11月29日の父の本葬の前に、最後のお参りに実家に行って来ました。
次はもう父は墓の中。
淋しいような気もしますが、世の中は生きている人間を中心に廻っています。
死んだ者には、礼をつくしつつも、消えていっていただかなくてはなりません。
父の死後、母は兄夫婦とその子どもたちと同居を始めましたが、嫁姑の関係は良好なようで、まずは安心しました。
少なからぬ金額を、遺産として受け取りました。
母が私を呼んだのは、この遺産の相続の意味合いが大きかったものと思われます。
ありがたいことです。
実家は本葬に備えて畳の張替えをすませ、30畳の座敷、本堂、茶室、離れ、みな新しい畳の香りが漂い、清浄な空気に包まれていました。
父の本葬で畳が日に焼けていたのでは格好悪いですからねぇ。
私の体重のことは、昔に戻ったとか、格好良くなったとかいう評判で、もっとガリガリに痩せている姿を想像していたようです。
学生時代の体重に戻っただけですから、当然と言えば当然なのですが。
NHK松山放送局製作の種田山頭火を扱った番組のDVDを置いてきました。
後でじっくり見ると言っていました。
私としては、私の姿があまり元気がなくて、気に入らないのですが、それも病ゆえと思えば致し方ないことです。
こうして一つ一つ、ライフ・イベントは進んでいくのですねぇ。
そして気がつけば、骨となって石の下に入れられるわけです。
そう思うと人生なんて呆気ないものです。
しかし生きている以上、目の前の仕事を地道にこなしていく以外仕方ありません。
面倒なことですが。
しかし生きるということはそもそも面倒くさいもの。
それを一々面倒くさいと嘆いていては、幸せな生活は送れません。
ライフ・イベントを楽しむ心の余裕が欲しいものです。
今朝はなんだか寒いですねぇ。
このところ、股引が手放せません。
真冬になったらさらに暖かい、起毛した股引をはくことになるんでしょうね。
これでは、いざという時、ズボンを脱ぐことができませんねぇ。
最も今の私には、いざという時など、120%あり得ないわけですが。
先日NHK松山放送局から送られてきた「しこく8」のDVDを何度か見ましたが、私もずいぶん老けました。
髪は黒々ふさふさですが、顔にたくさんの小さなシミができ、痩せたせいか皺っぽくなってしまいました。
その上画面で見る私の動作やしゃべり方は緩慢で、私が思い描いていた私自身の姿とあまりに異なっていて、驚きました。
主観と客観の違いというやつでしょうねぇ。
しかしまぁ、逆に言えば老けるくらいまで生きられたということで、これを寿ぐべきでしょうね。
若くして死んでしまえば、老けた姿をさらすことすらできないのですから。
現に川端康成は、「老醜をさらしたくない」という理由で自殺してしまいました。
自殺する時点で十分老醜をさらしていたように思いますが。
昔から不老長寿の妙薬を求める権力者は数知れず。
しかしそんなものが存在するはずもなく、どうしても若さを保ちたければ、若いうちに自殺するしかありますまい。
そうすれば少なくとも人々の記憶には、若い頃の姿しか残りませんから。
私はこれ以上ないほど長生きして、これ以上ないほど醜く老いさらばえてしまいたいですねぇ。
そうすれば私は人間以上の存在になるでしょう。
猫だって長生きすれば猫又に変貌すると言い伝えられます。
それなら人間だって、仙人にでもなりましょう。
私の人生の究極の目標は、仙人になって猫又を飼うことですかねぇ。