たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

恐怖の扱い

2012-06-04 03:09:01 | Weblog
 いつのまにか6月ですね。このままではダメだと思って、ホンモノの生物を無理言って扱いだしてから、もうすぐ一年になろうとは、早いもんだ。
 このままではダメ、ってどの段階で思えていたんだろう。。

 このままの方針で行けば、いずれは、レールから落ちたり、周回遅れになったりするって、頭では理解していても、いざ、それが自分自身について決定してしまうと、とても落ち込んでしまったりする。
 ただ、そこで落ち込めるなら、まだ大丈夫なのだ。今まで飲み込もうとしなかったことを飲み込めるチャンスなだけだし、広い視点でみれば確実に一歩前進してるから。

 恐怖のあまり、リアルを見ない、見続けないで長い期間過ごしてしまう、ってのはよくあることだ。
 現実と介在させないように、インタラクションさせないようにバリアを張ってみたりして。俺は、もともとのCグループの素質がとてもあるので(笑)、自分よりも分厚く氷を張ることが出来る人を観たことが無い、ってくらい、その能力には優れてしまっている。
 恐怖の対象が、レールから落ちることであったり、周囲の評判であったり、色々だけど、自分の恐怖については、よく分かっているつもりだ。

 怖さに対してだけは、素直になった方がイイ。素直に、怖い、って自分のなかで認めてしまった方が、罰を受けない。
 っそ、コトが起こってしまっても落ち込まないために、怖くなんかないさ、って、気持ちの表面上である感情に対して思考し、自分の能力へと責任を追及すればするほど、それは自分の気持ちを殺すことになる。本来、誰がどれほどどんな能力がなくても仕方ないのだから。
 コトが起きてしまった時に、きちんと落ち込めたなら、ちゃんと前進できるけど、「みんな(誰か)もそうだし。」って踏ん反り返ってしまえば、それこそが、俺らが扱わなければならない、怖いお話の始まりとなる。

 だから、恐怖の対象は、はっきりさせておくべきだ。
 俺が何よりも恐れているのは、いつだって、どんな系でだって、変わってしまうことだと思う。特に、自分自身が、変わってしまったり、戻ってしまったり、これだけ変わってきたからこそ言えることだけど、変化が一番怖いし、厄介だと思う。
 最初のシグナルは自分じゃなくても、そこから冷徹になるときに、その行動の原因追究を一瞬のうちに行ってしまって、自分自身が戻らないようにするためだ、って気が付くと、震えるほど怖くなる。

 それを自覚しているから、次の行動が思案できる。
 能力依存じゃなくって、気持ち依存で、新しい扉を開けることができるのだ(これをズルイ手段だと思うヤツこそが、賢いだけで聡明ではないヤツなのだと思う)。すると、これまで引っかかっていた問題の"果て"をちゃんと感じられるのだと思う。っで、そこからやっと、能力を上げることができる。

 共焦点レーザー走査顕微鏡を使って、細胞性粘菌を観察すると、レーザー照射によって、粘菌達がだんだん弱っていく。粘菌は弱っていくと、まん丸になる。粘性が少なくなって、丸くなってしまうと、アメーバ運動で移動することが殆どできない。
 顕微鏡内の同じ視野で写真を撮り続けていると、レーザーが一部の粘菌達に、ずっと照射される。そして、どんどん弱っていく。でも、丸くなる前に視野から逃げていくヤツがいる。その恐怖を分かっている粘菌が、心に飲み込み始めた粘菌が、視野から逃げていくのかも、などと想いながら、自分の恐怖について考えたりしていた。

 そうこうしている間に、自分にはレーザーに耐える能力が無いからいけないのだと、視野に残ることを選択し、結果的に俺らからのレーザー攻撃を受け続けてしまった粘菌達は、丸くなってしまった。
 この丸くなってしまった粘菌達が、元に戻って、元気になるまでは、時間がかかる、死んでしまっていて戻らないこともある、って解説もまた、俺の心の中に飲み込もうとした。

 そして、こういうことを遥かに超える何かや、物理的な何かがあることが、「命を運ぶ」ことなのだと思いながら、丸くなってしまった粘菌の復活を、少しだけ待ってみたりして。。
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