たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

続ける?やめる?また始める?

2012-05-09 02:06:37 | Weblog
 イイ状態でも、悪い状態でも、その原因が自分にあるのかそうじゃないのか、ってのは、思ったよりも、判断しづらい。
 これは俺のおかげ、あれは向こうが原因で悪くなった、って思っていても、長い月日が経つと、やっぱり環境のおかげだなって思ったり、これは本当は俺のせーで悪くなったんじゃん、って想いかえしたりする。そして、こういうことの逆ももちろん存在している。

 それがリアルタイムで観えないせーで、落ち込んだりもするし、表面的に喜んでしまったりもする。

 例えば、手をかけすぎてしまったりすることが典型だと思う。
 その人のために、その子のために、教育的な措置として、とにかく尽くしていたけど、結果、それがその人をよりよくすることにはならなかった、という場合。どこかからか、自分が無難に振る舞うためだけのツールになってた、なんてことはよくあると思う。

 崖を登らせることを教育活動に例えるなら、崖のてっぺんから「ほら、さっさと登ってこいや。」ってやることは教育じゃない。空が飛べる、何でもできちゃう、スーパーマンみたいな生徒を想像してはいけなく、ごく一般的な子がこの壁を登ろうとすることを考えなきゃならないんだから、教育には、ある程度、ロッククライミングができるような、手を掴む場所と足場がないといけないと思う。
 だけど、それが度を過ぎて、階段や、ついにはエスカレーターやエレベーターまで創って登らせてしまっては、それもまた教育ではないのだ。

 一生懸命動いても、また考えても、それがその人のためになるかどうかなんて、わからない。
 だから他人のためになるようなことは必要ありません、っと言ってるのではなくって、気をつけないといけないよね、ってこと。

 っで、何らかの失敗、もしくは成功は、能力のある側が、より早く察知できることなのだ。続けるのも、やめるのも、また始めるのも、能力がある側に、そのチャンスの決定権がある(選ぶのは、能力の無い側だけど)。

 だから、そこから目をそむけてはいけない。必ず、失敗も、成功も、真実を真摯に受け止めなきゃいけないことだと思う。
 教育ではね。

 教育では無い、対等な関係である場合、当然それは変わってくるけど、何をもって対等かが難しいから、今日はここまでで思考を止めておこうと思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ありのままのワタシを認めて... | トップ | 自分の能力に頼らざるをえな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事