ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

門前の小僧

2016年06月07日 | 思想・学問

 今日も今日とてつまらぬ仕事におわれ、時がながれてしまいました。

 私は働きたくない病とでもいうべき精神状態のまま、毎日働いています。

 しかし不思議なもので、面倒な仕事は早く片付けて楽になりたいという思いと、やり直しはしたくないという考えから、早くて精確に仕事をこなし、しかも残業をしないので、あいつは暇だと思われ、ますます仕事が増えるという悪循環に陥っています。

 日々思うのは、宝くじが大きく当たって退職し、旨い物を食ったり旅行をしたり芝居を観たりして、遊んで暮らしたいという、煩悩にまみれたことどもです。

 大乗仏教では、すべての人に仏性が有り、誰もが悟りを開く可能性を持っていると説きます。
 しかし自分の心をのぞいてみても、仏性のぶの字も見当たりません。
 およそ成仏など考えられないことです。

 同じ仏教でも小乗仏教はすべての人に仏性があるとは説きません。

 どこの宗派かは忘れましたが、誰にでも仏性があり、成仏できる可能性があると説くのは、衆生が絶望しないようにするための方便にすぎない、と説いていて、なかなか鋭いと思ったことがあります。

 まぁ、冷静に考えて、誰にでも仏性が有るのだと仮定しても、大抵の人は悟りなど開けないのですから、仏性が無いのと一緒のような気がします。

 私は寺で生まれ育ち、環境から言って仏教の影響を強く受けているのだろうとは思います。
 門前の小僧習わぬ経を読む、と言いますしね。

 しかし自覚的には、私は仏教信者とは言い難いですし(もちろん神道信者ではありませんが)、多くの日本人がそうであるように、無宗教と言ってよいのだろうと思います。
 強いて言うなら、石原慎太郎が自らを石原教信者と言い放ったように、私もまた、仏教やら神道やら文学やらの美味しいとこ取りをした、とびお教信者としか言い様がありません。

 多分大方の日本人もそんな感じじゃないでしょうかねぇ。

 しかしとびお教には決定的な欠陥があります。
 衆生はおろか、私一人すら救うことが出来ないのです。
 衆生を導くべき教祖が迷いに迷っているのではどうしようもありません。


 いっそ過激な思想を隠し持った新興宗教に、嘘でもいいから入信して、洗脳されてしまえば楽かもしれませんねぇ。
 洗脳された人々というのは、気持ち悪いほど幸せそうですから。  

 


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