっては、
ハッシュの中にプログレの片鱗を感じ方もいたと思いますし、
ハッシュの音をかなり気に入る方もいるかも知れないです。
ハッシュが80年代を席巻していれば、
私も代表曲ぐらいは耳にしていたかも知れませんが、
おそらくそんな事はなかったと思います。
ハッシュはアルバム1枚を作って解散したというわけではないようなので、
他のアルバムを聴くとまた異なった感想も出てくるのかも知れません。
一部の音楽関係者には認知されていて、
ロバート・ベリーはその才能を買われていたと思いますが、
多くのリスナーに認知されるところまではいかなかったのだと推定します。
その才能をどうにかして表に出そうとして、
GTRや3(スリー)への誘いが出てきたのでしょうね。
結果、ロバート・ベリーは、
キースと組んだ事で、
プログレファンの脳裡には刻まれる事になりました。
以上。
EL&Pを愛し続けてまいりましょう。
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ロバート・ベリーが在籍していた「ハッシュ」に関して、
詳しい方もいるかも知れませんが、
ネットを検索していても、
「ハッシュ」のサウンドに関して記してある文章には、
今のところ辿り着く事ができません。
そもそも、
「ハッシュ」には、
関心を持った事が無かったのですが、
「3.2」(スリー・ポイント・トゥー)の国内盤において、
ロバート・ベリー自身が、
ハッシュを成功したバンドとして捉えているようでしたので、
「どの程度、成功していたのだろうか?」
と思ったことや、
「もし、成功していたとした場合、どのような音楽を奏でていたのだろうか?」
と少し興味が湧いたわけです。
今のところ、
「ハッシュ」の発生過程から終焉を迎えるまでの、
全ての歴史は解っていないのですが、
「ハッシュ」のアルバムや、
アルバムからカットされたシングルレコードが、
日本でも発売されていた事だけは解りました。
ファーストアルバムは、
邦題「炎の旅立ち」というタイトルで、
1979年にリリースされたようです。
EL&Pの「イン・コンサート」が発売された年ですね。
解説が入っているのですが、
おそらく、この解説が、
ハッシュの成立過程をこと細かに記してある、
最初のものであると思われます。
「HUSHがメジャーになったきっかけをつかんだのは同年(77年)夏に行われたKSANラジオ主催のコンテスト「ザ・ビッグ・プレイ・オフ」であった。ビル・グレアム、ポール・カントナー(ジェファーソン・スターシップ)、デビッド・ルビンソン(プロデューサー)といった連中が審査員になったこのコンテストでHUSHは500組のバンドを破り堂々優勝したのである。」解説より
500バンドの中から勝ち上がってきたという点においては、
アルバムデビュー前であるにせよ、
これも一つの成功と見る事もできますね。
これがきっかけとなって、
カナダのバンド「ラッシュ」や「UFO」と同じステージに立つ事になったようです。
これが、前座としてラッシュのツアーに同行していたのか、
単発的なものなのかまでは、よく解りませんでした。
この解説に於いては、
ハッシュが80年代のロックシーンを席巻する実力を持った音作りをしていると、
ベタ誉めされています。
自宅で作業をしながら、
針を落として、2度ほど聴く事ができました。
私はこのアルバムの曲が、
当時、ラジオで流れていたとしても、
おそらく、購入する事はなかったと思います。
一度耳にして惹かれる曲というのは、
今でもありまして、
車でラジオを聴いている時でも、
停車してアーティスト名や曲名をメモしたりしています。
ハッシュに関しては、
そこまで「良い」と思うような曲が無かったのです。
サウンドは、
アメリカンテイストに技巧的な要素が入った、
ちょっとポップなロックという位置づけだと思います。
解説には、
ハッシュがプロデビュー前に演奏していたのは、
プログレバンドの曲だったように記されており、
その経歴を踏まえてか、
プログレッシヴな要素も、
かいま見えるような事が記されていましたが、
正直、そのような感じは受けませんでした。
それでも、
エイジアとかがメガヒットを飛ばす前でしたので、
人によっては、
ハッシュの中にプログレの片鱗を感じ方もいたと思いますし、
ハッシュの音をかなり気に入る方もいるかも知れないです。
ハッシュが80年代を席巻していれば、
私も代表曲ぐらいは耳にしていたかも知れませんが、
おそらくそんな事はなかったと思います。
ハッシュはアルバム1枚を作って解散したというわけではないようなので、
他のアルバムを聴くとまた異なった感想も出てくるのかも知れません。
一部の音楽関係者には認知されていて、
ロバート・ベリーはその才能を買われていたと思いますが、
多くのリスナーに認知されるところまではいかなかったのだと推定します。
その才能をどうにかして表に出そうとして、
GTRや3(スリー)への誘いが出てきたのでしょうね。
結果、ロバート・ベリーは、
キースと組んだ事で、
プログレファンの脳裡には刻まれる事になりました。
以上。
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