夏の終わりが近づいているようです。
今さら感が漂う今日の暑さも、夏の断末魔のような気持ちさえしてきます。
この猛烈な残暑のなか、ぼんやりとした頭で、はるか昔に読んだ、芸術についての思索が浮かんでは消えていきます。
芸術もまた、儚い夏の如くだからでしょうか?
芸術論というのはあまりにもたくさんあって、正直、何が何だかわかりません。
しかし、ニーチェ中期の芸術観は分かりやすいのではないでしょうか。
芸術と酒なしで生きること。-芸術作品は酒と同じような事情にある。つまり、両方とも必要とせず、いつも水ですませ、その水を塊の内部の火、内部の甘美さでくりかえしおのずと酒に変えていくほうがずっとよいのである。
「人間的な、あまりに人間的な」という著作にみられます。
人間的な、あまりに人間的な〈上巻〉(新潮文庫) (1958年) | |
阿部 六郎 | |
新潮社 |
人間的な、あまりに人間的な〈下巻〉(新潮文庫) (1958年) | |
阿部 六郎 | |
新潮社 |
人間的な、あまりに人間的な (まんがで読破) | |
ニーチェ | |
イースト・プレス |
正直難解ですが、この一節はすとんと腹に落ちます。
芸術を、陶酔を求める酒か麻薬のようなものと見なすのは、分かりやすいし、一面の真実を突いているように思われます。
特に自ら創造する芸術家本人よりも、それを享受する芸術愛好家においては、その傾向が強いように思います。
かくいう私もそうです。
しかしニーチェの芸術に対する態度は、前期、中期、後期で大きく異なります。
上に紹介した言葉は中期のものです。
前期においては、自然そのもの、宇宙そのものが、根源的な存在によって創造された芸術であり、人間の芸術家は、根源的な存在が自らの救済を祝う媒体、とされています。
「悲劇の誕生」に見られます。
悲劇の誕生―ニーチェ全集〈2〉 (ちくま学芸文庫) | |
Friedrich Nietzsche,塩屋 竹男 | |
筑摩書房 |
自然や宇宙そのものを一種の芸術と見なす見方も一般的ですが、人間の、個々の芸術家を上のように捉えるのは私には理解できません。
そんなご大層なものではありますまい。
前期の芸術への見方から、中期にいたって、酒のようなものだという見方に変わりながら、後期にまたもや大転換を遂げます。
芸術は偉大な、生を可能にする者、生への偉大な誘惑者、生の偉大な刺激剤である。
「権力への意志」に見られます。
ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫) | |
Friedrich Nietzsche,原 佑 | |
筑摩書房 |
ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) | |
Friedrich Nietzsche,原 佑 | |
筑摩書房 |
さらに、現実世界は偽りであり矛盾にみち無意味である。このような現実を克服して生きていくためには、われわれは真理ではなく虚言を必要とする。(中略)芸術は虚言の最高の形式である。
とまで、考えは進みます。
しかし、この後期の言葉は、前期に回帰したものでは全く無いことに気づきます。
前期においては、ほとんど芸術を称揚しているように見えます。
中期においては、芸術は酒か麻薬のような無用なものと捉えられます。
しかし後期においては、世界が偽りであり無意味なのであって、虚言こそが人間に必要であり、その最高のものが芸術だと言うわけですから、前期に見られた世界そのものを芸術と見なす考え方は消え去り、むしろ無意味だからこそ人間による虚言であるところの芸術が必要だと説かれます。
哲学者の言うことが年代によって変わるのはよくあることで、お釈迦様ですら、悟りを開いた直後の説法は難解であったのが、年を取るごとにより分かりやすくなっていったと伝えられます。
ですからニーチェが年代によって異なる芸術観を持つこと自体は不思議なことではありません。
しかし、その変わりようが少々極端であるような気がします。
私自身は、中期の、酒か麻薬のような、どちらかと言えば遠ざけておいたほうが良い物のように思っています。
そんなものを知らずに過ごせれば、どんなにか良いでしょう。
しかし、私たちは不幸なことに、酒の酔いを知り、芸術の陶酔を知ってしまいました。
それを、最高の虚言、などと強弁する気は、私にはありません。
せめて中毒で命を落とさないようにしたいものだと思っています。